第2話 表の世界、裏の世界
「という訳で、薬は渡せませんでした」
「そうですか、わざわざご苦労でしたね。今日は昼まで休んで良いですよー」
「はい。そうします師匠」
フェリが師の家へ帰りついた時、既に空は白み始めていた。
新薬研究の為に徹夜していた師匠に報告を済ませ、自室への階段を上る。
「もう……急ぎだって言うから届けに行ったのに」
小綺麗に片付けられた自室の扉にローブを掛け、ベットに転がる。
闇ギルドは、周囲に気取られないよう夜中に活動する。その為、フェリはこうしてしばしば生活リズムを崩されていた。
日中活動して夜は寝る、というごく自然な生活を送りたいフェリには、闇ギルドへの使いは負担でしかない。
しかし、世話になっている師匠の頼みを無下にも出来ない。
「ま、ディックさんが闇ギルドにいる事の方が珍しいけどね」
ディックは、主に裏情報の売買をしている闇商人だ。
昼夜問わず情報収集に動いているので、殆ど闇ギルドにはいない。
(だからって、本人が指定した時間にもいないのはどうかと思うけど……あ~眠い)
考えていても仕方ないので、さっさと布団にもぐり込む。
そして完全な無駄足を踏まされた事に不満を感じつつ、フェリは体内時計の催促に従って遅い眠りに落ちて行った。
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「フェリ、ちょっといいですかー?」
「へぁ……? せんせい? あ、ちょっと待って下さい!」
ノックの音と共に聞こえた師の声に、フェリは慌ててベッドから転がり降りた。
どのくらい寝たのかわからないが、陽はだいぶ高くなっているので起きても問題ない時間ではある様だ。
扉を開けると、温和そうな糸目の男がカゴを持って立っていた。彼は寝起きのフェリを見て微笑んだ後、少しだけ困った様な表情を浮かべる。
「起こしてすみませんねー。実はさっきディックさんから連絡があって、例の薬を今から取りに来るそうです」
「ああ、通信具で連絡があったんですね」
フェリ達が暮らすこのイグスロード大陸には、『魔道具』と呼ばれる便利な道具が数多く存在している。
離れた場所にいる者とでも会話できる通信具も、その1つだ。
それを使って師匠のもとに、ディックから連絡があったのだろう。
「はい。とても急いでいる様でして……大樹の所まで持って来て欲しいそうですー」
「え~、めん……わかりました行きますよ。行けば良いんでしょう」
要するに、またお使いという訳だ。
めんどくさい、という言葉を咄嗟に飲み込み、フェリは扉に掛けてあったローブを取る。
行きたくないと言っても別に怒られはしないのだが……。ニコニコ顔の師から無言の圧力を感じたフェリは、早々に抵抗を諦めた。
下手に断って夕飯が嫌いなおかずになったり、隣の部屋で異臭のする魔法薬を作られたり――そんな嫌がらせを受けるのだけは避けたい。
(見た目や口調はほんっっと、優しいんだけどね……)
魔術師ラキア――イグスロード大陸一の大賢者と呼ばれる師は、ハッキリ言って歪んでいる。
その性格の悪さは、正規ギルドの依頼で治療薬や美容液を作る一方、闇ギルドに毒薬や拷問具を売り捌いている事からも明らかだ。
しかしながらフェリが、10年も面倒を見てくれている師の頼みを出来るだけ聞いてあげたいと思っているのも事実だった。
「助かります、フェリ。貴女はいつも良い子ですねー」
「頭を撫でないで下さい……私、もう16ですよ」
抗議はしつつ、抵抗はしない。大好きな手が頭から離れるのを待ってから、フェリはローブをまとった。
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世界で最も大きい面積を持つ、イグスロード大陸。ここには大陸をほぼ二分する2つの大国を中心に、全部で5つの国が存在している。
簡単な手続きで他国への入国や移民を自由に行える、民にとってはこの上なく平和な時代ではあるが、どんな国にも裏の顔はあるものだ。
世界一の大賢者ラキアの所には、それを裏付ける危ない依頼が山ほど舞い込んで来る。そしてフェリもまた、ギルド、闇ギルドに関わらず依頼の品を届ける役割を担っていた。
《毒になるか薬になるかなんて、人次第ですよ》
闇ギルドに運ぶ依頼品の使い道を、考えたことが無いわけでは無い。
だがフェリはかつて言われた師の言葉を信じ、仕事として割り切る事にしている。
暗殺者だって人を助ける事はあるし、僧侶が人を殺す事もある――そんな世の中で、薬の使い道を自分で決めつけるのは独りよがりだと考えていた。
「近いんだから家まで来てくれればいいのに。なんでわざわざ……」
薄く霧がかかった森の中を、悪態を吐きながら慣れた足取りで歩くフェリ。
目的地の大樹は、この森南西の外れにあるラキアの家から、半刻ほど北へ入った所にあるのだ。
「さむい~! 昼間なのになんでこんな寒いのよっ」
大陸の中心に位置するこの大森林は、南の商業国家ゲルトと隣接していて、イグスロード大陸を東西に分かつ形で存在している。
この辺りは雪こそ降らないが、気温が低く頻繁に霧も発生するので、お世辞にも住みやすい所とは言い難い。
だが森自体はどの国にも属していない為、闇ギルドと繋がりのあるラキアにとっては最高の立地だった。
闇ギルドのあるアリナリの町が大森林の南――商業大国ゲルトの最北に位置しているのも、好条件と言える。
(にしても、なんでこんな薬を裏の人間が欲しがるんだか……)
毒薬でも拷問器具でも気にせず運んできたフェリだが、今回は不思議でならなかった。
ろくでもない用途しか思いつかない薬ではあるが、これはどちらかと言うと表世界で人気の品なのだ。
しかも効果を持続する為には、定期的に飲ませる必要がある。
アフターサービスなんて言葉とは無縁の、『殺したら完了、売ったら完了』の切り捨て主義者達には向かない薬だった。
「はぁ~、やっと着いた。……で」
霧が晴れると同時に、開けた場所に出た。
柔らかい芝生の生えた広場の中心に、目的の大樹が立っている。
「なんっっで居ないのよ!?」
約束の場所に立っていた影は、たった1つ。
齢数百年とは思えないほど若々しい、大樹だけだった。
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「信じられない。また無駄足じゃないでしょうね」
結局待たされる羽目になり、フェリは当然のごとくイライラしていた。
仕方なく大樹の根元に腰を下ろしてから、もう一刻は経っている。
だが生憎、ここにはイライラをぶつける相手などいない。
ハードルドでもいれば、まず間違いなく八つ当たりしていただろうが。
「? 来た?」
いい加減帰ろうかと腰を浮かせたその時、森の方から枝葉を揺らす音が聞こえてきた。
風にそよぐのとは違う、人為的な音――フェリは立ち上がると、少しずつ近づいて来る音に耳を澄ませる。
そして10秒もしない内に茂みから飛び出してきた人物を見て、思わず声を上げた。
「あっ、ディックさん!?」
現れたのは、緑の癖毛に無精髭の見知った男だった。
しかしいつもの気安い態度とは違い、焦った表情を浮かべている。
「フェリか! そこを動くな!」
「え? ちょ、ちょっと待って!」
ディックは一直線にフェリへ駆け寄ると、腕を伸ばして来た。
依頼品を奪われると思ったフェリは、反射的にカゴを背に隠す。
油断するとすぐ踏み倒そうとする荒くれ共を相手にしてきたフェリには、『商品を渡すのは代金を受け取ってから』という鉄則が染み付いていた。
「待って! その前に代金を……」
しかし続く言葉を遮るように、金属のぶつかり合う音が響いた。
いつの間にか背を向けていたディックが、長い剣を横向きに構えている。そしてその向こうには……。
「深淵の……魔手……!?」
天下に轟く異名を持つ黒装束の男が、涼し気な顔で立っていた。