(八)悩める少年
屋敷に戻るなり、使用人達が迎えに立つ。もの言いたげな視線を無視してクレオンは靴音も荒く客室に向かった。クレオンは様々な理由により、クレア王女の隣の部屋にあてがわれている。忌々しいことに、ジキル=マクレティの部屋は向かいに用意されていた。
乱暴に開けた扉を、これまた感情に任せて閉じる。部屋は既に暖められていた。いつでも主人が帰ってきてもいいように、暖炉には火がともされ、適度な温度を保っている。
剣を下げたまま豪奢なソファーに身を投げ出す。苛々は増すばかりで留まることを知らない。これからのことを考えるにつけても支障をきたす。
とりとめのない思案に暮れることしばし。控え目なノックで漫然とした時間は終わった。「おかえりなさいませ」
扉から顔を出したのは、クレア王女付きの侍従長レオノーレだった。
「クレオン様、昼食の準備は既にできておりますよ」
「さげてくれ」
「ではお茶だけでも」
「いらん」
背中を向けて拒絶の意を示すも、レオノーレは踏み込んできた。幼少の頃から仕えてきただけあって遠慮がない。
「どこかでお召し上がりになったのですか?」
「ああ」
端的に答えてレオノーレを見上げる。剣呑ともとれる表情にしかしレオノーレは平然としていた。
歳はクレオンの亡き母と同じくらいと聞いている。細面のすっきりとした顔立ちに、慈愛に満ちた優しげな眼差し。女性にしては長身で、クレオンよりも背が高い。所作は美しく、礼儀作法も完璧だ。透けるような金髪を一分の隙もなく結い上げて整えている様はどこか超然としていた。
「いかがでしたか、婚約者様のご様子は」
「まだ正式には決定していない」不貞腐れたようにクレオンは腕を組んだ「最悪だな。あれと婚姻を結ぶくらいなら、オルブライトの生贄になっていた方がマシだ」
「それは穏やかではございませんね。さほど悪い方のようにはお見受け致しませんでしたが」
クレオンは鼻で笑った。レオノーレにしては珍しく、的外れもいいところだ。
「あれは、ただの苦労を知らずに育った田舎者だ」
たしかに、ジキルは世間一般的に言う「悪人」ではない。
婚姻の話が出る前からクレオンは、ジキルのことを調べさせていた。
ジキルの出身はここより北、レムレス山脈を越えた先にあるノストラ地方の村。五年前、干ばつによる飢饉で村を捨てて、難民としてレムラに住み着いたらしい。生まれ故郷の村が滅びたため記録が残されていないので、レムラに移住する前のことは全くと言っていいほどわからない。
その代わり、レムラ移住後の五年間の軌跡は随所に残っている。食堂で真面目に働く弟ロイスとは対照的に、唐突に町を飛び出し以後リーファン王国のみならず大陸中を放浪。行く先々で魔導石を体内に取り込んだ魔獣や竜を倒してついた名は『魔獣狩りのジキル』。
聞こえはいい。小柄な少年にしては少々いかめしい二つ名も、実力の証だと思えば受け入れられる。
が、実際のジキルといえば、至って平凡な田舎少年だった。
それだけならまだ良かった。貴族である自分とは無縁な人種だ。実際クレオンは最初、ジキルのことは何とも思っていなかった。せいぜいが勝手にオルブライトを倒してくれた便利な人間程度だ。しかし、彼の人となりを知るにつれて、クレオンのジキルに対する気持ちは変わった。
クレオンとジキルは同い歳だ。しかも若くして実力を認められている点も一緒。だが両者の決定的な違いは、どれだけ懸命にやったか否か。ありていに言えば努力だ。ジキルには焦燥感がまるでない。
若くして功績を収めている者は相応の代価を払っている。生まれ持った才能だったり、ひたむきな努力だったり、綿密な智略であったり。そのどれもがジキルには当てはまらないのだ。
手合わせをして大体の実力はわかった。剣の腕は平均より上。反射神経はいい。しかし王都で話題になる程かといえばそうでもない。
ジキルが旅立った目的は『「暁の魔女」を見つけるため』だという。現実味がなく曖昧な目的である上に果たす目処も立っていない。それでもジキルはのんびりとして、時折帰郷までしている。
自分の責任で夢や目的を追うのはいい。しかしジキルは姑息にも弟を残した。いつでも好きな時に帰れる場所を確保しておくためだ。実際、彼はさも当然のように自宅の管理を弟にやらせていた。
なんて甘ったれた態度だろうと、クレオンは呆れた。一家の長であるべき長男が役目を放棄して、弟に押し付けている。
ともすれば『魔獣狩り』の称号にも疑念を覚える。
ジキルは姑息にもオルブライトに睡眠薬を飲ませて陥れた。察するに他の魔獣を倒す時も同じような罠を張っていたのだろう。そのくせ、さも自分の実力一つで討ち取ったかのように振る舞う。
これを恥知らずと言わずして何と言うのだ。
ジキル=マクレティ。すなわち、大した努力もせずに運と姑息な手で名声と自由気ままな生活を謳歌するいけ好かない男――クレオンの中で図式が完成するのに時間はかからなかった。
ジキルはきっと誰かに蔑まれたりしたことがないのだろう。がむしゃらに努力したこともなければ、目的の実現のために懸命に励み戦うこともない。そして挫折したこともない。ましてや絶望することもない。へらへらと笑う、しまりのない顔を見ていれば彼が幸せに生きてきたことなど容易に察せられた。
そんな男と『クレア』が夫婦に――世間的には対等な関係とみなされる。これほどの屈辱はなかった。
「陛下の見識を疑う。あんなの男の何が良くて婚姻なんて考えたのだか」
レオノーレはクレオンの傍に立った。嫌味にならない程度に軽く身を屈め、クレオンの顔を覗き込む。
「二十も三十も歳の離れた殿方よりは良いかと存じますが」
「皮肉か?」
「まさか。私にそのようなつもりはございません」
レオノーレは優雅に微笑んだ。食えない笑みだった。
「ただクレオン様は同じ年頃の方とご一緒する時間が、今までほとんどなかったので、私は良い機会だと考えております」
「冗談じゃない」
忌々しげに言い捨てたクレオンに、レオノーレはそれ以上、ジキルに関しては何も言わなかった。引き際を心得ているのだ。その察しの良さがレオノーレの美徳であり、優秀と評される所以だった。
「ところでクレオン様、本日クレア様は朝食をお召し上がりになった後、部屋で刺繍を嗜まれた、ということでよろしいでしょうか?」
「慣れない田舎で体調を崩した、というのも付け足してくれ。明日も同じようにな」
とはいえ、いつまでも姿を現さないとなると、周囲に怪しまれる恐れもある。『クレオン』ばかりでいるわけにもいかない。
「明後日は人前に出る」
「ではジキル様とお食事をご一緒にされてはいかがでしょう?」
クレオンは眉を微かに寄せた。『クレア』でジキルと会う。深窓の令嬢を装うのはそれなりに大変だ。気に食わない者相手ならばなおさら。だがレオノーレの言わんとしていることがわからないクレオンではない。
「気は進まないが、仕方ないな」
正体がバレる心配は全くしていなかった。彼は疑いもしないだろう。その間抜けさが有難くもあり腹立たしくもあった。
「それと、クレオン様」
部屋に二人きり。にもかかわらず、レオノーレは周囲を憚るように声を顰めて、耳打ちした。前掛から封蝋の施された手紙を取り出す。
「カスターニ伯爵の使いの方がこちらを」
クレオンは受け取った手紙を無造作に開封した。すばやく目を通して、用済みとなった伝令の書簡は暖炉の火にくべる。秘密保持のためだ。
「馬鹿者が。書面でのやりとりは極力控えろと言ったはず」
クレオンはゆらゆらと揺れる炎を見つめ、舌打ちした。