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  (五)恋に盲目な王子様

 そうして迎えた出立の日。ご丁寧にもクレア王女とは別に用意された馬車の前で、ジキルは婚約者を待っていた。もともと荷物が少ないこともあってジキルの準備は既に終わっている。見送ってくれる友人も、挨拶をする人もいない。完全に手持ち無沙汰だった。

「やあ、ひさしぶりだね」

 話す相手もいないのでジキルは自分用の車に繋がれた馬に声を掛けた。磨き抜かれたハミもさることながら、手入れの行き届いた馬は誇らしげに見えた。茶色のたてがみは日の光を受けて輝いている。

「今度は魔獣に襲われないといいんだが。その時はまたよろしく頼むよ」

「気安く触らないでもらおうか」

 ジキルはたてがみに伸ばしかけた手を引っ込めた。

 呼んでもいないのに数人の従者を連れてやってきたのは、見覚えのある青年だった。ジキルは「げっ」と漏らしそうになった声を喉の奥に押し込んだ。

 歳は今年で十九になると聞く。先の剣術大会で準優勝を誇るだけあって、体格も立派だ。背も高く、必然的にジキルを見おろすことになる。しかし身長差がなくともこの青年はジキルなんぞ当たり前のように見くだすのだろう。それだけの地位を持っていることは、胸にある月桂樹の紋章が示していた。

「馬は賢く、気位が高い。自分より下と見なした者に背中を許すなどもってのほかだ」

 言外に馬以下となじられたジキルは内心ため息をついた。

(なんでよりにもよって、こいつが)

 こいつ――もといこのお方は腕を組み、値踏みをするかのようにジキルのつま先から頭のてっぺんまで眺める。その間、彼の背後に控えているサディアスは同情的な眼差しをジキルに寄こしていた。

 ジキルは背筋を伸ばし、恭しく一礼した。

「ギデオン様におかれましては、ご機嫌うるわし」

「クレアはどこだ」

 リーファン王国第一王子ギデオン=リム=レティスは、挨拶の口上に被せて訊ねた。この程度の非礼でいちいち腹を立てていては命がいくつあっても足りやしない。

「出立前のご準備をされています」

 答えながらもジキルは気づいていた。ギデオン王子が言いたいのはそんなことではない。クレアの居場所を訊いたのは確認であり、前振りだ。これから始まる嫌味の。

 ギデオン王子は不快げに眉を寄せた。

「ここは王族のみに許された裏庭。クレアがいるならばともかく、貴様のような下賤な輩が一人我が物顔でのさばってよい場所ではない」

 今日もまた喧嘩腰。とはいえ、この王子様は初めてお会いした時から敵意をむき出しにされていたので、ジキルはさほど堪えなかった。憎まれる理由もサディアスから聞いている。納得はできないが。

「陛下にも困ったものだ。仮にも王族とあらば然るべき嫁ぎ先があるというのに、何故よりにもよって何処の馬の骨かも知らぬ者を」

 お言葉だが、ジキルは少なくとも邪悪で狡猾な竜や、二十も歳が離れた寡夫よりはまだいいと自負している。

(俺は男じゃないけど)

 性別詐称はお互い様だ。ジキルは反論する気も失せて「以後、気をつけます」とだけ言った。ここ数ヶ月で学んだ一番無難な返答だ。まかり間違っても真実を告げるわけにはいかない。

(クレアも女じゃない)

 嗚呼なんという悲運。なんという間抜け。もはや泣けばいいのか笑えばいいのか、どっちなのかもわからない。ジキルという邪魔者が消えても問題は全く解決しないというのに。

 見くだしている下賤な輩にまさか自分が憐れまれているとは夢にも思っていないギデオン王子は、今度は新調したばかりのコートに目を留めた。

「黒一色とはずいぶんとみすぼらしい外套だな。まるで喪服ではないか。王家の品位を損なうような服装は謹みたまえ」

 よくもまあ次から次へとめざとくケチを付けられるものだ。貴族という未知の生物に対してジキルは感慨さえ覚えた。

 しかし、いくら貴族が嫌味を言わずにはいられない生物だとしても、黙っていられることとそうでないことぐらいは平民とてある。そしてギデオンが乏したこのコートは、ジキルにとって後者に当たる。

「お言葉ですが、殿下――」

 遠慮がちではあったが反論しようとしたジキルの台詞を、澄んだ声が遮った。

「お褒めに預かり恐悦至極に存じますわ、ギデオン王子」

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