Episode 3: June, 10th, 2013.
大学に入学して一年半が経った。
俺とアイツの間には、恋愛感情という壁のほかに、気付けばもう一つの隔たりができていた。
それを俺はうまく日本語で表せない。だからと言って英語にしたらピッタリはまるのかと聞かれたらそういうものでもないのだが、何と形容したらいいのだろうか。俺とアイツでは、学生生活にあまりにも違いがあった。
それは通う学校も規模も違うのだからそうであって当然だと思うだろうが、俺とアイツではもっと本質的に何かが違っていた。
俺は正直言って、大学が嫌いだ。
どうしてかと言われたら答えには窮する。高校まではクラスというものがあったから、そこにいれば馬の合う連中が自ずと集まった。部活にも入っていたし、居場所もあった。
でも大学ではそうはいかなかった。理想と現実が乖離し過ぎていたあまり俺は周囲の雰囲気に迎合する機会を逸し、実際二年の前期まではただひたすらに好きな講義を独り選び続けた。部活にも入ろうと思ったが、結局は何もできなかった。最初にパソコン部に目をつけたが、ここに俺の居場所はないと直感で思った。サークルにも幾つか顔を出した。居心地が良いとは感じたが、本当に自分のやりたいことは分からなかった。やがて俺の居場所なんかどこにもないんじゃないかと思うようになった。大学は勉強だけをしていればいい場所なんかではなかった。相変わらず単位に困ることはなかったが、おかげで大学生らしいことなど一つもできやしなかった。
だからアイツが部活で吹奏楽を続け各方面の有志の演奏会にも顔を出し、挙句の果てには学委にも入ってたと知った時には、これが本当の大学生のあるべき姿か、と愕然となった。
毎日のように夜遅くまで学校に残り、活動が終われば飲み会、男とも付き合い週末には出歩く。これが当然なのだと思うようになれば、勉強などもうバカバカしくてやってられなかった。ただ俺は「大学でも成績順に就職先は決まる」という高校時代の国語教師の一言だけを頼りに、成績を維持し続けてきた。
だがアイツもまた成績優秀者で学費の免除までもを受けている以上、これだけでは俺の存在証明にならなかった。勉強だけをしていても自分は維持できなかった。俺は初めて勉強に裏切られた気がした。同時に初めて自分の人生をつまらないものだと思った。
それでも俺はアイツが好きだった。たまに家に来てくれたり、たまに電話をかけてくれたり、たまに遊びに付き合ってくれたり。その度に俺はアイツに惹かれてしまった。
会う機会は増えた。だけど心の距離は遠くなるばかりで、小学校の頃から進歩など何一つしていなかった。一生このまま、一歩踏み出せないまま終わるのかと、ずっと思っていた。
兎にも角にも是が非でも、結果が見え透いていたとしても、在学中に自分の気持ちを伝えたかった。伝えなきゃいけないと思った。見え透いた結果だからと言ってすぐに口にすることはできなかった。卑しい自分を呪いたい。男と離れた時期を伺って、ただひたすらにそれだけを待ち望んで。
それでもその時は訪れなかった。長い交際があったのではなく、何度も何度もあった一瞬の好機を、俺は手にしようとしなかった。
しかもその好機が分かっていながら、だ。アイツは新しい誰かと付き合うたび、そして別れるたび俺に相談事を持ちかけてきた。
今までアイツは五人の男と付き合ってきた。そのほぼ全ての経緯-いきさつ-と結末-さいご-を、俺の海馬は知っている。だが最後の一人を除いて、もうその記憶を奥底から持ち出してくることはできなくなった。記憶力が弱いのではなく、最後の一人と付き合っている時にまとめて聞かされた話があまりにも濃すぎて、俺にとっては残酷で。話し相手になってやれたのは嬉しかったが、その内容について真剣に考えて解決策を提案してやれるほどの余裕はなかった。そこはかとなく、俺にはアイツに恋する資格なんかないのだと言われた気がした。
そう。だから以降の出来事が果たして何人目の男の話なのか、あるいは果たしてまったく同じ男との関係の話なのかについては、やはり自信がない。だが最も胸が苦しかった時期を聞かれたら俺は確実に大学二年の夏からの話を持ち出すことになるだろう。
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一年前の、あれは夏休みに入る前のことだったろうか。夏休み中にアイツがカナダに語学留学に行くという話を聞いた後になってからのことだったのは確かだから、きっとそのくらいだろう。今更細かい時間軸などどうでもいいのだ。
突然メールで、「別れるかも」と切り出された。当時から起算して半年前の俺ならチャンスだ、と思ったかも知れないが、その頃にはもうどうせすぐ新しい彼氏でも出来るのだろうという諦念の方が先行していた。それでも、少しでもアイツの力になってやりたくて「急にどうした」と返していた。
得意にしていた分野で上手くいかずナーバスになった彼氏に嫌気がさしたのだという。そんなことで醒めていたら恋愛なんてやっててられないだろう。アイツはそもそも男性に対する理想が高すぎやしないか、と思った。それをそのまま言ってやった。これに感化されたからだとは到底思わないが、彼女らの関係はこの後十一月までは続いていたようだ。
そして何を狂ったか、俺はここでも地味なアプローチを仕掛けていた。アイツに言われて送受信ボックスを紐解かなければ思い出すこともなかっただろう。
「お前の恋愛を今まで見てきたらそうだろうが。普通は経験から学ぶ。俺がどうこう口出ししてもしゃあない、要はお前がどうしたいかだから。まぁ、俺の場合経験なんて一度あるかないかってところだろうから一発で仕留めるしかないね」
これをあの時あのタイミングで言ったからといってどうこうなるわけじゃないのは自明だったし、この幾文だけで感付かれるとも思っていなかった。ならなんでこんなことを書いて送ったのか。自分でも分からんさ。でも、俺の気持ちもそろそろそれとなくアイツに察して欲しかったというのはあるかも知れない。
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一ヶ月後。
あの日は休日だった。久し振りにアイツが俺の家に来た。きっかけなんか知らない。束の間の休息と、あと少々の愚痴でも言いに来たのかも知れないが、そんなたかだか気まぐれだろうが俺の気が休まるわけはなかった。かつてはそこまで酷いものでもなかったのだが、当時となってはもはやまともに目線を合わせることすらできなくなっていた。臆病になったのではない。ただアイツのことを真剣に見ると、こいつには彼氏がいるんだという現実を突きつけられるような気がして、そんなことから逃げていた。まぁ、そう考えると結局臆病が祟っていたのだろうか。
その日、アイツと男についての直接的な関係を聞いた記憶はない。人間がもしショッキングな話題を意図的に忘れることができる生き物なのだとしたら器用にも俺がそれをやってのけている可能性もなくはないが、こういう場合往々にして「忘れよう忘れようと意識するあまり逆に鮮明な記憶として残る」というのが悲しいかな相場だと思うので、やはり話した内容は「とりとめのない」ことだったんだろう。アイツにとっては、な。
「――でね、その吹部のセンパイがね、去年留学に行ったんだけど」
俺にとってはどうだったか。
無論本人の事ではないのだから話半分で適当に返事でもしていればアイツはそれで満足だったのかも知れないが、話に出てくる二人をどうもアイツとその男との関係に重ね合わせてしまって、心の中で何かやりきれない感情を押し殺していた。
「一ヶ月くらい海外に行っててね、その二人ずっと会わなかったんだって。日本に帰ってきてすぐ会ったんだけど、それまで耐えられてなかった分、その後一週間くらいずっとホテルでやり続けたんだって」
「耐えられないって、そういうもんかなぁ」
「そういうものなの。アンタには分かんないだろうけど」
お前もカナダから帰ってきたらそんな風になるのか――そう訊ねたかったが、口に出すことはできなかった。その先を聞くのが怖かった。アイツが俺の知らない男とそういう世界に入っているという事実に、俺はもどかしく、ここで書き表すことができないほどに悔しくなった。
ここにきてようやく「俺は今まで何もしてこなかったんだ」という自覚に至った。それまでも確かに俺は決定的に建設的なアプローチなど微塵も仕掛けていなかったが、その時初めて何もしてないということに「気付いてなかった」ことに気付いたのだ。もし何もしてないという自覚があったならば、さっさと想いの丈を打ち明けていたか、その話を聞いた時点でアイツの彼氏とは一生かかっても同じ土俵に立てないと見切りをつけていたはずだ。
その日アイツと男の関係や現状を聞くことはなかったが、結局二人の関係は霜月の暮れに終わりを迎えたらしい。ある朝早くの電話でそう打ち明けられた。
少し悲しげな声色ではあった。だが沈んだ様子はなく、次の希望を追いかけているような感じが受話口からでも伝わってきたから、その時にはもう過去の気持ちと決別をつけていたのかな、と思った。
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俺には、愛されなくてもいいから愛したいという感情はなかった。見返りを期待しているのかも知れない。しかしそれ以上にまずイーブンな関係に持っていかなければ片恋のその先もないだろうと思った。友達関係としては真っ当な付き合いが出来ていたが、それは次に進む必要条件でも十分条件でもない。友達というプロセスを踏まずして女としてのアイツを手に入れた男だって、今までそれなりにいたことだろう。俺とアイツの間に友達という関係が成立している限り、他の男には追いつけない。その関係を壊すことが、俺にとっては少なからず必要条件であった。友達関係を崩したからと言って恋愛が成就するとは限らないが、女としてのアイツを手にするためには、友達関係を崩さなければ始まらない。
ではいったいいつになったら崩すのか。
崩す覚悟ができるのか。
その別れ話を聞いたとき、最初で最後のチャンスが来るかも知れないと俺は思った。