(六)甘やかす親友
ソリ=オルブライトの棲処は、孤島の南に位置する洞窟だった。巨大な竜が座すだけあって、村一つ分ほどの深さと広さがあった。自然に発生したとは思えない。もしかするとオルブライトが自ら掘り進み、巣穴を作ったのかもしれない。
クレオンが巧みにオルブライトを操縦し、洞窟の奥底まで『魔界の扉』を運び入れた。オルブライトの寝床と思しきその場所は一際開けた空洞だった。天井が高く、わずかに差し込む陽光と『魔界の扉』の燐光でようやく全貌が見渡せる。
「ここが『広間』だ」
クレオンはオルブライトから降りた。彼にしてみれば二度目となる訪問だが、その顔には何の感慨も浮かんでいなかった。
「元々洞窟だったものに、何代か前の国王が生贄用の部屋や貢物を運び入れるための通路を増築させたらしい」
指差す先は『広間』のさらに奥、地下へと続いているであろう階段が見えた。
「ずいぶん暴れたようだね」
キリアンは大きく裂かれた岩壁を指でなぞった。おそらく、オルブライトの爪痕だろう。よくよく見れば地面が黒く変色している。おびただしい量の血が染み込んでいるのだ。不自然に砕けた岩、窪み、焦げ跡ーー様々な痕跡が一度目の戦いの激しさを物語っていた。
ここで、ジキルはオルブライトを討ち倒したのだ。キリアンは確信した。
大量の罠の残骸が放置されている。折れた弓矢。落とし穴。槍に毒針に火炎瓶と多種多様だ。仕掛けてそのままの物さえある。回収する暇がなかったのだろう。キリアンはその一つ一つをたどるように確認した。
ジキルは無茶をする子ではあるが、決して無謀ではなかった。伝説の竜に挑むにあたり最大限の準備を整えていた。
(よくもまあここまで……)
オルブライトが寝床を離れている間にせっせと仕掛けたのだろう。材料を運び込むだけでも大変だったろうに。
自分に声を掛けてくれたのなら、と思わずにいられなかった。最初は止めるかもしれない。でもジキルの決意が固いと知れば手を貸しただろう。
(もし僕がこの場所にいたのなら)
もっと早くオルブライトは倒せただろう。ジキルが危険な目に遭うことはなかった。生贄の部屋に一人で向かわせることもない。厄介なことになると察知した瞬間にクレア王女を置いて島から出て行っただろう。ジキルが婚約することはなかった。
つまるところ、キリアンの後悔はただ一つ。
ジキルとクレオンが出逢ってしまったこと。ただそれだけが悔やまれてならなかった。
「クリスは倒せたのか」
不意にクレオンが呟いた。やはり気になるようだ。
「どうだろう。『魔界の扉』の力を失ったとはいえ、相手は魔族だ。苦戦はしているかもしれないね」
「そう思うなら何故お前も残らなかった」
「一介の猟師が一人増えたところで大勢に差はないよ。それに僕は臆病だからね。君たちとは違って何度も魔族に挑む気概はない」
心にもないことをキリアンは口にした。白々しさに自分で笑いそうになった。
「王都に戻ろうか」
「あれを置いてか?」
クレオンは玉座よろしく安置された『魔界の扉』を示した。魔力を奪う魔導石がないので、これ以上は成長しようがない。しかし放置するにはあまりにも危険なものだった。
「そうだね。置いていくわけにはいかない」
キリアンは天井を仰いだ。わずかにあいた穴からは日が差し込むのが精一杯で、空の様子まではうかがえない。
「向こうからの便りを待つしかない、ということか」
「さほど時間はかからないと思うよ」
(そろそろ到着した頃かな)
アララトを放ったのは洞窟に入る直前だった。邪竜オルブライトに負けずとも劣らない飛行速度を持つ魔鳥ならば、今頃はジキルに手紙を渡しているだろう。
「あれはお前が飼いならしたのか?」
「狩猟用にね。ウサギくらいなら勝手に捕ってくる。下手な狩猟犬よりずっと頼りになるよ」
自分で口にした単語に古い記憶を呼び起こされる。まだジキルがか弱い女の子だった頃、ノイラから命からがら逃げ出したマクレティ兄妹と一緒に暮らしていた時のことだ。
「以前、狩猟用に犬を飼っていたんだ」
キリアンは広間の出口を確認した。
「名前はノア。人懐っこくてね。ジキルもたいそう可愛がってた」
優秀な狩猟犬だった。獲物を見つけ出す嗅覚と追い詰める脚力に優れ、主人のためならクマやイノシシにも果敢に立ち向かう忠犬だ。
「でもある日、覚醒して魔獣化してしまった。間の悪いことに、たまたま側にいたジキルに襲いかかった」
魔導石の覚醒による一時的な凶暴化。しかしその際、ノアはジキルを噛んでしまった。
「一度人間の味を覚えてしまった獣は、人間を獲物と認識する。普通の獣よりも力に秀でた魔獣なら、なおさらだ。殺すしかなかった」
狩りの獲物を捌く時と同じだと思っていた。弱肉強食は世の常だ。害獣と成り果てたものを処分する。何度もやってきたことだった。
それが、大きな間違いだったと気づいたのはノアの頸動脈を切り裂いた後だった。
魔獣は抵抗しなかった。悲しげにこちらを見て、甘えるように、いつものように、声にならない鳴き声をあげて息絶えた。
キリアンは震えた。その場に崩れ落ちて吐いた。初めて獲物を仕留めた時でさえこれほどの衝撃は受けなかった。もしかしたら、という考えが何度も頭をよぎった。ノアは正気を失っていなかったのかもしれない。魔獣と化していても、人の味を覚えてしまっていたとしても、変わらずキリアンの狩猟犬でいるつもりだったのかもしれない。それを断ち切ったのは他ならぬキリアンだった。
「山の麓に墓を掘ったよ。ジキルにも、母にも、誰にも言っていない。魔獣化していなくなったと嘘をついた」
聡いベラはキリアンが何をしたのか知っている。知っていて黙っている。構わなかった。キリアンにとって重要なのはジキルに真相を気取らせないことだった。
「何故、言わなかった」
黙って聞いていたクレオンが咎めた。
「猟師として教えておくべきことじゃないのか」
厳しいが正論。魔獣化した獣の危険性を理解しなければ、正しい判断は下せない。
「君の言う通りだ。僕はそうやってジキルをずっと甘やかしてきた。彼女がどんなに傷つこうが真相を教えることが、きっと正しいことなんだろう」
でも言えなかった。間違ったことだとしても。
「知らなくていいと思ったんだ」
凄惨で理不尽で、それでも懸命に生きようとするジキルだからこそ。キリアンは心から願うのだ。
「自分の大切なものを自分で殺める痛みなんて、あの子は一生知らないままでいい」
はてさてジキルは手紙の真意に気づくのか。以前の彼女ならともかく、今のーー成長したジキルに隠しおおせる自信はなかった。強力な保護者もいることだし。
時間は限られている。キリアンは矢を取り出した。
「さて本題に入ろう」
つがえた矢の先をクレオンに向けた。
「君は一体誰なんだい?」




