(八)騎士にとても似ているお姫様
「げっ……」
ジキルは喉を潰したような奇声をあげた。睨めっこしている場合ではない。素早く荷を背負って立つ。クレア王女もまた、弾かれたように立ち上がり、警戒を露わに周囲を見渡した。
「また、あの魔獣ですか」
「おそらく」
鳴き声が同じだった。倒し損ねた魔獣だろう。半数程度には減っているはずだが、それでも十頭近くは残っていた。
対するこちらは馬もない。戦えるのはジキル一人。ざっと考えて十対一。それもクレア王女を庇いながら――眩暈を起こしそうな状況だ。脳裏に浮かんだ絶望的な結末に、ジキルは空を仰いだ。
「ああもう、次から次へと!」
クレア王女の手を取って走り出す。逃げ切るためではなかった。人間が狼の足に敵うはずがない。相手は獣だが歴戦の猟師だ。身体能力、経験共にジキルを凌駕する。
木々に視覚が遮られる場所では不利だ。相手は目ではなく鼻を頼りに獲物を狩ろうとしているのだから。背後に回り込まれる心配のない場所――山頂へと続く岩の道に向かって、二人は全力で駆けた。
ジキルとクレア王女が岩場に辿り着く頃には、魔獣の遠吠えは威嚇の咆哮に変わっていた。色々罠を仕掛けて待ち構えたいところだがそんな猶予はもはやない。茂みから魔獣の群れが飛び出てきたのだ。その数、十匹余り。驚嘆すべき執念深さだった。
ジキルは足止め用に乾燥させたヒシの実をばらまいた。
次いで荷物を落とし、中から油の入った小瓶を取り出したが、そこで時間切れ。ヒシの棘を免れた魔獣がジキルに飛びかかってきたのだ。身体を捻り様に抜剣。魔剣ノエルの刃に肩を大きく切り裂かれた魔獣は、血を噴き出して倒れた。
「岩の裂け目へ!」
クレア王女を先に行かせ、ジキルは倒れた魔獣の背中にトドメの一撃を加えてから、さらに奥へと退却した。大岩というよりは岩壁。しかも幸いなことにその裂け目は狭かった。いかな魔獣とはいえ、一斉には襲い掛かれない。
つまり、一人でも足止めができるということだ。
「予定変更です。クレア王女、すみませんがここからはお一人で」
ジキルは手に掴んでいた小瓶を魔獣がいる側の地面に投げつけた。ガラス製の小瓶はかん高い音を立てて割れ、周囲に油を飛び散らせる。
「頂上を目指して走ってください。休憩所はそんなに遠くはないはずです。もしも途中で力尽きてしまったり、獣に襲われそうになったら最後の手段です。これをお使いください」
鹿笛をクレア王女の手に握らせる。鹿の角で作った笛だ。その名の通り、鹿の鳴き声に似た音を出すことができる。
「強く吹けば、大きな音が出ます。近衛兵達が気づいてくれるかもしれません。それに、威嚇の鳴き声にもなりますから、大抵の獣なら逃げ出すでしょう」
さすがに狼、それも魔獣相手では全く効果はないだろうが。あとは護身用にナイフを一つ。もっと他にも渡したいものはあるが、使い方を説明している時間もない。
クレア王女は血相を変えた。瞳が困惑に揺らめく。
「……お、おまえはどうす、」
「こいつらを足止めしてから後を追いかけます」
ジキルは懐からマッチを取り出した。片手で火をつけてタイミングを待つ。
「ご心配なく。これでも猟師ですから」
魔獣が襲いかかる瞬間を狙って火種を油に投げ入れる。魔獣が踏みしめた地面が炎上。肉と毛が焼ける嫌なにおいが漂い。黒い煙がもうもうと立ち込める。
「さあ、早く!」
ジキルは魔剣ノエルを両手に持ち、残炎目がけて突進した。炎に怯んだ隙に何頭倒せるかが勝負だった。自分の力量では、魔獣達を殲滅させることは不可能であることはわかっていた。せめて罠をあともう一つ仕掛けることができたなら勝機もあっただろうが。
――いや、勝機はまだある。
ジキルは剣の柄を強く握った。クレオンの持つ魔剣で氷の魔法が使えるように、ジキルの持つ魔剣ノエルもまた魔法の力を秘めている。
魔剣ノエルを振るいながらジキルは秘めたる魔法を発動させることを考えた。気は進まなかった。しかし、死んでしまっては元も子もないのだ。
魔獣の爪を剣で受けとめる。ただの狼ならば爪ごと腕を絶ち切れただろうが、相手は魔力で超進化を遂げた魔獣だ。爪にはひび一つ入らない。剣の刃と互角につばぜり合いをする。純粋な力勝負ではジキルの分が悪かった。ジキルの動きが止まったところで他の魔獣達が飛びかかってくる。
やはり魔剣か。ノエルの力を使うしかないのか。ほぞを噛んだジキルの脇を疾風が駆け抜けた。
「へ……っ!?」
刃が喉に突き刺さる。それがトドメの一撃となり魔獣は絶命。次いで飛びかかってきた魔獣を一太刀で斬り伏せる。力を失った胴体が地に伏すのを待たずしてクレア王女は奥で吠えていた魔獣の群れへと襲いかかった。
手にしているのはナイフではなく反りのある剣。やや細身とはいえ重みのある剣を片手で軽々と操り、斬り込んでいく。魔獣の牙を素早いステップでかわし、さらに深く、鋭く、踏み込む。その動きは『貴族の令嬢の嗜み』程度のものではなかった。
ジキルが呆然と見ている間に、魔獣は次々と血を噴き出して倒れる。最後の一頭の首を刎ね飛ばし、クレア王女は悠然と刃についた血を拭った。返り血を浴びるどころか息一つ乱さずに。
ジキルは目を見張った。クレア王女が手にしている剣に見覚えがあったからだ。
「その、魔剣は……」
銘は知らない。だが所持者は知っている。クレオンだ。近衛連隊長の剣を何故王女が持っているのか。見事な剣さばきは一体いつどこで体得したのか。疑問符を浮かべるジキルにクレア王女は向き直った。
「ジキル=マクレティ。あなたに言わなければならないことがあります」
顔からも瞳からも感情が読めない。戸惑うジキルにクレア王女は歩み寄る。気心の知れた友人に向かっているような、自然な動作だった。場にそぐわない。余計に不気味さは増した。クレア王女は、なおも動けずにいるジキルの喉元に魔剣の切っ先を突きつけた。
「今見たことを他言しようものなら、命はないと心得なさい」
敵意を剥き出しにして刃を向けるその様に、ジキルは既視感を抱いた。そう、あれは鍛冶屋でのことだった。初対面で、一方的に敵とみなされて決闘する羽目になった。
自分達の関係は、あの時から全く進んでいないのかもしれない。




