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中島、監督しようぜ!  作者: だいふく丸
4/23

【第一球】3

【3】

 四月十四日、土曜日――。

「う~ん、どうしてかな~。なんでかな~」

 二年E組担任の白川はわずか三帖の応接間で、生徒と向き合っていた。

 目を瞑りながら眉間に皴を寄せ、指先で二の腕を小刻みに叩く。

 教師をただの生活費を稼ぐ職と考えるならば、生徒の相談などテキトーに右から左へ流し、学年主任に提出する勤務報告書をさっさと書き上げ、池袋の街コンでも合コンにでも繰り出すだろう。

 しかし、白川は教師という職を誇りに思っていた。

 生徒のためなら他校の女教師との合コンを断ってでも赤点危機の生徒に補講し、付き合いたての彼女よりも遅刻常習犯の家へモーニング訪問し、バイト先を無断欠勤した生徒がいたら報告書に記載せず、店長へ頭を下げに行く。

 なので、三十三歳の彼は結婚相手のいない、出世とは無縁の平教師――。

 そんな生徒ファーストの担任を悩ます新たな問題は、向かいの中島大輔だ。

「――で、先生。あの二人は俺のことに気付いているんですかね?」

 目を閉じたまま、口だけを動かす。

「いや……気付いて、いない、はず」とても歯切れが悪い。

「でも、毎朝勧誘にやってきますよ」

「お前の本名を知る人間は一部の教員数名だし、今はメガネキャラだし、髪型も今風のナイスパーだし……。気づく要素は、ない、はず」

「じゃあ、なぜ野球部に誘ってくるんです? 野球タコもバレたし……」

「お前の存在はトップシークレットだぞ。生徒が知るはずない」

「でも、気付いていますって……もしかして、アホの直感?」

 薄らと目を開け、

「そうかもしれん……もしや、坊主の面影で気付いたとか?」

 大真面目な相談を茶化され、中島は疑いの目を向けた。

「先生がバラした、じゃないですよね?」

「ア、アホ! マル秘の個人情報を晒せば即転勤だわ!」

「先生の性格からして、『弱小野球部を強豪にすれば出世できるかも』って、考えてそうですけど……?」

「アホ! それは……でも……思っていたよ」

担任は潔く自白した。

「いたのかよ!」と、正直な答えに生徒は目を丸くする。

「悪いのかよ!」

本心に気付かれてしまい、白川は開き直った。

「俺だって元球児だ。教師になって、野球部の監督になって、甲子園を夢見た。それがなんだ、まったく強くなんねぇ! だから、あの四十万がうちに来るって思えば胸が騒ぐじゃん……もしかして都立で甲子園って思うじゃん……内心の自由じゃん……そんぐらい許してちょうだいよ……」

 大人が泣きそうなので子供は許す。

「弱いのは指導力の問題でしょうに」

 ムッとした顔で、「なんだ、俺が悪いのか? でも絶対に違う!」

「よく言いきれますね」中島はあきれ果てた。

「だって、校庭だと危険だからって硬球禁止だぜ。だから練習しに西ヶ丘のグラウンドまで行くんだぜ。練習メニュー考えても、あいつら見に行かないとサッカーするんだぜ。そんで、マネはアホみたくダッシュさせて、大事なエースをミートグッバイさせんだぜ。それも春大前に離脱だぜ。ああ……日曜の試合詰んだぁ……夏大どうなっかなぁ……」

「……アホは怖いですね」さすがに同情をよせた。

「ほんと、アホは怖いぞ。でさ、サイカスって普段はどんな練習を――」

 ハッ! 口が滑った白川は凍りつく。

 少年は心の中で、こいつもアホか、と悟った。

 サイカスとは、埼京大学付属春日部高校の略称で、埼玉県人なら知らぬ者がいない学業もスポーツも名門中の名門だ。彼は今年の二月まで通い、彼は野球部で一年にして正捕手として学校の看板を背負い、甲子園の土を踏んだ。

 しかし、三回戦で、彼はホームクロスプレーで相手捕手を負傷させた。

 スパイクの刃が相手の右腕をえぐり、捕手はすぐ病院へ搬送され、二十針ほど縫った。ベース付近は雨が降っていたこともあり、赤い海となった。

 この危険なプレーは《殺人スライディング》と呼ばれ、試合後のネットニュースやスポーツ紙、翌日のワイドショーが続々と報道した。

 動画投稿サイトでは五〇〇万回以上再生され、彼と学校への誹謗中傷コメントも様々な掲示板で書かれた。

 そして、彼はこの《殺人スライディング騒動》をきっかけに野球を辞めた。

 

 キョロキョロ、チラチラと白川は申し訳なさそうに中島の顔を覗く。

 テンパっているのだ。生徒と寄り添うどころか、生徒の傷をえぐったから。

「――あの、先生」ふと中島が口をすぼめた。

 ビクッと、担任は背筋を伸ばす。

「は、はい! なんでしょうか?」

「先生は……アレを『わざと』、『事故』、どっちだと思いますか?」

 頬に氷を押されたような、反射的に逃げたくなる質問だった。

 大人は静かに鼻から息を吐く。

「お前はどう思っているんだ?」

 小さく首を右に左と傾げ、

「先生の意見が聞きたいんですよ」と少年は答えた。

「意見なら三月の面談で言っただろ。俺はアレを『事故』だと思っている。相手捕手が焦ったせいで起きたプレー、今でもそう思うよ」

 相手は春からコンバートしたばかりの捕手だった。逸れた返球を体で捕りにいき、両手でグローブを差し出すよう、ホームへ飛び込んだ。

 だが、飛んだ方向が悪く、スパイクの刃が右腕をえぐった。

 右つま先の感触を思い出した少年は、俯いたまま呟く。

「さよう、ですか……」その目線はテーブルの花瓶に向けられる。

「まだ、夢で見るんです。何度も『なんで頭から飛び込まなかった』って、『スライディングなら相手がビビる』って、一瞬でも思ったんじゃ――」

「バカッ!」唾が花瓶に飛んだ。「あれは事故だ。野球知らねぇキャスターの言葉を真に受けんな。せんベー食う主婦を煽っているだけなんだから」

「でも……」

「でも、じゃねぇ!」白川は唾を飛ばす。「そんな後付け設定したら、天国のかーちゃんが泣くぞ。相手とも和解したんだし、これ以上考えるなって」

 試合後、彼は監督と部長の三人で病院へ赴き、負傷した捕手へ謝罪した。相手校は穏便に済ませたく、すんなり謝罪を受け入れた。

「当事者で解決したなら、周りがとやかく言う必要はない。だから、悪いとしたらお前でも相手でもなく、世間様と前の高校だ。それに、誤審もあった。今は母親の名前で新しい人生を歩け。なんかあったら亀岡さんに言えばいい」

「そう……ですけどね」

 これだけ熱弁しても浮かないままの中島に、

「――ったく、わかんねぇ奴だな。俺はお前の担任。お前は俺の生徒。うちでどんなことがあっても味方だって。だから、うちでは楽しく過ごせ」

 バチン! 弱気な彼の肩を強く叩いた。

――これでわかってくれたかな?

 教師としての手応えを感じるも、振り向く生徒の顔はひどく険しかった。

「先生、これは体罰ですよね?」

 その言葉は教師にとって背筋が凍るどころか、首を飛ばす宣告だった。

 一対一の個室で、生徒をバチン、だ。女性教頭から『体罰は絶対にダメですよ』と釘を刺されている。問題を起こせば毎日サバイバルの村へ島流しだ。

「イヤイヤイヤイヤ、励ましだから! 白川流の一種のサービスですから!」

 冷汗が身体中から溢れ出す大人に、

「……冗談ですよ」と少年はほくそ笑む。

「おい~、趣味悪すぎだって……。まー、お前は一人暮らしを頑張れよ。バイトが落ち着いたら、テキトーに文科系の部活でもやればいい。で、新しい友達を作ればいいからさ」と、白川は精一杯に生徒を気遣った。

「……考えておきます」

 中島はガラケーをちらり見て、テーブルを杖に腰を上げた。

「もういいのか? 他に話したいことは?」

「バイトがあるんで。先生、ありがとうございました」

「ああ、また何かあったら話してくれ」

 と、優しく肩に触れる。「その伊達メガネ、けっこう似合っているぞ」

「……まさか、コレ、なんですか?」

 生徒との恋愛は禁則事項だ。相手が女子でも男子でも同じ扱いになる。

 島流しどころか、下手をすれば監獄行きだ。

「イヤイヤイヤイヤ、俺は女好きだから。別にゲイがダメじゃないぞ。俺の好みだから。美人かつボインで、ムチの扱いが上手い女がいい!」

「学校で何を暴露してんすか?」

「お前が言わせたんじゃねぇか! ま、気にすんなアアアアアア、だな」

 にっこり親指を立てる白川に、中島は頭痛を抱えながら部屋を出た。

花瓶の、黄色い造花が残された教師に微笑んでいる。

 ――しゃーねぇ! 

ため息のような一言を漏らし、電話をかけた。

「あ、亀岡さんですか? 担任の白川です。大輔のことでちょっと――」

 

 ――生徒だから、か……。

 正門を出て数秒、商店街をふわふわした気持ちで歩く中島は、担任との会話を思い返していた。

 白川はどんな生徒にも慕われるいい教師だ。彼もそう思い、気遣いには感謝している。けれども、頭の隅から悪魔の囁きが聞こえてくる。

『それが仕事だからだよ。保身のためだ。当たり前だろう?』

 もしも、ただの大人と子供なら、先生は……。

 先生と生徒の関係は特別だ。教える側と教えられる側。赤の他人でも教え子の失敗を親のように諭し、相談に乗る白川はこの関係を大切にしている。

 だからこそ、本音を言うよりも、生徒に合わせて心に響く言葉を考える。

 それが教育者として正しいのか、間違いかは高校生の彼にはわからない。

 だけど、その気持ちは痛いほど感じていた。

 教師って……キャッチャーと同じだよな。

 横を通り過ぎる、自転車に乗った野球少年たちに白川の苦労を重ねた。

 小中高と中島は捕手をやり。捕手の楽しさと気苦労を思い知った。

 リトルリーグ時代――ある練習試合の五回表、二死満塁の場面で、

『ダイ、ここはどんっとインコースだ! 直球勝負だ!』

 と、投手は主張した。それに反して、捕手は首を振る。

『ダメだろ! 四番だし、一点あげてもいいから、ここは――』

『俺を信じられないのか? キャッチャーならピッチャーを信じろよ!』

 投手は力強くいった。捕手はしぶしぶ従うしかない。

『わかったよ。その代わり、厳しく投げろよ』

 そして――、カキーン! 

快音とともにインハイへの甘いストレートは右中間へ飛んで行った。

 試合後、普段は優しい女性監督が配球の理由を尋ねた。

『大塚くん。どうしてインコースへ投げたの?』

『ダイが大丈夫って言ったから……』

ええええええ?! 投手はうそをついたのだ。

『四十万くん。あの場面はアウトコースって、前に言ったよ、ね?』

 打ち取れば投手の手柄、打たれれば捕手が責任を負う――。

 野球は、投手がいい球を投げてくれないと勝利が遠くなる。だからこそ、捕手は投手の性格の長所と短所を把握し、いい球を投げられるよう気遣う。

 その点、教師も同じだ。生徒という投手を諭し、伸ばし、育てる。

 褒めたり、叱ったり、嬉しいときは共に騒ぎ、悲しいときは共に泣く。

 寄り添うって面倒だよな。でも、あの人はいい先生……なのかな?

 彼は迷っていた。担任を信じるかどうかを――。

 

 中島は荒川桜堤防緑地に来ていた。

 バイトがあると言ったのは嘘だ。土日は入れていない。

 ここは埼玉県から荒川と、隅田川へ合流していく新河岸川が流れ、この二つの川が挟む緑豊かな土手の下、荒川河川敷には数面の野球グラウンドがある。

 土手は、春は桜並木の花見スポットと知られ、夏はカラフルな花火が上がり、秋は鮮やかな紅葉で彩る。だが、冬は極寒地帯。犬ですら散歩を嫌う。

 桜木の下、新河岸川沿いの土手に寝そべり、空を見上げた。

 陽射しから逸れた真っ昼間の水色に、わたあめのような雲が漂っている。

 三月は桜が宙を舞っていた。花びらが心の大きな穴を塞いでくれたけれど、月が替わると花は散り、薄化粧が剥がれた樹木は寂しさを感じさせる。

 彼以外にも悩み人が周りにちらほらいるので、寂しくはなかった。

 他方で、川の向かいはテニスコート。大学生だろうか、若い男女の楽しそうな声が届く。そして、心の穴が何かを訴えてくる。

『バイトが落ち着いたら、テキトーに部活でもやればいい』

 教師の言葉が過った。再び空を見上げる。

 ――今は……バイトだな。土日もいれっか……日曜は休みたいけど。

 体育会系の血か、暇になれば身体が疼き、汗を求めたくなる。

 だが、彼はそこから距離を置きたかった。

『新しい友達を作ればいいさ』

 今の彼にとって友達も大人も、ただの敵でしかない。


 去年、九月――。

 新学期が始まった頃、校内を歩く彼の背中には多くの言葉が刺さっていた。

『ねぇ、四十万君ってあの子でしょう? ニュースになった』

『よく学校来られるよな。こんだけ騒ぎになってんのに』

『夕月、あいつってサイコなんでしょ? 部でもヤバい奴なんでしょ?』

『あ、えっと……。そうだったかも……』

 大会前、甲子園優勝を目指す野球部壮行会で、彼は学校のヒーローだった。『ダイ、ホームラン打てよ!』『四十万君、絶対応援に行くから!』

 普通科で野球部に入ることは簡単だが、名門と呼ばれる部内でレギュラーになることは至難の業だ。スポーツ科の授業は午前中のみで、午後は専用グラウンドで練習だ。授業時間の違いが練習時間に直結するからだ。

 それでも彼は一学年の普通科で、スポーツ科の先輩捕手からマスクを奪い、甲子園の切符を勝ち取った。学校中が部の新ヒーローを褒め称えた。

『俺らはスタンドで応援すっから! ダイ、俺らの分まで頑張れよ!』

『四十万君、すっかり一年生の代表だね! 私もスタンドで応援するよ!』

 同じ一年生の仲間や女子マネージャーも、彼が誇らしかった。

 彼もまた、学校の期待を背負うことを誇らしく思っていた。

 しかし、あの騒動を契機に、彼は天界から下界へと転がり堕ちてしまう。


『――あのプレーは指導不足だったかもしれない』

 試合後のインタビューで、監督は報道陣の問いにそう答えた。

 記者が続ける。『ということは、監督の指示ではないと?』

『あんな危険なプレーを指示したことはありませんよ』

 満足そうに記者は憔悴しきる選手にマイクの矛先を変えた。

『では、四十万くん。あれはワザとやったの? 危険を承知で?』

『いえ……ワザとじゃないです。ワザとじゃ……』

『でも、河内捕手は君のスライディングで大ケガした。なぜ、ヘッドスライディングではなく、足から滑ったの?』

『無我夢中だったので……相手がケガするなんて……』

『君は危険を承知でスライディングをしたんだね?』

『いや、危険だなんて……ルール上……問題ないし……』

 このやり取りは、すぐにネットニュースになった。《事故か、故意か? 危険なスライディングの是非》という過激なタイトルで、ネットに広まり、タイトルを見た一部がネットで彼を叩いた。

 人間失格、サイコパス、犯罪者予備軍……あらゆる誹謗中傷が掲示板に書かれた。教育が悪い、と学校を断罪すれば、野球部と無関係の部活や一般生徒のSNSに怒りをぶつけたのだ。

『どうしてくれんだよ! 俺のツイッター荒らされたぞ!』

『サイテーだわ。辞めちまえよ、学校をよ!』

 クラスはおろか、学校中で《四十万大輔退学キャンペーン》が始まった。

『四十万は悪くねぇって!』『お前らに、こいつの何がわかんだよ!』

『お前ら、なんで庇えるんだよ!』『こいつの身勝手なプレーのせいで――』

 ある日、野球部内の『事故』派が、反対派である『故意』派と衝突した。

 この衝突はOB、監督、学校経営陣も巻き込み、大騒動へと発展していく。

 学校は部の内紛を公にしたくなかったが、OBが部内の子供を経由して事情を知り、PTAに拡散、野球部の抗争派閥に保護者と一般生徒も加わった。

 完全に二分してしまった部は新チーム結束がままならず、春の甲子園出場がかかる秋大会で初戦敗退を喫してしまう。

 これに怒ったのが中立派のOBたちだ。名門の看板が汚されていく様はどうしても我慢できず、緊急集会を学校側に要求し、火に油を注いで炎となり、大きな火事となった。OB同士の対立は、もはや止める手段を消した。

 この焦げ臭い匂いは週刊詩にとって大好物だ。

 このお家騒動を知り、

《殺人スライディングの余波! 名門校の悪しき奴隷制度をスクープ!》

 電車の中吊り広告によって、野球部の闇が世間に広まった。

 この一報を受け、監督は責任をとって辞任、後を追って彼も退部する。

 彼は火中の栗、その者だ。人間が怒り、炎を滾らせていく過程はひどく醜く、もはや当事者などマッチ棒のような存在で、燃えれば捨てられるカスにしかすぎなかった。

 ふてぶてしく座る理事長に、俯いたまま彼は告げた。

『今すぐ辞めたいです。別の学校に行かせてください……』

『四十万君、考えなおそう。君は部の闇を炙り出してくれた救世主だ。部の謹慎が明ける春に、新生野球部を引っ張ってほしいんだ』

『お願いします……辞めさせてください』

 彼の言葉に、理事長の笑顔がみるみる曇っていく。

『なら、今後のことは君のお父さんとよく話しなさい。彼は素晴らしい弁護士だから、ね? 我が校は君の新しい人生を邪魔しないから、ね?』

 こうして彼は学校を去った。そして、この騒動で学んだことがある。

 人間は自分の取り巻く状況によって味方にも敵にもなる、と。

 たとえ、ひとつ屋根の下で釜の飯を食べた仲間でさえも、金という甘い誘惑に負けて裏切る。信じていた同級生も信頼していた先輩も、実の親も……。

 信じて用いろ、信じて頼れ。信用と信頼は似ているようで違う。

 だが、彼は思う。違っても選択した自分に全て跳ね返ってくる、と。

 奇しくもそれは、ホームランを打たれた捕手の責任と似ていた――。

 

 新河岸川の流れは、心電図のよう穏やかな波を打っていた。

 草木を揺らす、涼しげなそよ風が彼の目元に触れた。ひどく冷たい。

 え、涙? なんで……?

 知らないうちに泣いていた。急に恥ずかしくなった。

 十七歳、高校生、一人、泣く。

 頭に浮かんだ単語は彼の頬を真っ赤にさせた。

 こんなん、情けねぇって……。ゴシゴシ、強めに目元をこすった。

 そのとき――、

「――四十万大輔、見っけ♪」

 朗らかな女の声がした。さも、かくれんぼの鬼のような声だ。

 後ろを振り向くと、土手上で自分を見下ろして立つ、たんぽぽのような、無邪気に笑う女子高校生がいた。

 気が強そうな、吊り上がった大きな目と口元とは真逆の、赤子のような白肌に薄紅色の頬で、柔らかそうな薄黄色の髪がふんわり風と戯れて、肩を優しく愛でている。まるで彼女の性格を現しているように。

「あの……どちらさま――」

 制服からして青羽高校の生徒、らしい。でも、彼には見覚えがない。

 そのとき、ピュ~~、ふわふわ~~。

 突風がたんぽぽの白い綿毛を飛ばしたのだ。

 カーッッッ! 急激に少女の顔が紅潮し、浮いたスカートをはたき落とす。

 ギロリ、彼を睨み刺し、

「見たわね?」と問う。彼の位置は絶好のスポットだ。

「いやいや、事故でしょ! 今の事故でしょ!」

「でも、見た、でしょ?」

「いやいやいやいや、事故だから。絶対に事故だから! 俺、ここで寝そべっていただけだし、君のこと知らないし――てか、なん、で……!」

 大輔はハッとした。パンチラパニックで一瞬記憶が飛ぶも、彼女は本名を知っていた。それも、同じ制服――。

 真っ赤に憤怒する少女は彼の前へ立ち、上目遣いで問い詰める。

「ねえ、パンツ見たの? 見なかったの?」

「ああ、見た。見たよ!」事実だから認めるしかなかった。「――でも、見えたんだよ。見たくて見たわけじゃない!」

 よくよく見れば美形な顔立ちで、160㎝? 彼の肩ほどの身長だ。

 ただし、胸元はとても寂しい。クラスのぽっちゃり男子よりも劣る。

「フ~ん。認めるんだぁ」

 私の勝ちだと言わんばかりに右拳を突き出し、

「乙女の秘密を見た罰として、責任をとりなさい!」

 と、唐突な宣告だ。「はぁ? 責任!?」

 驚いたあまり、大切なメガネがずれる。

 少女の大きな声に通りかかった大学生風のカップルがざわつく。

「責任って……あいつ、サイテーだな。しかも、高校生じゃん」 

 大人の事情が絡みそうな話だと思われているようだ。

 今後の生活に支障が及ぶかもしれないと察知した中島は、ひとまず傍若無人な少女を説得することにした。

「どこの誰かは存じませんが、こういうのは止めません? 冤罪ですよ?」

 少女は腕を組み、鼻をツンとさせ、「責任とったらね」と声を張る。

 カップルの女が続く、「ゲス野郎……死ね!」と。

 予期せぬ風評被害は回避しなくてはならない。

「あの……なんなんです? いきなり現れて責任とれ? 頭大丈夫ですか? 変なもの食べたんですか? そうですよ、変なもの食べたんですよ」

 説明口調は周囲への誤解を解くためだ。事情を察したのか、カップルは静かに場から去るも、一歩も引かない少女は黄髪をなびかせる。

「私は二年A組の水木華みずきはなよ。単刀直入にお願いするけど、明日の日曜日、九時にここに来てくれない?」

「だから、なんで? 本当に頭大丈夫ですか?」

「ええ、よく言われる。でも、そんなことはどうでもいい。私はあなたの正体を知っている。殺人スライディング騒動の当事者、四十万大輔だと」

「だから――まさか、お前か? 山寺と北風に俺のことをバラしたのは?」

 大きな瞳が細くなる。「タイヨー? ユズ? さぁ、なんのことか……。それより、正体をバラされたくなければ言う通りにしなさい」

 話がまったく噛み合わない。山寺や北風よりタチが悪いようだ。

 殴りたい衝動を押えつつ、彼は彼女の素性を探ることにした。

 なにせ正体を知っている。今後の危険人物だ。

「わかった。話は聞く。まずは順序通り話そう。なんで俺を知っているの?」

 水木の表情が和らいだ。「内緒♪」

 イラっとするも、「じゃあ、なぜ俺がここにいるってわかった?」

「それも内緒♪」

 ブチブチ、イライラが募り、口調が硬くなる。

「じゃあ、明日は、何が、あるので、しょうか?」

 水木は軽い足取りで土手から川沿いの柵へ移ると、くるりと彼に振り向き、力強く親指を立てた。「――中島、監督しようぜ♪」

「はあ?! 監督ぅ?!」

「だぁかぁらぁ」目と鼻の先まで近づき、彼の大切なメガネを奪う。

「――あなたには野球の才能がある。だから、学童チームの監督になってほしいのよ」額を抑えつつ、「なんだ、それ……」と頭が痛くなる。

「詳しい話は明日話すわ。だから、とりあえず、明日九時にここに来て」

 有無を言わせない口振りに、悪い大輔が顔を出した。

「……お前さ、何様だよ。いきなり登場して、偉そうに人をハメて、謝りもせずに、今度は『明日九時にここに来て』だぁ? 監督しろだぁ? ざっけんなよ、マジで! バーカ!」

 普段怒り慣れていないせいか、モブチンピラのような啖呵だった。

 彼自身も実感しており、耳が赤くなり、たまらず少女から視線をそらす。

 にもかかわらず、なんと、水木の目からは涙がポツリ――。

「ぐすん……。ひどい、ひどすぎるよ……。ねえ、私が全部悪いっていうの? ねぇ、ダイちゃん」

「ダイちゃん? ――って、泣くことはなくね?」

 ハッ! 彼はまたも気付く。背中に無数の槍が刺さっていることに。

 怖くて振り向けない。なぜなら、水木の泣き声に人が集まっているのだ。

 そして聞こえてくる、「ゲス野郎、死ね!」という女子の声――。

「ひどいよ、あんまりだよ……ぐすん」

「俺のセリフだよ!」

 不幸なことに、水木の嘘泣きは女優ばりに巧かった。

 ドラマでゲス彼氏との別れ話に泣き始める可哀そうなヒロインそのもの。

 こうなればゲスが取る行動は一つ――。

「うわ! 逃げたぞ!」

 ローファーでも、スクールバックを持っていても関係がない。

 一心不乱に彼は逃げた。恥だろうが、逃げるが勝ちだ。

 新荒川大橋から青羽駅まで徒歩十五分はかかる道を、靴底からのアスファルトの痛みに耐えながら、五分で駆け走った。

 呼吸が落ち着き、パンパンに張ったふくらはぎを引きずりながら、途中の本屋の窓ガラスで思い出す。「――あれ? メガネ……ハッ!」

 中島の本体は水木に奪われたままなのだ。

 相棒を失った彼は、ひとまずトボトボと自宅へ帰ったのだった。


「あ~、クソ。何者なんだよ、あいつ……」

 河川敷で出会った水木華を気にしつつ、団地の階段を上る。

 すると、

 コンコンコン――包丁で何かを刻む、まな板の音が部屋から聞こえた。

 咄嗟にドアノブを回す。案の定、開いていた。

 ガチャ。

「ダイちゃん、お帰り。今夜はカレーよ」

「ただいま。じゃあ、ハチミツで甘口に――って、なんでいんだよ!」

 ニンジンを切っていたのは亀岡美春かめおかみはるだ。

 表参道で彼女とすれ違えば、その美貌と色気によって、デート中の彼氏は恋人を置き去りに声をかけ、彼女から右ストレートをプレゼントされる。

つまり、魔性という言葉が似合う、男をホイホイする美魔女だ。

 加えて、ハイブランドなワンピースと黒縁メガネの相容れないギャップが、街往くおじさまたちをも虜にする。その正体は――、

「私はあなたの世話人かつ代理人よ。この街を紹介し、家も見つけ、高校の転学手続きもしてあげた恩人に、その言い方はないでしょ?」

「その節は大変お世話になりました。で、来た目的はなんだよ」

「様子を見にきたの。天国の美冬があなたを心配していそうだし、男の一人暮らしは悪さが付き物だし」

「何もないから。学校もバイトもボチボチやってるから、とっとと帰れよ」

「それなら私も安心だったわ。あのPCを見るまでは――」

 亀岡は刃先を、居間のちゃぶ台のノートPCへ向ける。

「あなたの留守中に中身を見せてもらった。そして、あるものを見つけた」

 その一言は男のシャツの汗を一気に冷やした。

「み、見たのか。人のパソコンを?」

「ええ、見たわ。そして、見つけた、悪性ウイルスを。でも、あのパソコンは私自らが買い、ウイルス対策を施した。なのに、ウイルス……なぜ?」

「そ、それはたぶん、迷惑メールを間違えて――」

 目があっちにこっちに泳いでいく。一方、包丁を構える亀岡のキツネ目はレンズ越しでも真実を見通す探偵のよう凛とし、犯人の動揺を突き刺す。

「ダイちゃんはスマホを捨ててガラケー。その理由は人間関係を断捨離したからでしょ。PCメールを作った目的はなに? SNSに登録するため? 新しい友達ができたの? 人間不信なあなたが?」

「いやあ……色々だよ。転学すると、色々あんだよ」

「色々とは、何?」

「い、言えるかよ。そんなこと」

「なら私が代わりに言いましょう。中島、いいえ四十万大輔君。あなたは昨日深夜にエッチなサイトを閲覧したでしょ! そして、あろうことか、違法ダウンロードを敢行し、私が買った大事なPCをウイルス感染させたのよッ!」

 真実を突かれ、言葉が詰まる。

「しょ、証拠は? そんなの妄想だっ!」

 目の前にいる女は、まるで犯人を罠にかけた名探偵そのものだ。

「フフフ、言うと思った。逃げ場のない犯人は必ず『証拠を出せ』って言う。これ、ミステリーのお約束ね。ほら、私のスマホを見なさい」

 探偵は焦る犯人にとある動画を見せた。

「な、なんだと?!」大輔は驚愕した。

 その動画にはそこにはサイト閲覧履歴にダウンロード動画、感染ウイルスをバスターしている様子が画面内に収められていたのだ。

 ガクン、と犯人の膝が折れる。

「出来心だったんです……。金曜日はお楽しみの日なんです……」

「まったく、男子高校生は頭の中がエロ畑ね。最近のウイルスは遅効性が多くて、気付いたときには虫歯のように手遅れよ。サイトを開くときは絶対にフィルターをかける。これ、社会の常識です!」

「はい……すみませんでした!」

 大輔のPCには高性能のウイルス対策ソフトがインストールされているが、OFFにすることで男子の楽園にアクセスできる。彼は誘惑に負け、バイトを頑張った自分へのご褒美に、こっそり楽園で果実を摘んでいた。

「それに、違法ダウンロードは犯罪よ。違法サイトでもダメよ!」

「わかってはいるけどさ……。男子高校生のエロは生理現象なんだよ」

「だったら私を、つ・か・い・な・さい☆」

 と、ランウェイを歩くモデルのステップで彼の頬から胸を指先でなぞる。

「気持ち悪いって! 熟女はボールだわ!」

 ゴロゴロゴロ――その瞬間、なぜか蛍光灯が点滅し始めた。

「なんですって、熟女はボール? ハッ! 女の魅力もわからないガキが! 女の子を抱きしめたこともないアニオタは、こっちが願い下げよ!」

「な、なくて悪いかよ! まだ十七だし、本気出していないだけだし」

「じゃあ、その本気をいつ出すのよ? 明日? 来月? 来世?」

「好きな子ができたら本気出すし! それより、早くカレー作れよ。昼食ってないから腹が減ってんだよ」

「私はあなたのお母さんではありませ~ん♪ 野菜は切ったから、あとは自分で作ってちょうだい、な!」

と、白エプロンを脱ぎ捨て、包丁も投げつける。

 ゴツッ! 「あっ、ぶねぇよォ! 何しに来たんだ、ほんと……」

「そんなの決まってるじゃない。仕事をサボるためよ♪」

 亀岡は彼にバトンタッチし、居間のPCから動画配信サイトにログインして大好きな海外ドラマを見始めた。本当にサボりに来たようだ。

 ――この人、ダメな大人だ……。

 壁に刺さった包丁を抜きながら大輔は思った。

 そして、カレーを作り始めるその背中を、料理をする子供を心配そうに見守る母親のように、亀岡はチラチラと彼を覗いた。

 大輔の母、美冬は彼が一〇歳のとき病死した。

 それに伴って父の竜哉と代々木から北千住の父方の実家に引っ越した。

 竜哉は《日本最強の捜査機関》東京地検特別捜査部の敏腕検事として多くの事件を担当していたため、家に帰ることは月一度あるかの多忙さで、四十万家の祖父母と彼の事務官であった亀岡が大輔の面倒を看てきた。

 五年前に竜哉が検事を辞め、弁護士として日本最大手の大江戸総合法律事務所に移籍した際も、あの騒動後も、母と子のような関係は続いた。

『四十万の名を捨てるとは、どういうつもりだ、大輔ッ!』

『子供を裏切ったくせに父親面か? 俺は母さんの名前で生きていくと決めたんだよ、クソったれッ!』

『ちょっと、二人とも落ち着いて!』

 父と子は水と油になった。それでも亀岡は大輔を見捨てなかった。

『お姉ちゃん。私になんかあったら、あの子をよろしく、ね』

 その理由は亡き妹の子供だから。両親が離婚して互いの苗字が変わっても、離れ離れに住んでも、流れるこの血は妹と一緒だから――。

 

 パク。もぐもぐ――あ、まっ! 

 亀岡にとって顎が引くほどケーキのような甘さだが、作った当人はパクパクとスプーンが進んでいる。

 無我夢中で食べる旺盛さ、丸みを帯びた新月眉とぱっちり目元が緩めば、どこか懐かしい顔が浮かんでくる。

「あら?」本体がないことに気付いた。「――あのメガネは?」

「あ、そうだった。もう一個、ちょうだい?」

 大輔が両手を差し出すも、バチッと叩かれる。けっこう強め。

「無理ね。伊達メガネはもうない。で、どうしたの?」

 実は失くした、と誤魔化す選択肢もあるけれども、相手は敏腕弁護士をサポートする右腕だ。法曹界では《法廷のクリスティー》と恐れられ、相手側がひた隠しする真実を見抜く名探偵でもある。

「実は――」勝てる見込みはなく、傷が浅いうちに自供する。

 河川敷の件、水木華とのやりとりを聞いた亀岡は、ニッコリ微笑んだ。

「ウフフ……それは恋ね♪」

「いや、違う!」

「もぉ、照れちゃってぇ~。このこのぉ~」

「あ~、うぜぇ!」

 亀岡は話を戻す。「監督、やったらいいじゃない。パンツのお礼に」

「パンツは関係ねぇ。――簡単に言うなよ。バレたらどうすんだ」

「どのみちその子にバレたじゃない。その子を味方にしないと学校に正体が広まって、残りの二年間はぼっち道一直線よ」

「そう、だけどさ……」

「怖い気持ちはわかるけど、明日は彼女に会うこと。放置プレーはダメよ」

 ――すでに放置したんだよな……。

 少年は腑に落ちないけれども、大人の意見を渋々受け入れることにした。


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