第3話 薬を投げてはいけません
フェリは最初、何が起きたのか全く理解できなかった。
我に返った時には既に、周囲が彼等の発する殺気で支配されていたのだ。
1本のナイフがクルクルと回転した後、対峙する2人の間に落ちる。
恐らく深淵の魔手――デュオが投げたナイフを、ディックが辛うじて弾き返したのだろう。
「俺は……ここで死ぬわけにはいかないんだ!」
「あの、ディックさん? 一体何があったの?」
「フェリ、一緒に来……!」
振り返ったディックが、またもやフェリに手を伸ばしたその時――。
ディックの体が大きく揺らぎ、そのままフェリの足元に倒れ込んだ。
戦い以外の事に気を取られた一瞬のスキを、彼が見逃すはずは無い。
「あ……ディック、さん……?」
ディックは倒れたまま、ピクリとも動かなくなった。
たった今絶命した体を中心に、美しかった芝生が赤く染め上げられていく。
「まさ、か……殺したの……?」
フェリの言葉に、デュオは答えなかった。
聞こえなかったのか、あるいは興味が無かったのかもしれない。
さくさくと芝生を踏みながらディックに近付き、背に打ち込んだナイフを引き抜く。
そしてナイフの血をサッと払うと、何事も無かったかのように服の中に片付けてしまった。
「なに……してんのよ……」
「ん?」
「なにしてんのよ!? この……バカ男ーーーー!!」
どうしてこんな事をしてしまったのか。フェリにはわからない。
気付いた時には、持っていたカゴを暗殺者――よりによって深淵の魔手に投げつけていた。
しかし大胆な行動を後悔する暇は無かった。相手がナイフを取り出し、近距離から投げつけられたカゴを難なく切り裂いたのだ。
しかし――
「あ」
カゴごと真っ二つにされた商品の一部が、デュオの顔に直撃する。
バシャっと言う音と共にモロ被りしたのは……破れ易く切れ易い、紙パックだった。
「…………」
「……なんで紙の箱?」
「節約……みたいなもんよ」
「ふ~ん」
指に掛かった魔法薬をペロリと舐めながら、緊張感のない声で納得する暗殺者。
フェリは半ばヤケクソで返事をしながら、デュオのその行動に内心驚いていた。
(どんな液体かもわからないのに、よく舐められるわね……)
闇ギルドの人間に渡そうとしていた薬を舐めるなど、危機感が無いとしか思えない。しかし相手はあの深淵の魔手だ。
呆れるべきか感心すべきか思いあぐねながら、袖に染み込んだ匂いや紙パックに残った液体を確認するデュオを眺める。
「これ、なんの毒? 俺様の知らない種類だけど」
「別に毒って訳じゃ……あ……ああああーー!?」
聞かれてフェリな思い出した。
自分を殺すかもしれない相手にぶっかけた魔法薬――桜色をした液体の、その効果とは。
「な……なんともない、の?」
「へーきへーき。毒には慣れてるから死なないし」
「いや、死ぬとかじゃなくて……」
どうやら、特に何の変化もないらしい。
攻撃したことにも怒っていないデュオの様子に、フェリはホッと胸を撫で下ろす。
そもそも若い子の間で流行っている様な俗な薬が、泣く子も黙る暗殺者に効く方がおかしいのだ。
「んで、何怒ってんの?」
「わ!?」
見えない速度で間合いを詰められ、顔を覗き込まれる。
常人と違うスピードを見せつけられて、緩んでいた気持ちが一気に硬化した。
「殺されて怒るほど、コイツと仲良かった?」
「そうでも……無いけど……」
本当に、なぜ怒ってしまったのだろう。
デュオの言う通り、会えば話す程度の仲でしかないディックの死が悲しかったのだろうか。
それとも人が殺されたのを見て、道徳心が疼いたのだろうか……違う、そうではない。
(私、ただ怖かっただけだ……)
今まで自分が運んでいた依頼品も、どこかで誰かを殺しているかもしれないのに。目の前で人が絶命するのを見て、急に怖くなった。それだけだ。
もちろん、顔見知りが目の前で殺されて何も感じないわけでは無かったが……。純粋にその死を悲しむべきか悩む程度には、ディックもそこそこ悪人だった。
「はぁ~~……」
フェリはストンとその場にしゃがみ込むと、膝を抱える様にして顔を埋める。
人殺しを怖がるのは正常なことだが、そんな思考が何故だかとても恥ずかしく思えたのだ。――この男の前では。
「……アンタのせいで、依頼料貰えないじゃないの」
「早い者勝ちでしょ。こういうの」
「それはそうだけど……」
実に暗殺者らしい軽い返事に、何故だかフェリは少しだけ救われた気がした。
ショッキングな出来事には違い無いのだが、それを招いた張本人がこの調子なのでこちらまで冷静になってしまう。
チラリと顔を上げたフェリの目が、横たわるディックの姿を捉えた。
「どうしてディックさんを殺したの?」
「依頼だから」
「殺された理由を聞いてるんだけど」
「ああ、そういうことね。俺様もよく知らないけど、『ルールに背いた』って上の人は言ってたかな」
「ルールって……」
当然、裏世界のルールだろう。それを聞いたフェリの脳裏にある言葉が浮かぶ。
――不可侵者には関わるな――
規則の多い正規ギルドと違い、闇ギルドの掟はその1つしか無い。
「まさか……不可侵者と関わったの? ディックさんが?」
『不可侵者』について多くを知る者はほとんどいない。
しかし、どんな大国の王ですら罰することの出来ない超危険人物だということはフェリも聞いたことがある。
大陸を破滅に導く存在であり、依頼だろうが何だろうが決して刺激してはならない――それは闇ギルドだけでなく、各国が何よりも重視する法でもある。
「なんでディックさんがそんなことを……」
もし破れば2大国(ヴェルヘルム、ローグセリア)を含めた全ての国が敵に回る、大陸で唯一共通する掟。
仲間内で殺し合おうが制裁されない闇ギルドでさえ、このルールにだけは逆らえないというのに。
「さあ? 殺す相手の事情まで、いちいち気にして無いし」
「ていうかそれ言っていいの? 依頼の理由って、守秘義務があるんじゃ……」
「自分で聞いといてそれ言う? 俺様、『秘密』とか書かれた契約書にはサインしないことにしてるから」
「……それでよく依頼が来るわね」
「あれ? 軽蔑してる?」
「褒めてるのよ。それだけ殺しの腕が良いってことでしょ。……普通の人に出来ない仕事をするって、凄いと思うわ」
人当たりの良い情報屋のディックがなぜ禁忌を犯したのか……今となっては確かめようも無い。そして知った所で、何も出来る事は無い。
デュオは立ち上がったフェリを不思議そうな顔で見ていたが、仕事を思い出したのかディックの亡骸を肩に抱え上げた。
「じゃ、そーゆーことで」
「ええ。さよなら」
ひどくあっさりとした、別れの言葉。
恐らくもう、会って話す事は無いだろう――それくらい、フェリはデュオとの住む世界の違いを感じていた。
「…………」
「…………」
「……? なんで帰らないの?」
背を向けたまま何故か歩き出さないデュオに、フェリは首を傾げた。
抱えられたディックの死に顔がこちらを向いているので、出来ればさっさと去って欲しいのだが。
「えーと……私はもう帰ろうかな?」
見送る義理も無いので先に立ち去ろう。
そう思って一歩踏み出すと、同時にデュオが振り向いた。
(……意外)
この時初めてデュオの顔をしっかりと見たフェリは、相手が思ったよりずっと若い、むしろ自分と歳の近い人間であることに気付いた。
少なくとも、闇ギルドにいる男達の様な浅黒い凶悪顔では無い。少年らしさを残す顔立ちはいっそ爽やかで、同年代の異性と殆ど面識の無いフェリでも好感が持てた。
深みのある赤髪も、一見すると血の様にも見えるが……時折黒いハチマキと共に風に揺れる様子は、焔のゆらめきを思わせる。暗殺者ということを除けば、怖がる要素など1つもなかった。
「……ねぇ、フェリって言ったっけ」
「え? ええ」
「俺様と結婚、する?」
「……は?」
どこか安心するような気持でデュオの顔を眺めていたフェリは、言葉の意味を理解するのに時間が掛かった。
結婚。
ポカンとした顔のフェリを見ながら、デュオは確かにそう言った。
この時フェリはようやく、ぶっかけたばかりの惚れ薬がしっかり効いていた事を思い知った。