Episode 1: December, 1st, 2005.
クラス替えのタイミングから言って俺がアイツと知り合ったのは小五の時だ。だが俺自身その頃の記憶があまりない。強いていえば四年と同じ担任だったことくらいだろうか。
同じようにアイツと初めて出逢った時のことも憶えていない。どういう経緯で話すようになったのかも、初めて話した内容も、まったく憶えていない。アイツは元々俺のことを多少知ってはいたようだが、話を聞く限りではあまり好印象ではなかったらしい。
小学校の想い出など箇条書きにした上で時系列順に並べろと言われてもそれは無理な話で、因果関係が曖昧なものだ。健忘症の俺とはいえ流石に記憶に残る出来事はいくつかあるわけで、絶対的な時間軸で憶えられているもので言えばそれは例えば五年次の移動教室やその翌年の修学旅行だろう。無論ここまでくれば卒アルを紐解けばすぐに分かるものだから、記憶に刻んでおいて得することもあまりないのだろうけど。けど、そういうことに限って憶えているのだからこれは全くもって致し方のないことだ。
少し話が逸れた。要するに何が言いたいかというと、これから記憶を頼りにこれまでのことを書き連ねていこうと思うのだが、さしあたってどれが一番若い出来事なのかやや曖昧なもので、ここまできてフィクションを交ぜるなどという無粋なこともわざわざするまいということで、それならばやや似たような事象をまとめてしまおうという算段である。
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小六、秋。
どこの公立学校でも同じことだろうが、小中の頃は学活というものがあった。特に低学年の頃は一コマの授業として「学級活動」というものがあり、個人的には後の総合的な学習の時間の完全上位互換だと思っているが、クラスの仕事をやったり役割分担を決めたり、あるいは時期によっては文化祭や運動会の準備に追われるというのが相場であった。
俺の通っていた学校では、いわゆる「朝の会」や「帰りの会」と言った類も学活と呼んでいた。そりゃまぁ学級の活動なんだから意味は同じだろうけどさ。
その日の日直はアイツだった。
クラスにもよるが大体日直の仕事は隣り合う席の二人組でやるのがありふれた光景で、俺のクラスもその例外ではなかった。
しかし隣が欠席だったのか元々奇数人クラスでアイツの隣が空席だったのか定かではないが、その日の日直はアイツ一人だけだった。
アイツは元から別にオドオドしてる奴でもないし人前に出るのが苦手なんてタチでもなかったから今思い返してみれば一人でも問題なかったんじゃないかと思うが、今さらそんな野暮なことは言わない。
もしかしたら当時日直の仕事は一筋縄にはいかずどうしても人数が必要だったのかも知れないが、とにかく担任の科田は帰りの会の直前、アイツに向かってこう訊いていた。
「一人だと厳しいだろうからもう一人日直選んでもいいよ」
特に聞き耳を立てていたわけではないが黒板右側にある教卓からそう聞こえてきた。
俺だったらいいなーとか思わなくもなかったが、仲の良い女子か誰かを選ぶんだろうなと思って聞き流すつもりでいた。
「なら涼介がいいな」
だから俺が帰りの会で前に立たされることになった時は、そりゃもう驚いた。特に嫌でもなかった。恋愛感情は別にして、女にそんなこと言われて気分の悪くなる奴なんていないだろう?
それを聞いた科田がおい涼介愛のメッセージだぞなどと冷やかしてきたのは些細なことだ。本当に、些細なことだ。
何となくだが、俺がアイツを意識し始めたのはそれがきっかけであったかも知れない。
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同じく小六、冬。
卒業間際だったから恐らくそれよりは後のことだったと思う。
ただでさえ年度末やら卒業式準備やらで忙しいというのに卒業生である俺達は当時更に忙しく、保護者に対する感謝のしるしとして小冊子みたいなのを学年全体で作っていた。もう現物がないのでどんな小っ恥ずかしいことを書いたかは分からないが、所詮小学校から中学校、義務教育から義務教育への進級に過ぎないのだから、きっとみんな苦し紛れに書いていたに違いない。
とにかくそんなことをやっていた総合の時間のことである。
基本的にクラス単位でやっていたのだが、その日は学年全体で指導があるということで図書館に集まっていた。
そんな折、唐突に隣の女子から出てきた言葉である。
「涼介って――のこと好きなの?」
息が止まりそうになった。
正確には言った本人が聞きたかったわけではないらしく、隣に隣にと、噂が広まるように流れ、最終的には直接俺に伝わってきた。発信源? 知るか。
恐らく今の俺がこの状況に直面したらいたたまれない結末を迎えることになるだろう。それくらい、この質問に答えることは難しい。相手が気心の知れた友人だったなど、正直に答えていい状況ならまだしも、俺とはまるで関わりのないクラスメイトの、しかも女子である。もう少し周りの精神年齢が高かったら、もうこの空白の数秒間で本心がバレていたに違いない。
「別に好きじゃねえよ」
が、幸いと言うべきか否か、向こうはそこまで大人ではなかったらしい。それとも単純に俺が何事もなくポーカーフェイスをしていたのだろうか。あの頃の俺ならやりかねない。とにかくその切り返しを文字通りに受け取ってくれたようだった。
その時はそれで良かった。まさか話の流れで本意を伝えるわけにもいかないし、確かに聞かれたとき、恥ずかしさはあったがそれが恋心かどうかなんて考えもしなかった。
いや、本意が「好き」ならそこで結論は出ているのだろうが。
その後、クラスに戻ってすぐに給食の支度だった。何かとバタバタする時間帯なので誰も見ていなかったが、アイツが教室後ろのロッカーで額を押さえていたのを俺は見逃さなかった。
昔から何かと妄想癖のある身らしく、その様子を見た瞬間「あぁ、そんなもんだろうな」と感じた。アイツにとって俺は所詮友達に過ぎないわけで、そんな奴と色恋沙汰の噂が立ったのだから、それは気分も悪くなるだろう。友達以上の関係なんて、期待してた俺が浅ましかったのだ。
だが後にもう一つの考えが浮かんできた。「後」と言ってもその日の給食が始まるまでには思いついていたことだから大した考えもなかったのだが。
それは「もしかしたらアイツは俺のことが好きなんじゃないか」という、やはり浅ましい妄想というしかないだろう考えだった。俺はアイツがその一件の何に対して頭を抱えていたのかが知りたかった。知ろうとした。でも分からなかった。その時の俺には、単なる頭痛という考えは浮かばなかった。今の俺が思い返せば、アイツならそんなところだろうと思えるが、あの後ではどうしても自分が原因だという観念にとらわれていた。
結局アイツがロッカーの角に身体を預け切なそうにしていた真相は未だに分かっていない。本人にでも聞けばいいのだろうが、まずアイツがそのことを憶えているがどうかすら危うい。
給食中も俺はずっとそのことばかり考えていた。心配事を抱えると途端に前に進めなくなる性質はどうやら今も昔も変わっていないようで、気にしないようにと無心で代わり映えのしない献立を淡々と頬張っていた俺は、周りが「正式名称から略称を当てる」というゲームを始めていたことにもしばらく気付けなかった。話を振られて俺が出題した一問を除いては何がどうなっていたのか全く記憶にないが、恐らく「日本中央競馬会」と聞かれて「JRA」と返すようなものだろう。
出題をせがまれた俺は何を考えたかすかさずこう口にしていた。
「……水間勇一」
一瞬だけ、教室に静寂が訪れた。俺は何を言ってるんだ。こんなの、答えられるわけがない。ゲーム雑誌の奥付なんか誰が見るというのだろう。口に出した途端に俺はクラスの和やかな雰囲気をぶち壊しにしてしまったと後悔した。
だが予想を裏切り静寂は文字通り一瞬で打ち破られた。考えるまでもない。答えられるとしたら、アイツしかいないんだ。
「水ピン」
そう言った彼女の表情は、優しかった。
昔からこういういらない機転ばかり利くのは自分の果たして良いところなんだろうかと疑問に思うが、この時ばかりはそのインスピレーションとアイツの一言に救われた。もしかしたら、アイツならきっと答えてくれると心の奥で信じていたのかも知れない。
直後、周囲は何故か湧いていた。今の――ちゃんの返し凄いタイミングだったねーとか流石二人息ピッタリだなとかそんなことを言われた気がする。
とにかく俺はこのやや危ない綱渡りで、少なくともアイツが俺のことを嫌いとは思っていないと確信ができた。
そして他からしてみれば下らないそんな出来事が、何時かのクリスマスまで自分の本心を支える糧になっていた。