(九)不誠実な婚約者
「ご心配は無用です。ジキル様のお召し替えは私一人で行いました。クレオン様はご存知ではありません」
そう告げるレオノーレの声は硬かった。
「何故、男性の振りをなさっているのか。わかりきったことを訊くつもりはございません。ですが、今後どうなさるおつもりなのかは教えていただきたく存じます」
性別を偽っていたこと。それ自体は護身のためと理由がつく。法でこそ魔女狩りの禁止が定められているが、長年培われてきた魔女に対する偏見はそう簡単に拭えるものではない。目的を達成するためには極力厄介ごとを避ける必要があった。
(結局、厄介なことになっているけどな)
後悔後先立たず。ジキルは肩を落とした。
「ジキル様」
返答を促すようにレオノーレが名を呼ぶ。
「国王陛下は知らない。少なくとも俺は言っていない」
家族以外は知らない。今までも、そしてこれからも、誰にも言うつもりはなかった。
「この件の片がついたら、クレオンの前から姿を消すよ」
潮時なのかもしれない。思えば、旅に出てからこんなにも長く誰かと一緒にいたことはなかった。だからボロが出てきたのだろう。
「巻き込んで悪かった」
「まったくですわ」
苦笑混じりにレオノーレは呟いた。彼女にしては珍しく皮肉の色が濃い。
「クレオン様には何も言わずに去るおつもりですか?」
「そのつもりだよ。万が一俺の正体がバレた時、〈クレア王女〉も知っていたことになると、ますます立場が悪くなる」
「では、クレオン様には何と?」
ジキルは肩を落とした。一番の問題がそこだった。ジキルは『男』だ。だからクレオンと結婚することはできないし、ずっと一緒にいることもできない。破談の理由としては十分だが、クレオンの性別のせいにするのは、いけないことのように思えた。
(俺だって女であることを隠してる)
何もかもをクレオンのせいにすることはできない。かといって、本当の理由を言うわけにもいかない。
「黙って、出て行かれるおつもりですか?」
ジキルの考えを読み取ったかのようにレオノーレは言い当てた。
「それだけはおやめください。もしそのようなことをなされば、わたくしは絶対にあなたを赦しませんわ」
大げさな。ジキルは笑い飛ばそうとしたが、レオノーレに気圧されて笑えなかった。怒気に似た威圧感に、ジキルは身を強張らせた。
「ジキル様はご存知ないのです。あなたが倒られた時、クレオン様がどれほどご心配されたか。混乱の中、最初に指示されたのはジキル様を安静な場所に移すことと医者の手配。人目もはばからずジキル様を抱え、離そうともなさらず……あれほど取り乱されたお姿は初めて拝見しましたわ」
意識を失う直前に耳にした自分を呼ぶ声。切羽詰まったあの声は、クレオンだったのか。
「酷い方ですわ。クレオン様のお心に入り込んでおきながら、あっさりとお捨てになるなんて」
「捨てるなんて」
「都合が悪くなったら逃げ出すことが誠実だとでも? 残されたクレオン様がどうお思いになるか、お考えになったことがございますか」
ジキルは言葉に詰まった。レオノーレの追及は厳しく、誤魔化しが効かない。
「たぶん、怒る、と思う……」
「どうでもよいもののために怒る方はいらっしゃいません。特にクレオン様は極力他人を遠ざけようとなさるお方です」
それだけに一度親しくなった『ジキル』は特別なのだとレオノーレは言う。
着替えをしている間もジキルはクレオンのことを考えた。にわかには信じられない話だった。まずクレオンが取り乱す姿が想像できない。多少親しくなったとはいえ、クレオンにとってジキルは利用価値があるからそばに置いている人間に過ぎない。
急に消えたら驚くだろうし、心配はしてくれる(と信じたい)だろうが、それも時が経てば記憶の片隅に追いやるだろう。たかだか数ヶ月一緒にいただけの婚約者なんかよりも大切なことは世の中にたくさんある。
略式の正装に着替え長靴を履かせてもらい、レオノーレに「クレオン様に何も告げずに去るような真似はなさらないでください」と再度念を押されたところで、クレオンが戻ってきた。ご丁寧に医者同伴で。ジキル包帯を外すにあたって念のため診察させるつもりらしい。
たしかに以前のクレオンならば考えられない気配りだった。
(クレオン、変わったな)
いつから、とは明確にはわからない。コートを買ってくれたこと、パーセン行きの手配をしてくれたこと、礼儀作法をいくら教えても身につけられないジキルを罵倒しつつも人前で恥をかかないよう手助けしてくれること――一つ一つの小さなことが積み重なって、クレオンが変わったことを示していた。
診察が終わり、包帯を外していざ目を開ける時はさすがに不安があった。が、急に差し込んだ光で眩んだ目も、やがて落ち着いてくる。ぼやけていたクレオンの端整な顔も鮮明に映るようになり、ジキルは胸をなでおろした。
「見えるのか?」
「うん。ちゃんと見える」
クレオンの口元がかすかに緩む。
「そうか」と独り言のように小さく呟く彼は今、軍服姿だった。先ほど着替えてきたばかり――ジキルが意識を失ってから数刻は経過しているにもかかわらず。
その意味がわからないほど、ジキルは馬鹿ではなかった。
考えてみれば、ジキルが起きた時にタイミングよくクレオンが様子見にやってきていたなんて、偶然にしては出来過ぎだ。
ジキルの視線を感じたクレオンが怪訝そうに顔をしかめた。
「なんだ」
「い、いや、その……クレオンは大丈夫なのかと」
「僕が? 何故だ」
「俺と同じくブレイク伯爵夫人のすぐそばにいたわけだし、怪我とかしてないのか?」
「あの程度で意識を失うものか。僕をお前ごときと一緒にするな。だいたい――」
言いかけてクレオンは口をつぐんだ。目をそらして、ぶつぶつとこぼす。
「……お前が僕の盾になったから」
とっさにクレアの前に躍り出たのが功を奏したようだ。
「とにかく急ぐぞ。いつ騎士団が強硬に踏み込んでもおかしくない状況だ」
部屋を出るクレオンの後に慌ててジキルも続く。
「ご武運を」
折り目正しく礼をして見送るレオノーレ。洗練された作法だが、顔を上げた彼女の目にたたえた光は、ぶしつけなほど強かった。
了承の意味を込めてジキルは小さく頷いてみせた。
名前だけの婚約者が倒れた程度で取り乱すクレオンなんて想像がつかない。しかし、この緊迫した事態でも、クレオンは邪魔でしかないドレスを脱ぎもせずにジキルのそばにいてくれたのだ。
ジキルは密かにため息をついた。どうすればクレオンを傷つけずに婚約解消ができるのか、まったく見当がつかなかった。




