運命の足音
波の音が聞こえる。
…目の前に広がったのは砂浜と海。すぐに目についたのは、数メートルほど離れた場所に横たわる、バカでかい何かの動物だった。条件反射で体を硬くするが、動物はピクリとも動かない。やっぱり死骸なんだろう。
夢でみた通り?……いいや、明らかに違うことが一つ。辺りが暗かった。空を見上げると、満月が世界を見守るようにして浮かんでいる。どうやら夜のようだ。日本じゃないことが確定した。いや、そんなことより……
『…生きてる……』
張りつめていた糸が切れたのか、俺はその場に『ふぅーっ』とため息を吐いて座り込んだ。
ったく…何がどうなってんだか…
生きてるんだから、それは喜ばしい結果のはずだってのに、ちっともそんな気分にはなれなかった。
右手側、少し離れた場所に横たわる動物をもう一度、よく見てみる。カンガルーを倍くらいの大きさにして、皮膚を象とでも取っ替えたら、近い生物になるだろうか…まあ、何にしろ、やっぱり、思い当たる名前は見つから…
…そうだ…健作は…!?
漸く本来の目的を思い出し、辺りを見回す。しかし、その時だ。
ざっ…
微かに砂を踏む、殺風景なその音は、海側に向かって座り込む、俺のすぐ背後から起こった。飛び起きるようにして立ち上がり、すかさず振り返る。
『……く…くろやん…?』
月明かりの下…先に発せられた声は、まったく、聞き慣れたもの。見間違うはずもないシルエットが、そこには立ちすくんでいた。
『…こ…の……馬鹿ヤローッ…!!』
つい、さっき…本当に、つい、さっきまで、ただ、普通にピクニックシートの上でバカ騒ぎしてたってのに…短時間のうちにいろいろありすぎて、俺は溢れそうになった涙を必死で堪えた。しかし…
『う…う…うう……ぐ…ぐろやぁぁああんっ…!!』
…は…?
俺なんかとは比べ物にならないほど、感極まった感じの健作は、まるで猪みたいな突進で、一直線に、俺の胸へと飛び込んだ。
『ぅう…っぐぅ、も…もう、ぜっだい、だれも来てぐれないんだって…ぅあ…ぅぐ…あ、ありがどう…あびばどう、ぐろやん…』
な…何言ってんだ、こいつ??
いったい、この20分ほどで何があったら、こんなに取り乱すことが出来るのか…なおも喋り続ける健作を、不自然に思いながらも宥めつつ、取り敢えず落ち着くまで待ってやる。しかし、3分経っても、5分経っても、一向におさまる様子のない健作。しかも、何か、変な臭いすんぞ、こいつ…
相乗効果も相まって、いい加減、鬱陶しかった俺は、伝家の宝刀「さば折り」を試みた。
『いいっ…!いだい!痛い!痛い!!痛いってば…!』
砂の上に尻餅をつき、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を向けてくる健作。漸く解放された俺は、『いいから、落ち着け』と突き放すように言い放ってやった。
『ひ…酷いよ、くろやん』
『うるせえ!勝手に消えちまいやがって…皆、茫然としてたぞ…!?』
『う……ご…ごめん……』
『ごめんじゃねえんだよ!ったく…しかも、何か、お前、臭せえぞ?…まさか、びびって、漏らしたりしたんじゃねえだろうな?』
『えっ!?本当?…臭ってる??』
慌ててクンクンと鼻を鳴らし始める健作。犬かお前は?
『いや、でも仕方ないんだって…外でうんこなんて初めてしたし…ティッシュもなかったし…』
『………は?』
……健作の言った意味をすぐには理解しかねる。
…な…何だよ、お前…キャッチボールしながら、実はうんこ我慢してたのか?……どんな、罰ゲームだよ!?
心の中で後退りながら、実際にも後退る。だって、ティッシュが無かったってこた…あれだろ?…拭けないだろ?……それって、あれだよな?
『…一応、葉っぱで拭いたんだけど…』
『葉っぱかよ!?』
すまん。思わず、つっこんじまった。
…いや、でも、考えてみりゃ、付近に民家や公共施設が全然、無いって状況は、日本より海外の方が遥かに、あり得る話なんだ。流石に20分でギブアップってのはどうかと思うが、パット見、この辺には文明の匂いがしない。まあ、月明かりに照らし出されているだけの、狭い世界じゃあるが…
切実な懸案事項を思いつき、沈黙を作った俺に、健作は構わず、話かけてくる。
『他の皆は?くろやんだけで来たの?…救助の人とかも呼んであるんだよね?』
『いや…まだ、決まったわけじゃねえが、たぶん、一時間以内に何人か来ると思う。救助は今のところ、残った人間頼みになるから、それも何とも言えないけど、まあ、あとから来る誰かに聞いてみれば分かるんじゃねえか?』
『…そ…そう。何だか、随分、のんびりなんだね』
『あ?……のんびり??』
…違和感がある。そう、薄々、感じてはいたんだ。しかし、それが、突然、如実になったのは、次の健作の言葉を聞いてからだった。
『だって、もう、3日も経ってるんだよ!?僕が何回、死ぬって思ったか…そりゃ、あの黒い玉が何なのか分からなくて、いろいろ、大変なんだってのは想像つくよ!?でも、いくら何でも、これじゃ…』
『ちょっ…ちょっと待て!!……言ってる意味がさっぱり分からん…!ってか、3日って何だ?』
『なっ…!?僕がここに来てからの日数に決まってるじゃん!?そんくらい、数えててよ!?からかってんの!?』
『……っ…!?』
…絶句。
嘘を言ってるふうには見えなかった。頭がまた、混乱し始める。
確かに……ついさっきまで一緒だったはずの健作は、たったの20分にしちゃ、えらく窶れたような気がする…と言うか、髪の毛のセットはぐちゃぐちゃだし、服もよれよれ…おいおい、まさか…
あまりの馬鹿馬鹿しさに、普段の俺だったら鼻で笑い飛ばしたに違いない。それは、理論上、あり得ない話で、百歩譲っても、健作が思い違いしてしまう何かが起こったんだろうと考えるはずだ。けど、今はどうだ?
理論上、あり得ない物体が、理論上、あり得ない現象を起こして、理論上、あり得ない事態に陥ってるのが今。この上、健作が理論上、あり得ないことを口走ったとして、それを簡単に笑い飛ばせるほど、俺は楽天家じゃない。そして、健作の言葉に嘘がなかったとしたら、それは、最悪の事態が起こっていることを意味する。それにすぐ、気がつくと、俺は愕然となるしかなかった。
『……冗談…じゃねえんだよな?』
『……なにが?』
…ああ…何てこった。
『…めぐみたちが危ない…』
ーーーーー
月が妙に明るい。日本以外で見る月なんて初めてだから、何とも言えないけど、いつも見てるものとは印象がまるで違う。どこがどう?…とか聞かれても、天体観測なんてしたことないし、上手く説明、出来ないんだが、とにかく何か違う。まあ、それはいい。どうせ、気のせいだ。
問題は…
『そ…それって、僕がこっちに来てから、まだ、1時間も経ってないって聞こえるんだけど…』
『そう、言ってんだよ』
『………いや、冗談…じゃなくて?…』
『こんなときに、そんな下らねえ冗談こけねえって…考えられんのは、あの黒い物体が未来に俺を転送させた、とか、その辺りじゃねえか…?……はは…もう、滅茶苦茶だ。わけ分かんねえ…』
やけくそ気味に顔のひきつった笑みを浮かべながら、述懐する。しかし…
『……それ…さ…未来とは限らないよね?』
健作の消え入るような、その一言に、俺は頭を抱えたんだ。
つまり、もし、あの黒い物体が、時間を出鱈目に俺たちをここに送ったんだとしたら、来る前に約束した、「1時間、ここで待つ」っていう話が意味を成さなくなる。
ここが日本じゃないってのは確定だろう。さっきは昼夜の違いから、そう、決めつけたが、たとえ、時間の概念が覆されたとしても、日本じゃないことを示すヒントはたくさんあるからだ。例を挙げるなら気候。ここは、完全に夏としか思えない。転移前に語った南半球説が現実味を帯びる。更には見たこともない、巨大生物の死骸だ。日本だったら、まず、間違いなく、大ニュースになっているだろう。
他にも、いろいろ、あるとは思うが、とにかく、そんな場所で、果たして俺らみたいな、ただの学生に何が出来る?こんな、でかい動物が転がってるような場所だ。安全とは程遠い地域なのは言うまでもない。その上、いつ、めぐみたちが来るのか、分からなくなったんだ。もし、1時間以内に誰も姿を見せなかった場合、俺たちはここで、いつまで待てばいい?決められねえって。それどころか、もし、俺たちより、先に来てることになるような時間軸に飛ばされてたら?…絶望的だ。山崎の言葉が思い出される。「天城さんを追いかける前に、それが、何なのか調べる必要があると思います」…
『…くそっ…!』
分かってる。結果論だ。だが、悔やまずにはいられなかった。だって、俺の「我が儘」の所為で、全員が危ない目に遭うかもしれないんだから。事態の深刻さに、何か打つ手がないかと考えるが、結局、沈黙の時間が過ぎていくだけだった。
波の音が一定間隔で押し寄せて来る。
2人して、どのくらい、自分の無力さに打ちのめされていただろう。腕時計を見ると、既に30分近くの時間が経過していた。今は祈るような思いで、自分が出現した場所をじっと見つめている。ただ、何かが起こるような気配は全くない。俺は一度、その視線を健作の方へと移した。
『………お前、よく、こんなとこで3日間も待ってられたよな…?』
無言だった砂浜に、疑問符付きの言葉を投げかける。
『……言いにくいんだけどさ……この辺、何にもないんだよね…あるのは山と……そうそう、くろやん…これって、海だと思うでしょ?』
『…?』
砂浜に並んで座る俺たちの視界には、近づいては遠ざかり、近づいては遠ざかりを繰り返す波が、妖しく、月明かりに浮かび出されている。
『…真水なんだよね…』
…一瞬、何を言ってるのか、すぐには答えが何処にも結び付かなかった。俺の知ってる世界なんて、確かに、たかが知れてるんだろう。それでも、健作からもたらされた情報は、荒唐無稽だとしか思えなかったから。
『……嘘だろ…?』
『本当だって。僕が3日間、生きてられたのって、この水が飲めたからなんだ』
視点を正面に戻す。
『…………』
どう見ても海だ。普通の日本人だったら、99%、海って回答すると思う。真水?…ってことは湖?対岸も見えない?……そんなもん、存在するんだろうか?…分からない。けど、健作が3日間、この水で生き延びたってんなら、やっぱ、海水じゃないんだろう。……ん?…3日?
『お前、もしかして、こっちに来てから、何も食ってないんじゃねえのか?』
『ううん。それがさ…ほら、向こうは森になってるの分かる?』
そう言って、座ったまま、海側とは反対の方向を振り返る健作。倣って俺も視線を180度、旋回させる。暗くて分かりにくいが、確かに、砂浜とは全然違う位置にある空との境界線は、歪な突起の連なったような影が形作っていた。
『ちょっと入ったところに、南国チックな木が生えててさ、めちゃくちゃでっかい、果物が採れるんだ。見た目、パッションフルーツっぽいんだけど、味は桃に近いから、多分、食べたら違和感が凄いよ』
なるほど…ってか、んな、聞くからに怪しいもん、よく、口に出来たな。けど、まあ…
『………何だか、運が良いんだか悪いんだか、って感じだな?…つっても、果物だけじゃ絶対もたねえだろ?ちょっと、待ってろ…』
俺はここに来る直前、悠太から渡されたリュックを持ち上げると、すぐに、そのファスナーを開ける。
『……さすが』
中にはピクニック中に摘まんでいたサンドイッチと、おにぎりが数個ずつ入っていた。それに、サバイバルナイフ…すげえ…本物だ。
取り敢えず、それは置いといて、俺は早速、食べ物を取りだすと、『ほれ』と、ペットに餌でもやるかのような感じで手渡してやる。すると、やっぱ、かなり空腹だったようで、健作はおにぎりを両手に持って、ガツガツと食い始めた。
その姿を見ていると、何だか、不安がどんどん、膨らんでいくように、胸の内がざわざわと嫌な音を奏で始めたんだ。近い未来、自分にも降りかかるやもしれぬ危機。いわゆる、食糧難。まさか、原始時代じゃあるまいし、日本の普通の家庭で、普通に暮らしてれば、ほとんど直面しないだろう問題に、こんなことで巻き込まれるとは…
『…あれ?…っていうか、くろやん?』
『ん…?』
まだ、口の中でもぐもぐさせながら、健作が思いついたかのように話を切り出す。
『さっきの話さ…ちょっと、おかしくない?だって、落ち着いて考えると、何かまるで、あの黒い玉に触ったら、ここに来ることが分かってたみたいじゃん?…』
ああ…そういや、こいつにはまだ、説明してなか…いや…
『…確か、お前にはいつか話したんじゃなかったか?』
『……何を?』
『ほら、最近、変な夢をみるっつって、何日か前に相談したろ?あんとき…』
『…ああっ!?思い出した……僕が山の中で消滅したとか言ってたやつだ!』
思えば、このとき、もっと、きちんと話してたなら、こんなことにはなってなかったのかもしれない。今さらだけどな。…にしても、一体、俺のみている、この、予知夢みたいな夢は何なんだろうな?
『……そう言えば、小学生が轢かれそうになったときも、夢のお陰で助けられたんだっけ……くろやん、テレビに出れるんじゃない?思いっきり、胡散臭いやつ…』
『……ほっとけ…』
それからは、沈黙に耐えかねたように、俺は健作に、こっちでの3日間の生活をいろいろと聞き続けた。しかし、電気もガスも水道も無い、サバイバルみたいな生活。人はおろか、文明的な建物なども皆無。聞けば聞くほど、展望はどんどん暗くなっていくだけのようだ。
やがて、約束の一時間が過ぎ去る。
『……誰も来ないね……』
『…………』
現実が重く、のし掛かってきた。頭の中をぐるぐる駆け巡る後悔の2文字。もしかしたら、めぐみや他の皆とは、もう、二度と会えないのかもしれない。そう、考えると、吐き気すら込み上げた。
『どうする、くろやん?』
『…………』
『……くろやん?』
健作の呼び掛けに、応える気力すら湧かない。取り返しのつかないことをやってしまったのかもしれないって恐怖感が、俺の心を苛んだ。
『……悪い…話は明るくなってからにしよう。今は… 』
『…………』
何とか、それだけ伝えると、空気の読めない健作もさすがに察したようで、夜の浜辺に、再び静寂が訪れた。
ーーーーー
『いやぁぁああっ!!やっくん…!!』
めぐみが俺を呼びながら、狂ったように泣き叫んだ。
ど…どうしたよ!?
そう、反応しようとしたんだが、声が音にならない。ああ…何だよ……またか…
もう、何度目だろう。この、体を乗っ取られたような感覚…思えば、俺の最近の不幸は、この、夢から始まったような気がする。半ば諦めの境地に立ったような思いで状況を傍観に入る。しかし…
『……逃げろ』
そう、懇願するような声音で言った夢の中の俺は、命からがらって雰囲気が溢れ出さんばかりで、傍観者のはずの俺は、一気に緊張を高めた。
な……何だよ……?
ただならぬ様子に鼓動が早まる。そして、気付いた。…顔のすぐ近くに何か細い、棒のような……え?
背筋が凍りつく。
次の瞬間、思い至った想像を肯定するかのように、夢の中の俺は地面に視線を落とした。同時に、顔から滴り落ちる赤黒い液体。
……血。
……そんな…まさか…
いつかみたいに、ただの鼻血だったら、どれだけ気が楽だったろう。…視界が極端に狭い。たぶん、右目に何かが突き刺さっている。その事実に気付いた俺の心を、恐怖が鷲掴みにした。
『健作ーっ!!めぐみを連れて行けえええっ!!』
下を向いたまま叫ぶ俺。その間も、地面を濡らす血痕は、どんどん、その面積を広げていった。
『ひぃゃあっはっはぁあーっ!!』
前方から、馬の蹄が駆ける音と、一緒に近づいて来る気味の悪い笑い声。重たい顔を上げる。薄暗い森の中から、姿を現したのは馬上で妙な民族衣装を身にまとった、顔に変な模様のある男だった。しかし、それを確認出来たのはほんの一瞬のこと。男は近づいて来る勢いそのままに、手に持った「何か」を掲げると、それをこちらに投げつける。その塊は、俺に直撃する寸前、突然、大きく広がると、瞬く間に俺の体を包み込み、体の自由を奪い去った。動物を捕獲するときに使うような網だ。
……捕獲だって…?
思った通り…何者かに拉致された俺は、そのまま、森の中をずるずると引き摺られ始める。
『……冗談だろ…』
そう、呟いたのは、夢の中の俺だったのか…それとも傍観者の俺だったのか…
しかし、結局、夢はそこで途切れたんだ。色んな謎と、とんでもない不安を残して。