(八)複雑なお年頃の少年
訓練場に来るよう伝言を受け取ったジキルは、いつも通り着なれたコートを探そうとして、手元にないことを思い出す。つい先日、クレア王女の使用人に燃やされてしまったのだった。
婚約が正式に決まってからというもの、王家の方々への挨拶やら式の準備とやらで忙しく、失った外套のことを気にかける余裕もなかった。実際に面会する時間はせいぜい十分程度だが、そのための準備には軽く一、二時間。すり減る神経は普段の数十倍。ともすれば人並み外れて頑丈なはずの胃が、痛みを訴えてきそうだった。
(コート、買わないとな)
調達するなら品揃え豊富な王都で、だ。本格的な冬を迎える前に外套は手に入れておきたかった。寒さと空腹ほど辛くて惨めなことはない。たとえ多少値が張っても今の自分ならば、大した出費にはならないだろう。もうジキルはコート一着のために労苦するほど貧しくないのだ。
問題は、どんなものを買うか、だった。みすぼらしいと非難された記憶は早々に消えそうにはない。高貴なるクレア=リム=レティス王女様の婚約者に相応しいコートとは、一体どういうものだろう。ジキルには全く見当がつかなかった。
(クレオンに頼むか)
彼に頼めばまず文句を言われることはない。ただ問題なのは、ジキルの財布の中身がもつかどうかだ。あの王子もとい王女だと相場も考えずに品質とデザインだけを重視して選びそうな気がした。
あれこれと思い悩んでいたジキルだったが、ほどなくして解決策は見い出された。ご機嫌うかがいにやってきたサディアスが、事情を聞くなり貴族、それも軍人御用達の店を教えてくれたのだ。さらに、今すぐには無理だが近日中に買い物にも付き合ってくれると言う。願ってもいない申し出だが、仮に第一王子付きの近衛兵連隊長にそこまでさせてよいものかと躊躇していると、サディアスは軽く言った。
「連隊長にだって休日はある。君が気にすることじゃない。それに、俺としてもこの前の無礼のお詫びもしたい」
「無礼?」ジキルはその意味を考え、ようやく思い出した「あれは、別に」
「いや、不快な思いをさせてしまった。本当にすまない」
サディアスは深々と頭を下げる。律義な人だとジキルは感心した。城に帰還した日、ジキルのことを女性だと『誤解』していたことをすまなく思っているのだ。間違いではないのだが、そう告げるわけにもいかず、やむなくジキルは謝罪を受け入れることになった。
「ところで、これからどこかへ行くつもりだったのか?」
「クレオンに呼ばれてね。訓練場に」
なんでも、近衛兵達に稽古をつけた後に話がしたいらしい。相手の忙しさを考えれば、ジキルが足を運ぶのは当然のことだった。約束の午後には早いが、近衛兵の訓練とはどういうものかを見学するのも悪くはない。
「時間が空いているのなら、第二近衛連隊を見ていかないか? ちょうど今、模擬戦を行っているんだ。第四近衛連隊も隣で演習をしているはずだ」
第四近衛連隊とは主にクレア王女の護衛を務め、かつ彼女の命に従う親衛隊のことだ。通常、リーファン王国の王子には最低でも一つの連隊の指揮権を与えられている。幼い時から軍を動かすことを学ばせるための慣習だった。よって王女に指揮権は与えられないのだが、クレア王女においては元王位継承権第一位だったために特別に編成され、そのまま残されているのだ。
それはさておき、サディアスの提案に一、二もなくジキルは頷いた。クレオンの許可もなく第四近衛連隊の訓練中にジキルが現れたら、またしても怒られる可能性が高いからだ。こっそり見るよりは堂々と見学したい。
「じゃあお言葉に甘えようかな」
ジキルはうきうきしながら訓練場へと向かったのであった。
そして模擬戦終了後、そろそろ頃合いだろうと向かった第四近衛連隊の訓練場にて。
「遅い」
と、開口一番にクレオンが言い放った。その背後では彼の指揮する第四近衛連隊が、足並みをそろえて行進訓練を行っている。直接指示を出しているのは副隊長と思しき軍人だ。つまり、訓練の真っ最中だということ。
「約束は昼前だったか?」
「なんのために伝言を遣わしたと思っているんだ」
「確実に伝えるため」
「僕自身が行く暇がなかったからだ。いつ時間が空くかもわからない状況だということを察して、訓練場の傍で待機するくらいの気遣いを見せろ」
臆面もなく吐かれた暴君台詞にジキルは返す言葉を失った。
「なんだ、その目は」
「……おまえ、自分で言ってて無茶だと思わないか」
天動説よろしく太陽も月も何もかもが自分を中心に回っているとでも考えているのか。異世界人を目の当たりしたような感動さえ覚えてきた。
「で、まあ俺の配慮のなさはさておいてだな。一体何の話だ」
「婚約式のことだが」クレオンは声を潜めた「ほぼ確実に中止になるから安心しろ」
「あ、そうなんだ。それはよかった」
しきりに頷いてからジキルは何かがおかしいことに気付いた。
「……なんで?」
「婚約式に乗じて陛下を狙う暗殺計画を掴んだ。第三王女ということもあって、クレア王女の婚約式は身内だけのごくわずかな人数で慎ましく行う予定だ。参列者も公爵以下数十名程度となれば、当然警備もさほど多くは配置できない。事を起こすには絶好の機会だ」
「それでも婚約式やるのか? やめておいた方が――」
「ダニエル国王派にしてみれば、反現国王派を捕らえる絶好の機会でもある」
食事に毒を盛ろうが、刺客をさし向けようが、確たる証拠がなければ罪には問えない。国王の信頼が厚い貴族ならばなおさらだった。その点、現行犯で取り押さえれば楽だし確実だ。現場に居合わせた全ての者が証人となる、
「多少の危険はあるだろうが、既に警備の配置は僕とサディアス、将軍とも話し合っている。実行犯に出るであろう貴族の目星もついている」
「つまり、こっちの思うつぼ状態なわけか」
「油断はできないが、そうだな」
だからあんなにあっさりと婚約に賛成したのか。ジキルは納得した。クレオンのことだから、以前から不穏な気配を察知していたのだろう。絶好の機会を作り出して連中をおびき出すつもりだったのだ。
「ということは、無事に実行犯を取り押さえて反国王派の連中を逮捕できたら、クレア王女と俺の婚約も白紙になるってことだよな? そのための婚約だったんだから」
「国王陛下にその旨は伝えてある」
いささか憮然としながらもクレオンは答えた。ジキルは拳を握った。これで解決。逃亡せずに済むのだ。ロイスに怒られることもない。暗殺計画なんて物騒なものに巻き込まれる危険性は、この際目をつぶろう。邪竜オルブライトに挑むことに比べれば可愛いものである。
手放しとまではいかないが、素直に喜ぶジキルの傍らで、クレオンがため息混じりに「そんなに、嫌か」と独りごちた。
「ん? なんだって」
「なんでもない」
クレオンは行進を続ける部下の方へ身体を向けた。少し乱れていた足並みが、今ではずいぶんと揃っている。
「あ、でもそうなると、サディアスにコートを見繕ってもらう必要がなくなるな」
せっかく貴族御用達の店まで紹介してくれたのに、それはそれで申し訳ない。ジキルも楽しみしていたので残念だ。
「コート?」神経質そうにクレオンの眉が跳ね上がる「何故そこであいつの名前が出てくる」
「今度時間が空いた時に買い物に付き合ってくれるんだ。ほら、俺って流行とか礼儀もよくわからないから、外套一着買うにも誰かに助言してもらわないと」
クレオンは自らが指揮する第四近衛連隊に目を向けたまま、ジキルの方を見ようともしなかった。聞いているのかさえ疑わしい。
「……ずいぶんと仲が良くなったな」
唐突に、クレオンが呟いた。素っ気なさを装いながらも、どこか含みのある言い方だった。怪訝とも不快ともつかない、ほんのわずかな心の揺れだった。内心首を傾げながらもジキルは肯定した。
「あいつ、妹と弟が一人ずついるんだって。俺も同じだから話が合うんだ」
クレオンはひたと前を見据えた。その横顔には先ほどの動揺は微塵もなく消えていた。




