(四)雪解け近い婚約者
正門前に止まっていたのは、お世辞にも駿馬とは言い難い馬一頭が引く小さな荷車だった。屋根もない荷台は田舎町レムラで見かけたことが何度かあった。
嫌な予感が増していく中、馬からひょっこり顔を出す自称クレア=リム=レティスの婚約者もとい不審者。こちらの気も知らないで手を振ってくる姿に、クレアは殺意に近いものを抱いた。
「ジキル=マクレティ殿で間違いはないでしょうか」
「いいえ、人違いで「クレア様、ご冗談をおっしゃいますな」
慌てて遮ったのは、まごうことなき婚約者ジキル=マクレティだ。赤を基調とした貫頭衣の上にクレアが贈った外套を羽織っている。最低限の礼儀は守っているようだ。だが、その他――現れた時、状況、状態の何もかもが最悪だった。
「婚約者の顔をお忘れで?」
全力で記憶から抹消したいところだ。こんなことをしでかす婚約者ならば、なおさら。何故馬車から降りる前に始末しておかなかったのだろう。
クレアの怒気を感じ取ったのか、ジキルは引きつった笑みを浮かべた。
「遅くなりまして申し訳ありません」
謝罪すべきことは他に山のごとくあるはずだが。ブレイク伯爵の視線は、頭を下げたジキルの後ろにある荷台に向けられた。人間の子供の大きさはある塊が布にくるまれている。
「それは……」
「今朝獲れた猪です」
ジキルは布を捲った。桃色がかった赤身に程よく脂がのっている。既に解体も血抜きも済ませている新鮮な肉だった。
「私のような者まで寛大にも宴席にお招きくださった伯爵に進呈いたします」
「ほう! これはまた素晴らしい」
狩猟を得意とするだけあって、伯爵は獲物の価値を瞬時に見抜いた。他の取り巻き貴族達もつられるように感嘆の声をあげる。「さすがは『魔獣狩り』」 と二つ名を口にする者さえいた。猪一つでジキルの評価が急上昇したのをクレアは感じ取った。
「肉は料理人に調理させよう」
使用人が馬から荷台を外して数人がかりで引いていく。重たい荷から解放された馬はほっとしているように見えた。
意気揚々として屋敷に戻るブレイク伯爵の背中を見送るジキルにクレアもといクレオンは近寄った。周囲に人気がないことを確認してチョーカーを外す。
「罠を仕掛けて獲ったのか?」
「まあね」
クレオンは頭の中ですばやく計算した。別れたのが昨日の昼頃。獣が動き回るのは真夜中。解体は仕留めたら即座に行うもの。以下の要素から導き出される結論――
「ずいぶんと早く掛かったな」
ジキルが昼過ぎに仕掛けた罠に、その晩の内に猪が引っ掛かったということだ。クレオンが率直な見解を述べると、ジキルは右の頬を人差し指でかいた。
「以前、あの辺りにしばらく滞在してたことがあってさ」
「なるほど」クレオンは頷いてから目を眇めた「――で? その話の裏は?」
「近辺を縄張りにしている罠猟師に交渉して獲物をわけていただきました」
ジキルはあっさりと自白した。清々しい程の潔さだった。
「僕へのあてつけか。猪肉ごときのために駆けずり回るなど馬鹿馬鹿しい」
「そんなんじゃない。ただ、手ぶらで行くのもどうかと思ったんだ」
「手土産くらい僕が用意している」
田舎貴族ではあるまいし贈り物に困ることなど、王族である以上まずありえない。ジキルに見くびられた気がして腹立たしくなった。
「うん。知ってる」
予想だにしなかったジキルの発言に、クレオンは呆気に取られた。
「知っていた、だと?」
「土産だけじゃない。今回のパーセン行きの諸々の手続きも準備も全部クレア王女とクレオンがやってくれただろ?」
こちらの動揺を知ってか知らずかジキルは朗らかに笑った。
「パーセンに行きたいと言ったのは俺なのに、何もかもクレオンにやってもらった。俺も少しは協力しなきゃ」
本当に思いやっているのなら、大人しく馬車に乗っていてほしかった。気を遣う方向が色々間違っている。
「貴様の『協力』とは十分な進物に猪一頭を追加することか」
「牝だしよく太ってるから美味しいよ、きっと」
クレオンは頭に鈍痛を覚えた。どうしてこの貧乏人は自分の神経を逆撫でするようなことを次々とするのだろう。
「僕はやめろと言ったはずだ」
「そうだね」
「貧乏臭いとも、品性を疑われるとまで言った」
「まあいいじゃないか。伯爵は喜んでくれたんだから」
「そういうことを言っているんじゃない」
声を荒げてクレオンは我に返った。幸いなことに周囲には誰もいない。警備の者も伯爵達と共に移動している。
「何故お前は腹を立てない? 一方的に、理不尽に責め立てるだけの僕を」
苛立ちの原因は単純明快だった。どんなに蔑まれても意に介さないジキルが大物で、対する自分が酷く矮小なもののように思えてくる――それが耐えられなかったのだ。
「そうかな?」ジキルは首をひねった「俺はむしろクレオンには感謝しているんだけど」
「馬鹿な。僕は感謝されるようなことなど何もしていない」
「だってクレオンは俺の頼みごとを聞いてくれたじゃないか」
どこまでお人好しなのだろう。なんでもかんでも自分に都合良く解釈する思考回路を羨む気持ちさえわいてきた。
「仕方なく、だ。望んでやったことではない」
「そう、つまりはそれだよ」
何が楽しいのか、ジキルは嬉しそうに首肯した。
「正体がバレたら困るのに、魔獣に襲われた時に助けてくれた。ギデオン王子とは話すのも嫌なのにパーセンの視察役を譲ってもらえるように頼んでくれた。忙しいのに俺のコート選びに時間を割いてくれた。これは十分、感謝するべきことだと思う」
「あれは……お前があまりにも頼りなくて、見ていて苛々しただけだ。パーセン行きだって、お前が僕の婚約者でなければ聞きもしなかった」
「でも、そのおかげで俺は助かったんだ。そりゃあ俺だって腹が立つこともあるさ。けど、なんだかんだ言ってクレオンは結局、俺のことを助けてくれるのを知ってるから」
クレオンは言葉を失った。権謀術数渦巻く宮廷で人の裏を読み利用する術を体得した。しかし、こんな時にどうすればいいのかは知らなかった。誰も教えてはくれなかった。
「いつもありがとう。今度レムラに帰ったら、猪鍋をご馳走するよ。ロイスの方が獲物を捌くのも血抜きも上手いから、もっと美味しい猪肉が食べられる」
能天気なことを言うジキルの顔を見据える。
不意に、クレオンはレムラでのやり取りを思い出した。カスターニ伯爵が『クレオン』を貶したら、それまで嫌味を受け流していたジキルが突然反論した。あの時、まだジキルはクレアがクレオンだとは知らなかった。クレアの目があったとはいえ、クレオン本人が不在なのだからいくらでも伯爵と話を合わせることもできたはずなのに、彼はそうしなかった。
何事においてもそうだ。ジキルには裏表がない。他人に対する好意を隠そうとしない。非常に愚かなことだとクレオンはいつも呆れていた。
笑顔の裏に憤怒が、涙の裏に策謀があるのが宮廷だ。生き抜くには常に裏を読み、誰も信じないことが必要不可欠。そうしてクレアは――クレオンは生きてきた。
それが間違っているとは思わない。
だが今、ジキルを見ていて、気づく。
裏表がなく、好意を隠そうともしない愚かな人間だからこそ、好意を寄せられ信頼されるのだ、と。誰も信じない者を一体誰が信じるのだろう。
(だが僕には、無理だ)
クレオンは深く息を吐いた。ジキルのように生きることはできない。
「付き合いきれん」
黒のチョーカーを首にはめて会話の終了を示す。ジキルを置き去りに屋敷へと戻った。が、数歩進んだところで足を止める。
「エスコートはしていただけませんの?」
こんなこと、とても面と向かっては言えない。背中を向けたままでクレオン――クレアは訊ねた。
「仮にもわたくしの婚約者でしょう?」
ジキルは小走りに近づいて腕を取った。ぎこちない手つきでいささか不安を覚える。貴族の洗練されたエスコートとは比べものにならないが、クレアは黙っておいた。
「参りましょう、クレア王女様」




