(十)帰ってきた近衛連隊長
気を取られた隙に覆面の男はノエルの刃を弾く。反撃するかと思いきや、男は窓を乗り越え、一目散に逃走した。呆れた襲撃者だった。
ジキルはノエルを下げたまま部屋を飛び出した。クレア王女の部屋の前に控えていたはずの護衛兵の姿がない。ジキルの部屋に侵入された時点で気付くべきだった。警護している部屋とは違うとはいえ、真向かいの部屋に黒ずくめの男が入ろうとしていたら、いくらなんでも怪しむだろうに。
「何事だ」
食堂の方角からクレオンが現れた。ドアノブに手を掛けていた状態で、ジキルは胸を撫で下ろした。
「クレオン! 無事だったのか」
「当たり前だ、馬鹿者」クレオンはにべもない「それで、夜中にクレア王女の寝室に忍び込んで、お前は一体何をするつもりだ」
ジキルはドアノブに掛けていた手を離した。
「誤解だ。覆面被った黒ずくめの変な奴が襲撃してきたから――」
「そうか」
温度差は縮まらなかった。クレオンは駆けつけた護衛兵の一人に屋敷をくまなく調べるように命じて踵を返した。
「あ、そういえば、クレア王女は? 大丈夫なのか」
「僕が一番優先すべきクレア王女を放置して、一番どうでもいいお前の様子を見に来るとでも思うか?」
クレア王女はたまたま別室で客人と会談していたという。こんな夜更けに誰と話をしていたのかは気になるところだが、訊ねても答えてはくれないのだろう。所詮、自分は『どうでもいい』厄介者なのだから。
クレオンはジキルの頭からつま先まで全身を不躾とも思えるくらいに凝視した。
「それよりもお前、晩餐の前菜を食べなかったのか?」
「ちゃんといただいたよ。それがどう……」
ジキルの台詞が途切れた。愚問だ。この状況を考えれば自ずと答えは導かれる。
「あのやたらと苦いサラダはお前のせいだったのか。他人には姑息だの言っておいて」
ジキルに礼服を貸したのは、是が非でも晩餐会に出席させるため。でないと食事に毒が盛れなくなる――他人の親切には裏があることの典型だった。
「失態を晒す機会を作ってやったまでだ。晩餐会を台無しにすれば居合わせた者達にも印象付けられる」
悪びれるどころか、クレオンは無様に倒れなかったジキルを察しが悪いと責めた。
挙句には「僕はお前の希望を叶えてやるために協力した。感謝されても恨まれる覚えはない」と真顔でのたまう。恐るべき発想だった。
「おまえなあ」
食ってかかろうとしたジキルの鼻腔を花の香りがくすぐった。思わず足が止まる。クレオンのイメージにはそぐわない、どことなく甘い匂い。
「クレア王女と同じ……だな」
「当然だ。つい先ほどまで一緒にいた」
移り香か。ジキルは納得し、ついでに引き下がった。冷静さを取り戻したのだ。
クレオンのしたことは許し難い。しかし自己申告してくれたおかげでようやく事のあらましが見えてきた。おかしいとは思っていたのだ。二種類の効能が違う毒を同じ人間に盛るなんて。
最初の苦いのはクレオンがジキルを陥れようとして盛った。最後の睡眠薬はカスターニ伯爵がジキルを抹殺しようとして盛った。どちらも最低で最悪だ。ジキルはいまだかつてないほど自分の体質に感謝した。
(ということは、少なくともクレオンとカスターニ伯爵は通じてない)
どちらか一方の企みを知っていれば、同じ晩餐の席で毒を盛ったりはしないだろう。
「それにしてもずいぶん間の抜けた連中だったな」
「当然だろう。貴族だ。戦の経験はあっても暗殺の実行犯なんてやったことがない」
「なるほど」
ジキルは納得――しかけて、止まった。聞き捨てならない。何故襲われたところを目撃してもいないクレオンが犯人側の事情を知っているのか。
「早まった真似はするなとあれほど忠告したというのに」
「知っていたのか?」
「つい先ほどだがな。カスターニ伯だろう?」
ジキルが頷くと、クレオンは深いため息をついた。
「事情を訊いても?」
「やむを得んな」
クレオンは周囲を見渡し、誰もいないことを確認した。
「ひとまず僕の部屋に行くぞ」
ジキルに異論はなかった。




