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  (六)温度差著しい婚約者

「どういうことなんだ」

 宛がわれた客室に戻るなりジキルは問い質した。彼がまだ『クレア』であることも忘れて。

 クレア王女――もといクレオンは控えていた侍女に下がるように命じた。二人きりになったところで、呆れたように目を眇める。その見下した眼差しは深窓の令嬢がするものでは到底なかった。人は表情一つでここまで受ける印象が違うのだと思わせる。つい一瞬前までは女性以外には見えなかった『クレア王女』が今や立派な生意気で可愛げのない『クレオン』だ。

「先が思いやられるな。仮にも婚約者に向かってその口の利き方はないだろう」

 高く変えていた声も、元の低いものに。ここまで素が現れると今度はドレスを身に纏っていることに違和感を覚える。この『王女』と結婚。悪い冗談としか思えなかった。

「婚約? まさか本気じゃないだろうな」

「僕は至って本気だ」

 クレオンは豪奢な椅子に腰掛けた。

「カスターニ伯爵はどうするんだよ」

「幸いなことにまだ婚姻はしていない」

 しかしお互いに合意していたのではないのか。だからこそクレオンはジキルに決闘を申し込んでまで婚約を辞退させようとした。書類こそ交わしていないが、それは立派な結婚の約束だ。

「それって婚約破棄じゃないか」

「ただの口約束にどれだけの有効性がある。先約は向こうかもしれないが、陛下の命令ならば仕方ない。伯爵も引き下がらざるを得ない」

 せめて反対ぐらいはすべきだと思うが。少なくとも自らジキルとの婚姻に乗り出すことはない。

「伯爵にはクレアの名で詫び状でもしたためておこう」

 手紙一通で引き下がる婚約者ってどんなだ。ジキルはもはや突っ込む気力もわかなかった。雲上人の考えを一般市民が理解できるはずもない。婚約に対する見解の相違はさておき、クレオンのこの積極性。どうも腑に落ちない。

「あれだけ嫌がっていたのに。どういう心境の変化だ?」

 面と向かって『嫌い』だの『苛立つ』だの言われたのは妹以外では初めてだった。妹は照れ隠しだと思えば納得もできる。しかし、ほぼ初対面で言われてしまえば、あまり物怖じしないジキルでも歩み寄ることはできない。相手に最初から仲良くする気がないのだから――と完全にクレオンとの関係をあきらめていただけに不思議だった。

「考えたんだが」クレオンは悪びれもせずに言った「伯爵だろうと誰だろうと僕にしてみれば同じこと。ただ隣に立つ人間が変わるだけ――だったら別にお前でも構わない。むしろ内情を知っているお前と結婚しておいた方が有益だ」

 好悪は関係なく、ただ単に伯爵よりも都合がいいからジキルと。

「つまり、政略結婚か」

「その通りだ」

 クレオンはあっさり肯定した。そもそもカスターニ伯爵との婚姻も後ろ盾を得たいがためだったのだから、当然と言えば当然のことだった。

「お前にとっても悪い話じゃないはずだ。せいぜい婿の立場を利用するといい。僕もお前を利用させてもらう」

 変に取り繕わない分、クレオンはいい方なのかもしれない。彼は冷酷なのではなく、非常に冷静で合理的なのだ。一国を背負う家に生まれただけはある。

(それにしてもなあ)

 ジキルは首を捻った。釈然としなかった。国王の命令だから従う。ただそれだけの理由で、一度しか使えない札をここで出してしまうのは惜しいような気がした。クレオンらしからぬ早計だった。

「ところで、あのコートはどうなった?」

「こんな時にボロくさいコートの心配か。ずいぶんと余裕だな」

「そう言うけどな」ジキルは口を尖らせた「おまえが了承してしまった手前、今さら婚約撤回なんてできるわけないだろ」

 回避できない事態について悩んでも無駄だ。言っても駄目なら実力行使。ジキルの中では既に逃走計画が立ち上がっていた。しかし、逃亡するにもコートは回収しておかねばならない。

「それで、俺のコートは?」

 しばしの沈黙。天井を仰ぐクレオン。その薄い唇が微笑を描く。

「捨てた」クレオンは前髪をさらりと払った「あまりにも酷い状態だったからな。使用人にさえもゴミと認識されたらしい」

 ごーん、と。ジキルの頭の中で重厚な鐘の音が一つ鳴った。

 捨てた。

 自分の承諾もなしに。あのコートを。

「す、て、た……?」

 掠れた声で復唱するジキルに、クレオンは悪びれる様子もなく頷いた。

「ああ。捨てたとも」

 おまけに、クレオンは何故か妙に誇らしげに胸を張る。まるで居直ったかのような尊大ぶりだった。

「それがどうかしたか」

「どこに?」

「使用人が処分したゴミの行く末なんて、僕の知ったことじゃない。ま、それほど気になるのなら使用人に訊いてみたら、」

 みなまで言い終わる前に、ジキルは部屋を飛び出した。背後からクレオンが「おい待て」と声を掛けるが、振り向く余裕はない。静まりかえった回廊に、せわしないジキルの足音だけが響く。

 向かったのは比較的近くにあった厨房。晩餐の後片付けを終えて、明日の仕込みをしている下働きに、ゴミの集め場所を訊ねた。

「西の裏口から出て少し歩いた先にありますが――」

 ためらいがちに下働きの少年は付け足した。

「もう今日の分は運び出していると思いますよ。大抵は埋めたり、焼却処分していますから」

「しょ、焼却……っ!」

 なんということだろう! ジキルは卒倒しそうになった。

(燃やした……あのコートを。よりにもよって)

 ジキルは額に手を当てた。ごうごうと燃え盛る炎の音が頭の中で鳴り響く。ともすれば崩れ落ちそうになる足に力を入れた。

「だ、大丈夫ですか? どうかなさいましたか?」

 気遣う言葉にも渇いた笑いしか返せない。おざなりに礼を言って、重たい足取りで部屋に戻った。

 意外にも、クレオンはまだジキルの部屋にいた。手持無沙汰だったらしく、部屋の本棚の書物を読んでいた。てっきりもう自室に帰ったと思っていたのに。

「その様子では無駄足だったようだな」

「……うん」

 ジキルは力無く頷いた。後悔しても遅い。うかつだったとしか言いようがなかった。

「高価なコートだったのか。そうは見えなかったが」

「いや、安物だったと思う。買う時も値切ってたくらいだから」

「ポケットに貴重品でも入れていたのか」

「小銭とか飴とかは入ってたかもしれないけど……特には」

「わからない。では何が重要だったんだ?」

 ジキルは磨き抜かれた床に目を落とした。叱られた子供のような心境だった。

「貰いもの、だったからさ」

 返答は言い訳めいていた。クレオンは呆れたように目を眇めた。

「大切な貰いものを、安易に他人に貸した自分を責めることだな」

 ごもっとも。先に言っておくべきだった。たしかにあのコートは古くてぼろかった。裂けてもいたので、ゴミだと思うのも当然だ。

「まあ、それもそうか。仕方ないね」

 へらりとジキルは相好を崩した。途端、端整な顔に怒気が浮かぶ。クレオンは読みかけの書物を乱暴に閉じた。

「一つ、忠告しておく」

 クレオンは椅子から立ち上がり、ジキルを睨んだ。

「さっきも言ったが、僕にとってはカスターニもお前も同じだ。利用価値がなくなった時点で切り捨てる。僕に情けだの友好関係だのを期待するな」

 鋭い視線に射竦められる。ジキルは首を傾げた。

「でも、少しは信用してくれているんだろ?」

 そうでなければ、クレアとクレオンが同一人物であることは明かさなかったはず。魔獣の群れに襲われていようが、ジキルを置いて一人で逃げればよかったのだ。

「信用? お前をか?」クレオンは冷笑した「あいにくだったな。僕は誰も信じていない」

 紫水晶のような瞳に、見るものの背筋が震えるほどの冷酷な光が灯る。捨て台詞を吐いて、クレオン――いや、クレアは部屋を出て行った。

 豪奢で広過ぎる部屋に残され、たった一人。ジキルはクッションのきいたソファーに身を投げ出した。

「なんか、疲れたな」

 見上げた天井にはこれまた立派な彫刻が施されていた。これからなずべきこと。しなければならないこと。考えることはたくさんあったが、気力がわかなかった。瞼が重い。ジキルは目を閉ざした。

 風邪をひくからあったかくして寝なさい。

 そう言ってくれた優しい声も、今では聞こえない。もう二度と聞けないのだと思うと、ジキルの目頭が熱くなった。


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