0-5.心の雨
序章第5話
美晴はフィンとレナードに、自身の世界について手短に説明した。魔法の存在しない世界で日本という国に住んでいたことから、このオーシェントが舞台となったゲームをプレイしていたことを話すと、フィンが驚いたように目を見開く。
「つまり、きみの世界で我々は物語の登場人物だったということかね」
「まあ、そんな感じです。
フィンさんは笠井映治という人をご存知ですか?」
「いや…覚えがないね。師匠や僕たちを登場人物に物語を書いていたのなら、一度は接触しているはずだが。
レオ、きみは?」
「そのような男知らんな。そもそも俺はおまえと違ってお人好しじゃない。
俺たちのことをそっくりそのまま書いた物語が異世界にあるなど、信じられるか」
(そうだよね、普通は信じられないよね。
『オリジン』のストーリーだとか各キャラクターのステータスを言ってみてもいいんだけど……)
『M t O』に関する情報は、美晴の脳に完ぺきな状態でインプットされている。しかしその情報とこの世界の情報が一致しているとは限らない。現にステータスに関しては大きな違いがあったのだ。不用意に情報を話してそれが間違っていたら、気難しい精霊の信用を得ることはできないだろう。
どう信じてもらおうか考える美晴に、フィンが尋ねる。
「僕の故郷は知っているかね」
「イエローソイル地方の〈空木の村〉です…よね?」
「うん。じゃあ、僕とレオが出会ったのは?」
「レッドサンディー地方の〈煌めきの都〉です」
「ジェイドの好物は?」
「雪リンゴです! なかでも、シルバークリフ地方でしか生らない白い皮の雪リンゴが好きなんですよね」
ここにはいないフィンの相棒・ジェイドに関する質問にも難なく答えた美晴に、フィンがにっこりと笑み、渋面のレナードを振り返る。
「どうやら本当のようだ。不思議なこともあるものだね」
「……ふん」
どうにかレナードにもゲームの話を信じてもらったところで、元の世界で車に轢かれ気がついたら異世界に転生してしまったようだと説明すると、フィンが顔を歪めた。
「“じどうしゃ”というのは、馬車より速いのだろう? それに轢かれたなんて痛かったろう…大丈夫かい?」
「はい、今はなんとも。轢かれたときもなにが起こったのかわからなかったので、なにも感じなかったというか」
へらり、と笑う美晴に、フィンが悲痛な表情を浮かべる。心の底から心配してくれるその目に、目を背けていた感情が顔を覗かせ、美晴の身体を震わせる。
転生という形ではあるが、現在美晴は「小森美晴」としての人格を保ち生きている。そのことが美晴の「死の認識」を薄れさせていたが、元いた世界の「小森美晴」はたしかに死んだのだ。
長年待っていた『M t O Ⅱ』をやり込めなかったことももちろん心残りだが、それ以上に、美晴は大切な人たちを遺して逝ったことに、声にならないほどの苦しみを感じていた。
もうすぐ誕生日を迎える父に、ちょっと高い日本酒を贈って自分から晩酌に誘おうと思っていたのに。
1人暮らしを始めて上達した料理の腕を、料理上手な母に披露して褒めてもらおうと思っていたのに。
いつか産まれる兄と奥さんの子どもと、いろんなゲームをして「美晴おばさん」と呼ばれたいと思っていたのに。
学生時代や会社で出会った友人たちと、くだらない話で盛りあがったり、愚痴の言い合いをしてこれからも付き合いを重ねていくと思っていたのに。
いつか素敵な男性に出会って、結婚して、両親や兄、友人たちが祝福してくれて、子どもを産んで、幸せな家庭を築くのだろうと思っていたのに。
そのどれもが、手から零れ落ちてしまった。
喪失感から来る震えを抑え込んで、美晴は笑ってみせる。フィンとレナードにとって美晴は赤の他人だ。たとえゲームのキャラクター相手でも、泣き出して迷惑をかけるわけにはいかない。
うまく笑えていなかったとしても、笑うのだ。そう言い聞かせ涙を堪える美晴を、いつの間にか傍に立っていたフィンが抱きしめた。
「きみは強いね。17歳のお嬢さんとは思えないほど大人びているし、気を遣える優しい娘だ。
その強さが、僕は少し心配だよ」
溢れそうになる涙を隠すためうつむいた美晴は、フィンの右足が小刻みに震えていることに気がついた。初めて会ったとき、彼は杖をついていたはずだ。杖を探すと、それは床に横たわり、支えるべき主を見上げている。
両手で美晴を抱きしめる。そのために杖を置いたフィンの優しさは作り物なんかじゃない。
足が不自由なフィンを支えるレナードの気遣いはプログラムされた感情なんかじゃない。
とく、とく、と響く心音も、温もりも、現実のものに違いない。
彼らを『ゲームのキャラクター』としか考えていなかった自身を恥じ、美晴は「ごめんなさい」と小さく呟いた。
泣き出しそうになっていることへの謝罪と受け取ったフィンがゴールドベージュの髪を優しく撫でる。
「謝ることはない。きみはなにも悪くないじゃないか。
オーシェントでは悲しみや苦しみを心に溜め込むと、心に雨が降るという言い伝えがある。その雨はみるみるうちに心を満たしてしまい、溢れ、心身を侵す毒になってしまうらしい。
だから僕たち人間は涙を流すのだという。悲しみが毒になる前に、雨を止ませるためにね。それだけじゃない。涙はきみを愛する人たち、きみを助けたいと思っている者へのサインでもあって、きみの心の雨雲を吹き飛ばす風を呼んでくれる。
そう思うと、涙って悪いものじゃないな、って思わないかい?」
「……」
フィンの腕にぽたり、と美晴の涙が零れた。
フィンは腕に一層力を込め、美晴の心が晴れるまで彼女の細い身体を抱きしめた。
窓から淡いオレンジ色の光が差す。
すっかり赤くなった目元を冷やす美晴に、フィンが明るい口調で話し始める。
「僕はこの通り、結婚もせず子どももいない。そういった人生を選んだのは自分だし、後悔はしていないけれど、ひとつ夢があってね」
「夢、ですか」
「うん。娘が欲しかったんだ」
にこにことした笑顔で言われた言葉に美晴はきょとんと目を丸くし、レナードは頭を抱えた。
「おまえはなにを言い出すんだ……!」
「パパでもお父さんでもいいけれど、そう呼ばれたくてね。娘の手料理とか憧れるじゃないか」
「え、えっと、その夢を叶えるのが私でいいのでしょうか……?」
「うん。きみがいいのなら、ぜひ娘になってほしい」
異世界に赤子としてではなく17歳の少女として転生してしまった美晴に、家族や頼れる人物などいない。独りで生きていく力もないため、フィンからの申し出は有難かったし、断る理由もない。
しかし、女性が苦手であるレナードは、美晴との同居生活に不満があるのではないか。
ちらり、と気づかれないようにレナードの顔色を伺うと、彼の表情には悲しみの色が浮かんでいた。その色はすぐに消え、いつもの少し怒ったような顔つきに戻る。
「仕方のない奴だな、おまえは。まあ、このまま放り出してどこかで死なれたら寝覚めが悪くなりそうだ」
レナードが折れてくれたらしい。
(やっぱり優しいひとなんだな)
2人の優しさに応えたい。美晴は心の底からそう思い、フィンに向き直った。
「本当にありがとうございます。よろしくお願いします―お父さん、レナードさん」
「ふふ、想像以上に嬉しいものだね、父親ってのは。こちらこそよろしく、ミハル」
「…ふん」
後日、美晴は正式な手続きを経てフィンの養子となり、『ミハル・タウンゼンド』となった。