第1話 DD その①
砂埃に汚れた黒いマントを羽織り、荒野を歩く男。
その背には、魔術の杖と思しき、古ぼけた木の枝が刺さっていた。
左手の先から伸びた麻紐の先には、やる気のなくだらけたような空の皮袋が
まるでその場から動きたくないペットのように引きずられている。
彼が前の町を出発したのは10日ほど前のことになる。
次の町までは、ゆっくり歩いても4日か5日。
1週間分の食料を持って出れば十分に足りるはずだった。
ところが荒れ狂う砂嵐に足止めされ、街道は砂に埋もれた。方角を見失ったのはそのときだ――
節約しながら食べていたが、食料は昨日の朝になくなり
水にいたっては、もう3日も口にしていない。
(腹が減った……けど、どうせ死にはしない。俺たち魔術師はそういうふうに創られてる。
それが“罪を償う者”の宿命……だとしたら、たまったもんじゃないな)
「こんなくだらない苦しみすら、神はただ見ているだけなのか」
かつて神に祈ったこともあった。だが今、祈りはもう呪いに変わっていた。
彼ら魔術師とは、大罪を犯した者の魂が死後天に召されることなく、
その罪を償うために再び地上に生を受けた者なのだと言われる。
その寿命は生前犯した罪の重さによって定められ、罪が重ければ重いほど長命になる。
病に倒れず、自ら命を絶つこともできず、凶刃に傷つくこともない。
ただ天命によって生かされている。
だから飢餓で死ぬことはない。
魔術師の中には、その一生を何も食べずに終える者もいるくらいだ。
でも自分はその域には絶対に達することはないだろうなと彼は思う。
なぜなら彼は、魔術師となったその身でも、なお人間でいたかったから。
彼が小さな町にたどり着いたのは、日が地平へと差しかかろうとする頃だった。
質素な木造の家が点々とする寒村だ。
時間的にはそろそろどこかの家からまきの燃える匂いがしてもよさそうなものだが
匂いどころか、人の姿一つ見えない。
人の気配がないわけじゃない、おそらく家の中にはいるのだろう。
よそ者の自分に警戒しているのか?
村の広場の中央に井戸があるのを見つけたが、
井戸のふちにはうっすらと土ぼこりが乗り、井戸の周りに足跡も見えない。
おかしい。
よそ者に警戒しているだけにしては、明らかに生活感がなさ過ぎる。
この村に中に何かが起こっている気がする。
その時、近くの家の中から「ガタッ」と物音が聞こえた。
やっぱり人はいるようだ。
その家の玄関の前に立つと
「すまん、旅の者だが誰かいないか」と呼びかける。
だが返事はない。
何度か呼びかけてみるが、やはり返事はない。
「勝手に入らせてもらうぞ」
そう言って彼が家のドアを開けると、
そこには息も絶え絶えになった女性が床に伏せっていた。
「どうした、大丈夫か?」
彼は女性の元に駆け寄ると、体勢を仰向けに直すと
首の後ろに手を入れて上体を起こした。
あらためてよく見ると手や顔に広がる無数の黒い斑点。
「黒死の病か・・・大丈夫だ、この程度ならすぐに癒せる」
左手を女性の額の上に置くと、静かに治療の魔術『クーア』を唱えた。
手の平から発せられた青白い光が徐々に女性の体を包み込み、
時間にして10分くらいも経っただろうか、
光が消えた女性の体からは黒い斑点は綺麗になくなっていた。
「癒しはうまくいったようだ、もう大丈夫だ。動けるか?」
掛けられた声に彼の顔を見た女性には安堵の表情が浮かんでいた。
だがそれもつかの間、急に何かを思い出したかのように慌て出すと
「お願いします。どなたかは存じませんが、奥の部屋に子供たちが。
どうか子供たちもお救い下さいませんか」
涙ながらに訴えるその女性に「安心しろ」と告げると
奥の部屋に向かった彼が見たのは、女性よりはるかに衰弱した
ベッドに横たわってる二人の子供だった。
「大丈夫ですか?助かりますか?」
後ろから心配そうに声を掛けてくる女性に「大丈夫だ」と言い聞かせながら
まず手前に横たわっている女の子の額に左手をかざした。
「クーア」
先ほどと同じように、青白い光が女の子の体を包み込んだ。だが・・
(思った以上に体力が消耗している。クーアだけじゃ治りきらんな・・・)
さらに右手をかざすと「エア・ホールング」を唱える。
それは体力を回復させるための魔術だ。
右手から発せられた黄色い光が青白い光に重なり合い、
次第に綺麗な草色となって輝き始めた。
……光が消え、女の子が目を開けた瞬間、男は小さく息をついた。
自分がまだ“それ”を感じるとは思わなかった――“ほっとする”という感情を。
女の子はその視界の中に女性の姿を捉えると、ベッドの上から飛び出して
彼女を抱きしめながら涙を流し始めた。
「さて、もう一人の方も治療を始めるが、この村には他に人はいないのか?
誰一人見えないんだが」
その問いに女性は、村には全部で30人ほどの人がいるが
10日ほど前から疫病が蔓延化してほとんどの人が動けなくなっていると言った。
「つまりこの子を治療したあとは、村人全員を治療しなければならないわけか」
彼は身に着けていたマントを外し、適当に掛けておいてくれと手渡した。
そして袖まくりをすると男の子の治療を始める。
「薄暗くなってきた、明かりを頼む。それと、
この子の治療が終わったら、他の村人の治療も行う。案内を頼む」
わかりました、女性はそういうとランプを取りにいったようだ。
その後、無事に男の子の治療を終えた彼は、
女性の案内で村長の家に向かい、村長とその娘、そして他の村人と、
次々に治療を続けて行く。
「手の空いている者は湯を沸かせ。沸いた湯で体を清めるんだ。
清めが終わった者は綺麗な衣服に着替えて、着ていた衣服は焼却処分だ」
「村長、この村に灰捨て場はあるか?
なけれは各家のかまどから灰を集めるんだ。
その灰を家の内外、人の集まる場所、可能な限り撒いてくれ。
後からの掃除が大変だろうが、灰は病魔を祓う効果がある」
治療のかたわら回復した村人たちに指示を出すと、
村人たちも彼の指示に従い動き始める。
最後の治療が終わったとき、月は天頂を過ぎ、すでに西の空へと傾き始めていた。
奇跡的に誰一人の死者も出さずに彼の治療は終わった。