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  (六)嘆き悲しむ娘

 甲高い音を立ててノエルが弾き飛ばされた――と、認識した時すでにジキルは床に転がっていた。

 顔を上げた先にいたのは抜き身の魔剣を下げて佇むクレオン。ルルにおびき出されていたはずの人物だった。

 起き上がりかけた中途半端な状態でジキルは硬直した。なんというタイミングだ。ブレイク伯爵の悪運の強さには呆れを通り越して感心さえ覚えた。

「べ、ベリィレイト伯」

 卑屈な態度を一変、ブレイク伯爵は嬉々としてジキルを糾弾した。

「良いところに来た! 見たろう? こやつはわたしを」

「うるさい」

 クレオンはブレイク伯爵を一蹴した。ジキルを見下ろし、小さなため息をつく。

「妹の相手を僕に押し付けて何をしているかと思えば……まったく自分勝手な」

 悪かった。ごめん。

 いつものジキルならば、すぐさま謝って事を収めようとしただろう。しかし、ジキルは目を伏せた。クレオンに悪いと思う気持ちが湧いてこない。むしろ、何故余計なことをしたのかという苛立ちが勝った。

「どいてくれないか?」

 クレオンは目を眇めた。不快に思っているのはわかるが、ジキルとて譲れなかった。

(だって、不公平じゃないか)

 頼まれたから邪竜と戦った。生贄の部屋からクレア王女を連れ出した。陰謀を明らかにするために婚約した。救国の英雄という名声と人気があるから今も婚約者の振りをしている。全部、クレオンの――貴族のお偉方の都合だ。

(ひとつくらい)

 そんなに多くは望んでいない。たった一つだ。このひと時だけでいい。聞き分けのいい長子であることも、婚約者という立場も捨てて、ルルのようにただ恨みと憎悪の赴くままに生きたかった。

「この男を殺せば解決するとでも?」クレオンは理路整然と告げた「伯爵夫人から話は聞いた。彼女の証言があれば、ブレイク伯爵の罪は公の場で裁かれるだろう。お前が手をくだすまでもない」

 復讐など無意味だと、奇しくも以前ジキルがルルに諭したことだった。

 結局は自己満足に過ぎない。憎しみに囚われるのは、命と引き換えにした母の死を辱めることだと。わかっている。

 だが、それでも、どうしても納得がいかなかった。

「痛めつけて、焼き殺して、毒を盛って、刺客を差し向けて、魔獣に襲わせる――貴族のお偉方は好き勝手に色々やってるのに、俺達にはたった一回の復讐すら許されないのか」

 不条理で、まったく笑ってしまうような話だった。

 激昂するかと思いきや、クレオンは黙ってジキルの嫌味に耳を傾けていた。黙考することを数拍。何を思ったのか手にしている魔剣を鞘に納める。次いで床に転がったノエルを拾い上げ、ジキルの右手にその柄を押し付けた。剣を握らせた手を、自身の両の手で包みこむ。大切な物を託すかのように。

「悪かったな」口調にいつもの皮肉の色はなかった「次は邪魔をしない。好きにしろ」

「貴様ら――ひっ!」

 怒りに任せて立ち上がりかけたブレイク伯爵の真横に短剣が突き刺さる。投擲用の短剣を投げつけた張本人――クレオンは「うるさいと言ったはずだが」と冷たく言った。

 クレオンの顔をジキルは呆然と見た。紫水晶を彷彿とさせる瞳には、たしかに意思の光が宿っていた。クレオンは正気だった。本気でジキルの復讐を容認している。

 ジキルは魔剣ノエルに視線を落とした。殺せと囁く声はもう聞こえなかった。

「……こいつは、母さんを殺した」

「ああ、知ってる」

「母さんには裁判もなかった。ルルとロイスに別れを言う時間すらなかった。俺達の家族を、故郷を、何もかもをあいつは奪い、踏みにじったんだ」

 母を失ってからの生活は悲惨の一言に尽きた。

 魔女の子と後ろ指をさされ、兄妹三人だけで逃げるようにして故郷を離れた。初日に残飯を漁ることを覚えた。ののしられ、石を投げられたことだって一度や二度じゃない。物乞いをした。泥水で汚れたパンですら喜んで食べた。空腹にあえぐ弟達のために母の形見を売り飛ばした。薄情者と泣きながら責めるルルの声は、きっと一生忘れない。

「……ひとつ、くらい」

 思い出すだけでやるせなさと憎しみがよみがえる。だが、怒りを滾らせれば滾らすほど剣を振り上げる気力が失われていく。

「ジキル」

 顔を上げる。クレオンは逡巡の後に口を開いた。

「僕はお前に同情はしない。無論、伯爵にもだ。伯爵は魔女を利用した。魔女を狩ったのだから、逆に自分が魔女に狩られることも考えて然るべきだった。だからお前の望みが復讐だというのなら、それを邪魔するつもりはない。こいつは、お前の『獲物』だからだ」

 クレオンの手が肩に置かれた。白く、綺麗な手だった。似ても似つかない手にしかし、ジキルは最期に見た母の手を思い起こした。

「だが、さきほども言ったが、証拠は十分揃った。火刑にはならないが、確実に身分は剥奪される。財産は没収。奴の悪事は王国中に伝え広まるだろう。放っておいても、こいつは勝手に破滅する」

 ジキルは顔を伏せた。やめてくれ。頼むから。憎悪で塗り固めていたものが剥がれ落ちて、堪えていたものが溢れてしまう。こちらの内心を知ってか知らずか、クレオンは容赦なく問い掛けた。

「こいつは、お前が自ら手を下す価値のある『獲物』なのか?」

 ひとつくらい、と考えた。

 たった一つだけの望み――それは復讐なのか。本当に、ブレイク伯爵の命だけなのか。

 限界だった。魔剣ノエルが手から滑り落ちる。

 ジキルは身を折った。息をするのも苦しかった。絞り出すように声をあげた。幼い子供のように、ひたすらに。張り裂けそうなほど胸が痛かった。

 憎悪や復讐なんて建前だ。副産物に過ぎない。

 もう二度と会えない母が恋しかった。失ったことが悲しかった。守れなかった自分の無力さが赦せなかった。

 五年の時を経てようやく、ジキルは声の限りに泣いた。


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