第8話 襲撃
夢を見た。
幼いころの、忘れたはずの記憶。
そこは帝国の片隅——いや、帝国の「裏側」と呼ぶべき場所。
華やかな街並みの、ほんの一本路地を入っただけで風景は一変する。
貴族たちが馬車を走らせ、香水の香りを振りまく通りの裏で、
瓦礫と汚泥と、飢えと暴力とが渦巻くスラム街。
私は、そこで育った。
親はいなかった。捨てられたのか、死に別れたのかも覚えていない。
気づいたときにはもう、同じように行き場を失った子どもたちと一緒にいた。
盗み、物乞い、時には薬の運び屋もした。
殺し以外なら、何でもやった。
生きるために。
明日のために。
たった一口のパンを得るために。
でもある日——
何日もろくに食べていなかった私は、腹を空かせて入った食料店で、
店主の持っていた鉄砲に撃たれた。
冷たい床に血を流しながら、
空っぽの胃の中で、死が音を立てて膨らんでいくのを感じた。
それが、私の「一度目の生」だった。
そして、目が覚めたとき。
見知らぬ白い天井。
無機質な部屋。
裸のまま、台の上に寝かされた私の胸には、
見覚えのない——それでいてどこか決定的な——傷跡が刻まれていた。
そのとき、私は知ったんだ。
自分がもう「人間」ではなく、
人殺しの道具として、再構築されたのだということを。
ーーーーー
静かな部屋に、微かな衣擦れの音。
フィーアが目を覚ますと、そこにはローズが椅子に腰掛け、静かに彼女を見つめていた。
静かな部屋に、花の香りが漂っている。
薄紅色の薔薇の香。けれどそれに混じって、どこか懐かしい、落ち着く匂いもある。
カモミール――ドライハーブの柔らかな甘みと、癒やしの効能。
ローズが調合した独自のアロマだった。
「……目が覚めたのね」
フィーアはしばらく天井を見つめたあと、ゆっくりと身体を起こす。
「……昔の夢を見ていました」
「昔の夢?」
「はい…ずっと前、わたしがもっと小さな時のことです。
そういえDD…さんは?」
周りを見渡したフィーアが焦ったように尋ねる。
「彼なら治安院へ行ってるわ。ツヴェルフの身元を照合するために。
心配しなくても大丈夫、すぐ戻るわ」
その言葉に、フィーアの肩が僅かに緩む。
「……そう。無事ならいい…です」
フィーアは安心したように息をつく。
ローズは、ふと思い出したように近くの台からオーブを手に取る。
「そうだ。DDから預かってたの。
ツヴェルフと見られる遺体の姿を写したもの。見てみる?」
フィーアが頷き、オーブを見つめると、薄く光がともり、初老の老人の姿が映し出される。
「……間違いないです。この人、ツヴェルフさん……」
ローズは目を伏せ、軽くうなずく。
静かに時が流れた後、ローズが口を開く。
「さっき、うなされてたみたいだけど。
昔のこと…教えてくれる?」
フィーアは静かに語り始めた。
「わたし、浮浪孤児だったんです。
いつもお腹が空いていて…寒くて…
親の顔も知りません…物心がついた頃には…
同じような境遇の子と一緒にいたので…名前もありませんでした」
「バチが当たったんだって言ってたけど…」
「そうですね…いっぱい悪いことしましたから…。
人殺し以外はたいていやりました。
そうしないと生きていけなかったので。
子供がたくさんいて、誰かが盗まないと、みんな飢えて死ぬから」
ローズはしばらく黙りこみ、思う。
(それくらいで魔術師に転生するなら、世界は魔術師だらけよね……
じゃあ、DDの心配は杞憂?)
「人工魔術師計画のこと……あなた、何か知ってる?」
「詳しくは。でも……魔術師を倒せばわかるって、偉い人は言ってました。
…あっ、でもこの心臓には、魔術師の血が使われてるって。
確か、“強奪”って言ってました」
「“強奪”……どこかで聞いた気が…するような気がするわね……」
ーーーーー
その頃――
DDは重たく錆びついた治安院の扉を押し開けると、
受付に身分を提示して、過去数百年に渡る犯罪記録の照会許可を得た。
「個人名じゃなくて、顔の照合をしたい。
100年前まで遡れる記録を見せてくれ」
担当官が怪訝そうに眉をひそめたが、DDが示したのは
ローズに預けていたオーブから転写した「ツヴェルフ」の顔写真だった。
(名前は意味をなさない。奴はツヴェルフ……実験体の番号で呼ばれていた。
ただの番号。記録に名前が残ってるはずがない)
顔画像をもとに、犯罪記録の中から照合を試みる。
重犯罪の記録から検索を始めたが、該当者は見つからない。
「見当たらない? まさか……」
念のため、軽犯罪の記録へと検索範囲を広げる。
そしてついに、一件の記録に目が留まった。
――顔、そして瞳の色。間違いない。
これが、“ツヴェルフ”の元の姿……名前は記されていないが、
30年前に連続窃盗の罪で逮捕された男の記録が一致していた。
判決は……死刑。
(そうか……盗みを繰り返していた義賊。奪った物を貧しい者に配り歩いていたのか)
DDは記録の詳細を読み進めながら、眉間にしわを寄せる。
その記録には殺人や暴行などの凶悪な犯罪は一切含まれていなかった。
(これで死刑か……義賊なら国による見せしめの死刑の可能性が高いな。
いや、それよりも――これで、魔術師への転生素体になるような“罪”だとは思えない)
「確かに盗みは悪いことだ。でも……この程度の罪で、魔術師に転生しない。
記録では殺人さえしてないようだ」
(帝国は重犯罪者を必要としていない?)
その時、頭の中に声が響いた。
ローズの「思考伝達」の魔術である。
『DD、フィーアが目覚めたわ』
思考が一瞬途切れる、だがローズの声は続いた。
『彼女の過去についても聞いた。孤児で生きるための盗みをしてたって。
それと彼女自身、計画についてはよく知らないみたいなんだけど
上からは“魔術師を倒せばわかる”って言われてたって。
それと……例の心臓には魔術師の血が使われてるって』
『魔術師の血?』
『そう、あと誰かが強奪って言ってるのも聞いたって』
『……強奪、って言ってたか?』
『ええ。誰かがそう言ってたって』
DDは口を噤み、再び記録の中に思考を沈めた。
(……魔術師に転生するような悪人じゃない。
ツヴェルフも、フィーアも。なのに素体になった?
そして、魔術師の“血”……?)
その瞬間、一つの名が浮かぶ。
「……アトリ?」
『アトリ…って、神の災厄のアトリのこと?』
今なお語り継がれる伝説の魔術師。
七つの罪――その中で、最も破滅的だった“強欲の魔術師”。
彼女はすべてを欲した。国を、富を、そして
――民の命さえ欲した、史上最悪の女王。
その転生体である彼女の、その真なる罪の形の名は……“強奪”。
DDは立ち上がった。
『なんとなく分かってきた……戻ったら、話をしよう』
『そうも言ってられないみたい、お客さんよ』
ーーーーー
次の瞬間――バンッ!
部屋の扉が、爆ぜるような音とともに蹴り飛ばされた。
破片が宙を舞い、軋んだ木枠が床に転がる。
ローズが目を見開き、フィーアが即座に身構える。
現れたのは、ふたつの影。
「やっぱりいたわね、フィーア……」
最初に声を発したのは、銀髪の少女だった。
その唇に浮かぶのは冷笑、吐息とともに冷気が室内を満たしていく。
「魔力の気配を感じたから来てみたけど……正解だったみたいね」
チェーン。
名を呼ぶフィーアの声に、少女の隣に立つ少年が顔を向ける。
淡く紅い瞳が、静かに部屋を睨みつけていた。
沈黙のまま立つその姿――アハト。
「……どうして、あなたたちが……?」
フィーアの声は震えていた。
答えはない。
けれど、交わされた視線の熱が告げている。
戦いは、もう始まっている。