さらば退屈
板張りの床で寝袋にくるまってた俺の顔に、陽の光が当たり始めた。朝方4時近くまでカードゲーム(UNO)で盛り上がった俺たちは、男子を一階、女子を二階に分けて就寝したわけだが…
『……ぅ………ぃって…』
…何か、体、痛い。
まあ、普段はふかふか…とまでは言わないけど、板張りよりは柔らかいベッドで寝てんだから、こうなるのも当たり前か。ぼんやりとした意識の中、顔のすぐそばで、お座なりに置かれたスマートフォンを手にとる。画面を覗き込むと、圏外を示す赤い「ばつ印」の横には10時11分と表示されていた。
『…ふぁぁああ……ぁ…』
一つ、欠伸すると、視界が涙で滲む。目を擦りながら重たい上半身を起こした。
『おはよう、やっくん』
突然、後ろの方からめぐみの声。おいおい…
起き抜けの、何だか甘いシチュエーションを連想しちゃいそうな展開だ。
『お…おはようございます』
おっと…だが、慣れないもんだから、何やら、敬語になっちまったぜ。ダサっ…
自分の言動に自ら駄目を出しつつ首を回すと、右手に包丁を持っためぐみが、流し台の前で何やら作ってくれているご様子。朝食だろうか?…因みにこの流し台は、合併浄化槽と同時期に改修工事で敷設したんだそうな。まあ、それはどうでもいいんだが…
…ううむ…やべえ、神々しいな…
寝ぼけ眼で見やるは、甲斐甲斐しくも俺たちのため(たぶん)に、早起き?して、朝御飯を作ってくれる、めぐみの後ろ姿だ。
ボーッとしながら見とれていると、不意に野菜を切っている手を止めためぐみが、くるりとこちらを振り返った。
『今日、貯水池まで行くんでしょ?だから、リーリアがね、サンドイッチ作ろうって…』
…なぬ?
『…リーリア…って……どちらのリーリアさん?』
『もちろん、我が家のリーリアさんですよ?』
俺の惚けた調子に合わせて、言葉を返すめぐみ。ただ…
『……そういうこと考えるやつだっけ?』
てっきり、めぐみ主導のものと思っていたわけだが…
『あ、誤解してるでしょ?リーリアはわたしたちの中でも、一番、女の子らしい女の子なんだよ?』
ふむ……素直に思い当たる節を頭の中で探してみる。
…………無理。ない。
3秒でめぐみの勘違いと結論付ける。
まあ、男が女を見る目と、女が女を見る目とじゃ、どうも、温度差が激しいのは間違いない。
『んで?…そのリーリアはどこ行った?』
まさか、提案だけして、丸投げ…
『私なら、ここだよ!…じゃーん!!』
在らぬ嫌疑をかけられそうになる中、二階から階段を軽快に降りて来たリーリアは、古くさい効果音を口先で奏でながら、両手で持った、肩幅より広いバスケットを俺に見せつけた。
『おお…そんなでっけえ荷物、何処に持ってたんだ?』
『ふっふーん。実はこれ、折り畳めちゃうのだよ』
『へえ……』
何でも便利になっていくもんだ。
感心しながら、俺はのそのそと寝袋から抜け出し、立ち上がる。起きたばかりだが、早くも頭はしっかりしてきたようだ。
『それで?…すぐ上の階に美女が三人も寝てたわけだけど、ちゃんと眠れたかね、青少年?』
始まった。
『お前に魅力が無いお陰でな』
『コンニャロー、最近、調子に乗ってんだろ?勇人のくせに…!』
言うが早いか、バスケットを床に放り出して、ヘッドロックをかけてくるリーリア。
『……っ…!?』
ジャージ越しに、豊かな胸の感触が俺の頬に伝わる。くそっ…外人の血か。確かに色気だけは飛び抜けてっからな…ひたすら性質が悪いんだよ、こいつ…
技を外すためでも、リーリアの体にこっちから触れるのは躊躇われる(下手に動いて変なところに手が当たりでもしたら、それこそ、アウトだ)ため、されるがままの俺。しかも、力、強いっつの。
『ふふん。これに懲りたら、目上の人に対する、口の聞き方から改めることね』
漸く解放されると、すぐさま、そんなことを宣う金髪暴君。
『黙れ、ゴリラ…!』
『誰がゴリラ!?…あんた、さては、私とべたべたしたくて、わざと言ってるでしょ?』
『四次元ポケットよりあり得んわ!…ってか、お前、貯水池に着いたら、覚えてろよ…!絶対、釣った魚、全部、プレゼントしてやるからな…!』
固い決意を口に出した瞬間、リーリアの顔が強ばった。
『…じょ…冗談…だよね?勇人、そんな、大人げないことしない人だもんね?…うん。信じてる』
などと言いつつ、距離を取る。そんなに嫌なのか?
それを肯定するかのように、早変わりしたリーリアの表情は、注射器を目前にした幼児のそれだ。
なるほど、なるほど。こいつは目尻が下がっちまうぜ。もう、何が何でも、大漁旗を掲げるほかあるまい。
『…っしゃ!やる気がめちゃくちゃ湧いてきた。ちょっと、顔でも洗ってくるわ…!』
俺とリーリアの騒がしいやり取りに、周りで寝ていた健作と悠太も、もぞもぞとし始めたようだ。
『ねえ!何で、やる気が湧いたの!?…ねえっ!?』
出入口に向かう俺の背後では、リーリアの悲壮な問いかけが、いつまでも続いていた。
ーーーーー
空を見上げると、ちょうど真上にやって来た太陽が、見下ろす地面で、俺たちの足元に影を圧縮させている。まあ、分かりやすく言うと、もう、正午だ。目覚めてから、既に二時間が経過していた。
空は今日も快晴。時折吹く風は多少、冷たいようだが、分厚い防寒具が必要ってほどじゃあない。
貯水池に向かう途中、俺は山崎の背中を見ながら、出発前にめぐみと交わした話の内容を振り返っていた。
『超低血圧…?』
いつまでも姿を現さない山崎の様子を尋ねると、一瞬、思案顔を見せためぐみから、意外な回答が飛び出す。
『うん。毎朝、凄く大変なんだって』
『…へえ…ってか、弓道部って朝練やってなかったか?まさか、キャプテンが毎日のように遅刻してくるってわけにゃいかねえよな?』
『そこは根性で何とかしたみたい。ナッチ、高校生活、これまで無遅刻無欠席の皆勤中なんだよ』
『マジで…!?』
『うん。体調管理も徹底してれば、風邪なんか滅多にひかないんだよって豪語してる。ただ、一年生のときに骨折したことがあったんだけど、そのときは、頑張って出たって言ってたから、やっぱり、何だかんだ、ナッチは気持ちが強いんだと思う』
『…………』
頑張って…って、この時代に、そんなやついたんだ…
密かに、ちょっと失礼な方向で感心する。
それにしても…昨日、聞いた話だと、山崎は一人暮らしだったはずだ。超低血圧だっつう彼女を、起こしてくれる人間は誰もいない。…にもかかわらず、遅刻なんかしたことないってんだ。一昔前の厳しい時代を生きた人ならともかく、なかなか、出来ることじゃないだろう。人間ってのは、周りがだらけてりゃ、自分もだらけちまうもんだ。けど、そこまで自分を見失わずに頑張れる理由って…?
『…ナッチね…将来、作家になりたいんだって。それで、実は推薦で狙ってる大学があって、無遅刻無欠席や授業態度は、推薦枠を掴み取るための布石なんだって…何か、凄いよね?』
まるで、俺の心を読んだかのようなめぐみの話だったが、目から鱗がこぼれ落ちるような思いだった。同時に尊敬の念に駆られる。何の目標もないままに、ただただ、高校生活を平凡に過ごした俺とはまるで正反対だ。このキャンプに参加したのだって、見聞を広げるためってのが、理由の一つにあったらしい。
前を歩く山崎は、めぐみと楽しそうに会話しながら、山道を進む。決して大柄ではないその背中が、今はやけに大きく見えた。頑張ってるやつって、かっこいいよな。
山道の奥が、何やらキラキラと賑やかになってきた。一瞬、訝しむが、たぶん、貯水池の水が太陽光を反射させているのだろう。決して山崎に、突然、後光が射したわけじゃないぞ?
…なんて、冗談、考えてるうちに、俺たちは山道の出口を抜け、拓けた場所に出た。
ーーーーー
うおぉぉ……すげえ……
広がった光景に息を呑む。
奥行き100メートルくらいの巨大な水溜まり…って言ったら聞こえは悪いかな?…要は、長い年月をかけて、何度も降った雨が土を流し出し、悠久の時を経て出来た、天然の水源地って感じに見える。実際は人が掘ったんだろうけど、まあ、ロマンだ、ロマン。周辺に生えてる木は常緑樹が多いようで、今の季節でも紅葉を楽しむことは出来ないのだろう。しかし、それを補って余りある、幻想的な風景がそこにはあった。
『貯水池っていうか、ちょっとした湖だね…』
『…本当。すごく綺麗…』
悠太の見解にめぐみが同意する。確かに…人工的なところが見当たらないから、そう、感じるのか、最近、TSUTAYAなんかでよく見かける、ファンタジー系の洋画にでも登場しそうな景観だ。その辺の木陰から、ユニコーンが姿を現しても、今の俺なら許しちゃうに違いない。…おっと、言っとくけど俺にファンシーな妄想癖はないからな?
『……何か、ブラックバスとか釣れちゃったら、がっかりしそうじゃない?』
『こんな、綺麗な場所にゃいねえだろ?』
健作の言葉をテキトーに否定する。すると、それを聞いていためぐみが口を開いた。
『バスは別に汚れた川だけにいる魚じゃないよ?』
『え?そうなの?』
『うん。ある程度、汚れた川でも棲息出来るだけで、綺麗な場所にも普通にいるんだって、前にテレビで言ってた。…それに、よく、バスなんて臭くて食べれたもんじゃないって話を聞くけど、たぶん、そういう、汚れた場所に棲んでたバスだけを食べて、広まった噂なんじゃないかな?きちんと、下処理すれば、本当は美味しいらしいよ?…もともと、食用じゃなくて、釣りを楽しもうって理由で持ち込まれたのも影響してるのかもね』
『へえ…』
釣りの趣味があるってわけでもないめぐみが、何で、そんなに詳しいの?…なんて思ってるのは、この場で、悠太だけだろう。付き合いの長い俺たちにとっちゃ、こんなことは日常茶飯事だ。幼い頃から本を読むのが大好きだった彼女の知識量に、いちいち驚いてたら身が持たん。
『っていうかさ、無理して釣ることないって…!ちょっと、勇人、聞いてる!?…お魚さん、可哀想…』
…などと、しおらしいふりして言い放つリーリアはシカトして、俺は早速、竿をケースから取り出すと、その畔へ爆釣ポイントを探しに、足を踏み出した。
結果から言うと、なかなかの釣果だった。小さい魚が多かったけど、量的には申し分ない。都会育ちの俺には、魚の名前なんてさっぱりだが、めぐみ曰く、鮎とか、ヤマメとか、ハヤ?あと、ワカサギだっけ?…綺麗な水の中にしかいない魚ばっかだったらしい。途中、『もしかしたら、ニジマスとかいるかもよ?』なんて、めぐみは目を輝かせていたが、そいつ(大物らしい)は釣れなかった。
釣った魚は、持ってきた調味料と調理器具で、山崎が塩焼きやら、ムニエルやらにしてくれた。流石は自活してるだけあって、彼女の料理の腕前は、メンバーの中で頭ひとつ、抜けてるようだ。
そうそう、個人的な釣りの最大目的は見事に達成され、結果、リーリアは極度の俺(勇人)不信に陥ったっぽい。別にいいけどね。彼女の泣き叫ぶ姿が見れただけで、俺は満足だ。ざまあみろ。
腹も膨れた俺たちは、広げたブルーシートの上で、各々、食後休憩を取る。中には睡眠不足で、イビキをかきはじめるやつもいた。きっと、今年はもう、こんなにゆっくり出来る休日はないだろう。帰ってからのことを考えると、気分がどんよりしてしまう。もし、皆が賛成してくれるなら、もう、勉強なんか忘れて、ここで、自給自足しながら生活したい…なんて、本気で考えちまいそうだ。
『ねえ、暇だったらキャッチボールでもやんない?』
いつしか静寂に包まれていた湖畔に、そう、提案したのは健作だった。持って来ていたショルダーバッグから、拳大のゴムボールを取り出しながら、どや顔で挑発する。何だかんだ、遊びに関して言えば、こいつの企画、立案力は半端ない。ただしだな…
『お前、飛んで来る球、捕れねえんじゃ、キャッチボールってのは成り立たねえの知ってる?』
『こ…子供の頃はそうだったかもしれないけど、今なら大丈夫だよ!…………たぶん』
顔を赤くしながら、根拠なく、言い放つ健作。
うん…絶対、無理な気がする。
『…何さ、その目は?』
『別に?…お前のセンスに、果たして伸び代があっただろうか…なんて、失礼なことは考えてないから安心しろ』
『まんま、考えてたよね!?今、オブラートに包みそこなったよね!?』
『おいおい、勘違いするなよ?包む気がなかっただけだ』
『そこで、その台詞!?よーし、捕ってやる…!絶対、捕ってやる…!!』
星飛雄馬ばりに目に炎を燃やす健作が、立ち上がって颯爽と走り出す。それを見て、悠太も『んじゃ、俺も交ざろうかな…』なんて、マイペースに言いながら立ち上がり、健作とはまた、違う方向に離れて行った。
『リーリア、お前は?』
いつもなら、真っ先に手を挙げそうなじゃじゃ馬は、さっきから、体育座りの格好で、こっちを恨みがましく見つめ続けている。
『…あんたに汚されたばっかりなのに、もう少し、気を使うとか出来ないの?』
『もともと、真っ黒だったろ?』
『ムッキーーッ!もう、怒った!!新幹線より、早い球、投げてやる…!』
…最早、それは人間じゃないぞ?
心の中で突っ込む俺を無視して(当たり前だが)、勢いよく立ち上がったリーリアは、肩を怒らせながら、また、他方向に散って行った。何だかんだ、付き合いの良いやつだ。
『めぐみと山崎はどうする?』
『わたしたちは見てるよ』
『そっか。…一応、言っとくけど、あの辺にノーコンがいるから、気をつけろよ?』
そう言って、健作が陣取る場所を指差して見せる。はっきりいって、あいつの運動音痴にゃ、目を見張るもんがあるからな…サッカーやらせりゃ、だいたい、玉乗りだし、バレーやらせりゃ、連続顔面レシーブ。バドミントンのときは、ラケットにシャトルを当てきれなくて、サーブすら出来ない始末。とどのつまり、あいつに球技をやらせても、だいたい、成り立たないってこった。下手したら、あまりの酷さに、逆に芸術の域に達している…なんて思うやつもいるかもしれない。
因みに、健作とは正反対で、並々ならぬ運動神経の持ち主なのがリーリアだ。苦手なスポーツなんて、きっと、ないに違いない。ちょっとしたエピソードがある。去年だったか…卓球の市民大会に強制参加させられた時の話だ。チーム戦だったわけだが、たまたま、俺ん家の隣に住んでる絵里ちゃん(中学生)たちのチームと当たってしまった。絵里ちゃんは小学生の頃から卓球をやっていたそうで、中体連の代表選手に選ばれるくらいの腕前だ。隣のおじさんも、よく、自慢してた。…だってのに、その日、初めて卓球のラケットを握ったとか言うリーリアが、シングルス戦で絵里ちゃんに勝っちまいやがんの…お陰で、近所付き合いが暫く、ギクシャクしたわ。
もちろん、エピソードは他にもたくさんある。体育祭や球技大会での、鬼神のような活躍を見せてやりたかったぜ。本当、誰にでも、取り柄ってのはあるもんだよな?
…んで。
『……あ、ごめん』
…ま、予想通りっちゃ、予想通りなんだが、健作の放った第一投は、見事な放物線を描いて、明後日の方向に旅立ったわけだ。まったく…期待を裏切らないやつめ…嬉しくて、涙が出るね。
ーーーーー
『どお…?誰か、見つけた??』
『全っ然、なーーいっ…!』
遠くで悠太の声がして、リーリアが反応する。
バラバラになって、森の中に飛び込んだボールを探す俺たちだが、どうやら、健作の放った消える魔球は、その威力を存分に発揮したらしい。
…ったく、ボールが捕れるかどうか以前に、投げるのすらままならんとは…今さら愚痴っても仕方ないが、予想を越えた、壊滅的な運動神経だよな。
傍観組だったはずのめぐみと山崎も、なかなか、戻らない俺たちを見て、加勢にやって来ていた。
山中は斜面になっており、ボールの通過経路を割り出すのは不可能だろう。やれやれ…まさか、準備運動すら出来ずに終了とか…雪山で、とんでもない方向音痴が、スキー靴に履き替えてリフトを探してたら、遭難しちゃいましたよ、みたいな展開だ。救いは、遭難者が人間じゃなくてボールってことくらいか。まあ、後々、笑い話のネタにはなってくれるだろう。
捜索開始から、だいたい15分。俺は半ば発見を諦めつつも、急な坂を下る。昔、父親のゴルフに着いて行ったとき、コース外に打ち出されたボールを捜しに行った、山の斜面に似ている。もっとも…あのときは、どれが親父の打ったボールなのか分からんくらい、あちこちにアウト オブ バウンズなゴルフボールが散見されたわけだが…
『……ん?』
視界の奥。斜面を降りきったところに、白い拳大の球体が、ぽつんと転がっているのを見つけた。まだ、少し遠目だが、おそらくあれだろう。ずいぶんと遠出したもんだ。取り敢えず、皆に発見を報せようと、息を吸い込む。しかし、それを声に変換させる寸前だった。
『皆…!!ちょっと来て!!』
たぶん、結構、離れた場所から…何やら慌てた感じの健作のその声に遮られてしまう。
『なーに!?見付かったのケンサック!?』
『ううん!違うんだけど…いいから、来て!!』
当たり前だが、ボールが見付かったわけじゃないようだ。…ま、いっか。
健作に呼ばれたってことは、取り敢えず一旦、探索は中断されるってことだから、俺もボールを回収してすぐに向かえば特に問題ない。健作が何を見つけたのかは知らんが、どうせ、大したもんじゃないだろう。そう、判断して、俺は坂を更に下る。
途中、小さな断崖になってるような箇所があったせいで、ボールを手に入れた帰り、今度は絶壁と化したそれを、よじ登るのにちょっと苦労したが、何とか森と貯水池の境に戻ると、今度は健作の声がした方を目指して進み出す。俺から一番離れた場所で玉探しをしていたはずだから、招集にはずいぶん、遅れてしまったことになるだろう。
再び森に入って、30秒くらい進んだところで、奥の方から仲間の話す声が聞こえ始める。そいつを頼りに更に歩を進め、やがて、木と木の隙間に、彼らの姿を見つけた、その時だ。
……あ…れ……?
違和感。
それは、突然、やって来た。いいや…後から思えば、たぶん、状況に理解が追いついていなかっただけなんだろう。このときの俺は、ただただ、これから起こる出来事を「思い出した」脳ミソが、その、情報を俺に伝える前に拒否反応を起こし、結果、体のあちこちに不調をもたらしていた…分析してみると、そんなところか。
視界が歪む。胸が締め付けられたように苦しくなり、呼吸もめちゃくちゃ浅く、早く…膝が笑い始め、立っていられない。ストンと腰を落とすと、ちょうど、視界を遮っていた枝が上にずれ、そいつは姿を現した。
『何だと思う?…これ…』
体の機能が何もかもエラーを起こしている中で、耳だけは逆に良くなってしまったのか、健作のその声は、やけにはっきり聞こえた。彼が正体を計りかねる、その「黒い物体」は、正しく忽然と、そこに存在している。空中に浮かんでいるように見えるそいつを目にした瞬間、俺は漸く、何が起ころうとしているのかを理解した。
手を伸ばす健作。その光景が俺の目には、まるで、スローモーションのように映っていたんだ。
『や……』
触れる。
『やめろぉぉおおおおっっ……!!』
無我夢中で叫んだ……つもりだった。
しかし、カラカラに乾いた喉は、とうとう、その声を健作に届けることはなかったんだ。何故なら、次の瞬間、健作の姿はまるで、悪夢でも見ているかのように、その場から「消滅」してしまったのだから。
『…消え…た…?』
ぽかんとした表情のリーリアが、目の前で起きた事件を言葉で表した。
「消えた?」…いいや、吸い込まれたんだ。漫画とか映画のワンシーンみたいに。効果音が無かったことに、俺はひどい違和感を覚えていた。だって、こんなことは人間が考えた、造りものの世界の中でしか起こり得ない現象のはずなんだから。
『…………』
言葉が出ない。その光景に誰もが息を呑んだ。しかし…元凶の黒い物体は、何事も無かったかのように、ただ、そこに存在し続けたんだ。
『…な…何なの……?』
漸く、目の前で起きた怪奇現象に、山崎が腰をへたり下ろしながら呟く。
ただ1人……この中で何が起きたのか予想の出来た俺は、混乱する頭を抱えながらも、今後のことをいち早く考え始めていた。
運命の歯車がゆっくりと…音もたてずに回り始めた。