背筋も凍る白昼夢
『……ッ……!!』
声にならない悲鳴をあげ、目を覚ます。
二燭光すら灯っていない部屋の中は闇に包まれていた。
嫌な汗が背中を濡らし、中途半端な時間帯に起こされた体は、睡眠不足の蓄積で一向に休まらない。ここ最近の悩みを聴かれたなら、間違いなく夢の話をするだろう。
もぞもぞとベッドを脱け出し、渇いた喉を潤しにリビングへと向かう。
『ああ……くそ…』
これでもう、三度目だ。
もしかして噂に聞く、センター試験のプレッシャーってやつだろうか?だとしたら、まさに寝耳に水。だけど、夢ってのは深層心理に深い関わりがあるとかなんとか、以前、テレビで視たような気がする。まったく、自覚は無いが…
『……ったく…』
空にしたコップをテーブルに置き、一人、毒づいた。
まだ、誰にも話していないが、一度、健作あたりにでも相談した方がいいかもしれない。
…といっても、あいつから有益な情報が聞けるとは思っちゃいないが。けど、こういう精神的っぽいのは、誰かに話すってのが重要なんだよ……たぶん。
ーーーーー
キャンプの準備は着々と進んでいる。
発案から五日が過ぎ、出発の日が近付くにつれ、いつの間にやら心が浮わついてる自分に気づいた。まるで、遠足前の小学生みたいだ。参加メンバーなんかも思ったより簡単に集まり、俺としては、何て言うか拍子抜けだった。だって、もっと、苦労するって思ってたからさ。ま、その辺はめぐみの参加に因って解消されたようなもんだが…
日程は土曜の早朝に出発し、三泊四日が予定されている。要するに連休フル活用だ。このイベントが終わったら暫くは勉強漬けになるんだろうし、目一杯遊ぶのは、ある意味、責務だろう?
当日は天城家(健作ん家な)がワンボックスを出してくれる。荷物の運搬や、俺たちの送迎までやってくれるってんだから、何とも至れり尽くせりな話だ。
教壇で黒板に文字を書き連ねる教師が、さっきから咳を連発していた。季節の変わり目…体調管理には充分、気を付けたい。せっかくのキャンプに、鼻水垂らして参加なんてしたくないからな。
休み時間になると、隣のクラスから健作がやって来て、どうでもいい無駄話を始める。キャンプの話が持ち上がる以前からそれは変わらないが、ここ最近は、さすがに週末の話になることが多い。ただ、今日は違う話題だった。
『んで?どんな夢だったのさ』
『…ん?…ああ…』
昨日、今日と連続して悪夢に安眠を阻害された俺は、その内容を健作に打ち明けていた。
『昨日はどっかの山ん中で、お前が消滅しちまう夢で…』
『ちょ…ちょっと…!僕が消滅って何?いきなり酷くない…!?』
『いや、だから、突然、消えちまうんだよ。空中に変な黒いのが浮かんでて、それに触った瞬間、吸い込まれるみたいにしてさ』
最初は眉間にシワを刻んだ健作だったが、説明が進むにつれ、何か他人をバカにしたような感じの目付きへと変わっていく。くそ…非常に不愉快だ。
『……くろやん、漫画の読みすぎなんじゃない?』
『うるせえな。こっちゃあ、深刻なんだぜ?』
憐れみを含んだ物言いに、膝の下を叩かれた足のように素早く反応して不満を返す。
だが、健作の言うことも尤もだと思った。何せ、その夢には続きがあって、消えた健作を追いかけるようにして、黒い浮遊物に触れた夢の中の俺は、次の瞬間、見たこともない砂浜に立っていたんだから。いわゆる瞬間移動…まるっきり、ファンタジーさ。
『でもさ、それだと、眠ってたくろやんが、驚いて飛び起きるほどのことじゃないような…』
『まあ、確かに…お前が消えたくらいじゃ、大したことねえよな?』
『…そう言われると、何か釈然としないんだけど…』
半眼になる健作。自分で言ったくせに。
…とまあ、それは置いといて、健作の予想通り、俺が目を覚ましたのは、今、話した内容とは違う場面でのことだ。実は昨日、今日と、同じシーンで目を覚ましている。最初にみた、それこそ、ファンタジーだかオカルトだか、よく分からない夢を含め、これらには共通点があった。妙に生々しいのだ。
普通、夢なんて起きれば殆ど覚えてないことが多いし、覚えてても、すぐに忘れちまうようなもんだろ?けど、その悪夢はまるで本当に起こっていることのように、物凄いリアリティーがあるんだ。
その辺も一緒に、健作に話そうと口を開きかけたところで、ちょうど、始業ベルが鳴り響く。続きはお預けってことになった。間の悪い…
けど、まあ、個人的な悩みはそれくらい。
週末のキャンプには何ら支障もないし、悪夢の件だって、この先もそんなに続くとは思ってなかった。とりわけ、心配なのはキャンプ当日の朝、寝坊して、遅刻しないかってことくらいでな。
……なんて思ってた矢先のことだった。
『提出期限は来週の水曜日。忘れたり遅れたりしたら、内心に大打撃が加わるものと思え…!』
そう言って授業を締めくくった現国教師の松木は、生徒の批難の声を尽く無視して、さっさと教室から出て行きやがった。
『……マジか…』
俺はというと、すっかり放心状態に陥ってたりする。隣の女子が『生きてる?』なんて聞いてきちゃったほどだ。
今日は水曜日だから、期限は丸々一週間。間に四連休を挟むわけだし、普通のやつならこの課題はこなすだろう。しかし、いかんせん、俺たちにはキャンプっつう予定があった。
『小論文、三つかあ…めんどくさいね』
俺の席に近付きながら、栄えあるキャンプメンバー男子枠、三番目の椅子に名前を連ねた淵野辺悠太が、ニコニコ顔で呟いた。
『もっと深刻そうな顔しろよ?』
たぶん、同意を求める呟きだったんだろうが、表情がそぐわないので、そう返す。
『川端に太宰に三島…自殺した人ばっかだけど、何か意図でもあるのかな?』
俺の指摘は無視されたようだ。
『あのハゲ(教師の松木)が考えてることなんか、知らねえっつうの。何か嫌なことでもあったんじゃねえの?』
『まさか。それじゃ、ただの八つ当たりだ』
『知らねえの?あいつ、女子テニスの顧問やってんだろ?去年、離婚した時期の練習が凄かったらしいぜ?』
『…へえ…まあ、何にしろ、タイミングが悪い。俺たちキャンプじゃん?』
『大自然の中で読書ってか?何の罰ゲームだよ』
まあ、本が好きなやつなら、そう、吝かじゃない話なのかもしれんが、俺的には完全にNGだ。レジャーのお供に宿題?ざけんな。南の島にバカンスに来たサラリーマンが、ビジネスホテルに泊まりたいなんて思わないだろ?
『とにかく、出発までに全部…最低でも二つは終わらせてしまうしかねえな』
そう言って、文章を書くのがひたすら苦手な俺は、決死の覚悟を固めたんだ。ったく、日頃の行いは、そんなに悪かないだろう?
ーーーーー
放課後、俺は公営の図書館に寄り、それぞれの著者が書いた作品を、短編を中心にいくらか借りた。手っ取り早く作風を理解して、あとは適当にインターネットなんかで検索すりゃ、参考とか、それっぽいのがヒットするだろうと踏んだわけさ。便利な世の中だ。
外は日が傾き、信号待ちをするテールランプの赤が延々と連なっている。俺は間もなく暗くなるだろう世界の下で、さっそく読書を開始した。短編集をパラパラと捲り、目に留まったタイトルは「屋上の金魚」…何じゃそりゃ?
通行人はそれほど多くもなく、少なくもない。商店街に入るとさすがに増えたが、それでも、進むのに苦労するってレベルじゃなかった。十分くらいで商店街を抜けると、中心に巨大なオブジェの据えられた、中規模の公園に出る。本を読みながらなので、途中、何度も物にぶつかりそうになったが、何とか回避に成功しながら歩いていると、突然、ポケットの中の携帯が振動し始めた。
慌ててポケットに手をいれ、振動源を取り出す。ディスプレイには、天城健作の名前が表示されていた。
『もしもし?』
『ああ、くろやん、お疲れ。もう、家?』
『いや、商店街抜けた公園のあたり』
『…?…何かしてたの?』
通常の帰宅ルートから外れた地点にいる俺を、不思議に思ったのだろう。詮索を始める。
『別に。松木のヤローが面倒な課題、出してくれやがってさ。図書館に寄ったんだ』
『ふーん…そうなんだ。てっきり、僕の知らないところで誰かとデートかと…』
そう言って、健作は『うしし』と気味の悪い笑い声を漏らした。
『そんな相手、いねえっつの』
『そう?くろやんなら、僕の次くらいにモテると思うんだけどなあ…』
『…絶望的じゃねえか』
『どういう意味さ?』
そのまんまの意味…と言いかけて踏みとどまる。
健作の自尊心をいたずらに傷付けても大人げない(同い年だけど)し、意味ねえよな?俺は言葉を選んだ。
『気にするな。蓼食う虫も好き好きっていうしな』
『馬鹿にしてるよね?ねえ?』
どうやら、気遣い効果は薄かったようだ。残念。
どうでもいいから、話を進める。
『んで、何か御用でしょうか?』
『ああ、そうそう。明日か明後日、キャンプに持ってく食材なんかの準備をしようと思ってさ、それのお誘いだったんだけど、何だか忙しそうだから、買い出しはめぐみんと二人で行ってくるよ』
なるほど。
キャンプなんて生まれて初めてだから何も考えてなかったけど、確かに食い物は必要だ。キャンプ先はちょっと歩けばコンビニ…なんて環境じゃないらしい。携帯の電波すら届かないとか言ってた。一応、家庭用電話機は置いてあるらしいが…
『すまん、頼む。ってか、めぐみも同じ課題、食らってるんだけど…』
『めぐみんなら大丈夫でしょ?何の課題か知らないけど、くろやんと違って頭良いからね』
ヤロー…人が下手に出てりゃ調子にのりやがって…その通りだけど。
『金は後で精算すっけど、バカみてえに肉ばっか買い込むなよ?』
『了解、了解。何かさっきからお母さんが下で呼んでるみたいだから切るね』
『おう、分かった。また、明日』
『ごめんね。また、明日ー』
何だか慌ただしく通話が終了する。
こいつと電話すると無駄に長くなることが多いんだが、携帯のディスプレイには2分8秒の通話時間と表示が浮かんでいた。
読書を再開しようかとも思ったが、もう、辺りはずいぶん暗く、これ以上は目を過度に疲れさせるだけだろう。それに、この「屋上の金魚」は何だか怪談っぽい。帰り道には人気の無い場所もあったりするので、あんまり想像力をそっち方面で刺激させるのは良くない気がする。
『………』
いや、ビビってるとか、そういうんじゃなくてだぞ?ただ、その…あれだ…とにかく、早く帰らないと、家族に心配かけちゃうだろ?…うちの親は心配性なのだよ。それに、最近の世の中は物騒だったりで…
…などと一人で意味不明な言い訳をしながら本を鞄にしまい、今度こそ家路を急ごうと踏み出した、そのときだ。
……ふと、頭に浮かんだことがあった。
『…あれ?…これ、マジ?』
いやいや、ちょっと待てよ…もっとよく、思い出せ……
それは、この状況がそうさせたんだろうが、何だかちょっと、気味の悪い記憶だったんだ。
昨日、今日みた夢の話。
…結局、健作には途中までしか話せなかったが、この二日間にみた夢は、いくつかのシーンで構成されていた。最後の衝撃的な場面は置いといて、殆どがどうでもよさそうなシーンだったんだが、その中の一つ……夢の中の俺は、確か、悠太とこんな会話をしていた。
『おはよう、黒木』
『ああ。あんだよ、寝坊しなかったのか?』
『いや、あのメンバーで心配だったのは黒木だけだと思ってたけど?』
『ぬかせ』
『はは…それで、「小論文」は終わった?』
…背筋に冷たいものが走ったような気がした。
そう。夢の中の悠太は、確かに小論文って言ってたんだ。それって、おかしいだろ?だって、その夢をみたのは課題を言い渡される以前の話だ。
『………偶然?』
偶然だろう。そう、思うしかない。
奇妙な出来事は、暫く俺の心を鷲掴みにした。
ーーーーー
もしも、人間が睡眠を必要としない生き物だったなら?…取り敢えず、国語辞典から「夢」って単語は消えて無くなるに違いない。
まあ、そんな下らないことを考えても意味が無いことくらいは分かってるつもりさ。だって、人は必ず眠るんだから。
ただな…俺はこれまで生きてきて、今日ほど夢ってやつを疎ましく思ったことはないだろう。ついでに……感謝したことも、なかったに違いない。
外は雲一つ無い青空が広がっていて、その陽気は窓際席の俺に、容赦なくサボりへの誘惑を繰り返してくる。
キャンプ出発まで、あと一日と迫ったその日、俺は欠伸をかみ殺す作業で必死になっていた。
…ったく…松木のやろう…タイミング悪いんだっつの…
胸中では、ここ数日で、もう何回、同じ悪態を吐いたことか…
原因である課題の方は、昨日、自習の時間が多かったことにもずいぶん助けられ、二つ目もだいたい、出来上がりってところまで漕ぎ着けた。ただ、昨夜は結局、三時過ぎまで机に張り付いてたせいで、今日は目がショボショボだ。朝イチ、隣の女子から『生きてる?』って、今日も聴かれちゃったぜ。ってか、お前はそれしか言えんのか?
『黒木』
四時間目が終了し、教室内が昼休みの雰囲気へと移り変わる中、足早に寄ってきた悠太が俺を呼んだ。視線だけそちらに巡らすと、悠太は構わず話を進めた。
『今の授業、ノート取った?』
『…まあ、一応』
『後で見せてくれない?黒板、見えにくくてさ』
言いながら、糸目の悠太は両手を併せる。
『別にいいけど。飯食ってからでいいだろ?』
『ああ、悪い…助かる』
…ま、睡魔との戦いが佳境だったせいで、文字がダイイングメッセージっぽくなってるけど、無いよりましだろう。
周辺を見渡せば、殆どの生徒が学食ないしパンを求めて席を立っている。自分の鞄から弁当箱を取り出したのは、ほんの数名だ。
『黒木は学食?』
『ん?ああ…お前は?』
『…普段はパンで済ませてるけど、まあ、たまには学食もいいかな…』
『あっそ…一緒に食う?』
少し遠回しだが、たぶん、これは、一緒に食おうって意味なんだろうと思い誘う。俺は空気を読む男。
『そうだな…よかったら、お願いするよ。天城も一緒なんだろう?』
『ああ…あいつ、友達いねえからな…』
そう、苦笑しながら回答し、俺は悠太を連れて教壇を横切った。廊下に出ると、すぐ隣の健作たちのクラスがやけに静かだ。どうやら、まだ、授業が続いているらしい。
『あんだよ、時間の守れない教師ってどうなの?』
『まあまあ…先生だって人間だしね。そんな、目くじら立てるほどのことでもないだろ?』
『悪かったな。心が狭いんだよ、俺は』
…ってか、「目くじら立てる」なんて、実際、使うやついるんだな。…いや、まあ、別に文句はないんだけど…
『…何?俺の顔に何か付いてる?』
『その言い回しもレアだな!?』
言ってから「やべっ」と思う。
たぶん、珍獣でも見っけたみたいな表情を、俺は悠太に向けていたんだろう。なのに、思わぬ追い討ちで、取り繕うのも忘れて、反射的に突っ込んじまったぜ。
『ああ…たまに言われるけど、俺、家庭の事情で、あまり、世間じゃ使われてないような言葉も普通に使うから…まあ、そんな、気にしないでくれると助かるかな』
逆に悠太が申し訳なさそうにしてしまった。
会話、聞きゃあ分かると思うが、俺と悠太はそれほど親しいって間柄じゃない。まあ、顔を合わせれば挨拶くらいはするし、何かの拍子に掃除当番や日直なんかを組まされれば、普通に協力したりもするだろう。けど、今年、初めて同じクラスになったことや、席が近くになったことがないなどの理由もあり、キャンプの面子に名前を連ねるまでは、大した会話すらしたことがなかった。どっちかっていうと、去年、同じクラスだった健作の方が、こいつのことを知ってるんだろう。実際、悠太を誘おうって言い出したのも健作だしな。
『そういや、どっかの財閥の息子なんだっけ?』
健作から聞いた話を思い出す。
『本人、目の前にして、それはどうかと思うけど、確かに、家は大きいかもね』
『ふーん…執事なんか雇ってるとか?』
『はは、まさか。そこまで浮世離れしてないよ』
浮世離れとか…
もう、突っ込みどころが満載だが、楽しみはキャンプまで取っておくことにしよう。ちょうど、時間オーバーの授業も終わりを告げたようだ。ガヤガヤと賑やかになった教室から、すぐに健作が出てくる。
『ごめん!待った?』
『デートに遅れてきた彼女か?さっさと行くぞ、席がなくなっちまう』
すぐに立ち話をしたがる健作に発破をかけて、俺たち三人は別棟の一階にある食堂へと向かった。
いつものように、食堂は人波でごった返していた。食券を求め、人垣を掻き分けるようにしながら券売機へと進む。やっとの思いで手に入れた食券を、カウンターで引き換え札と交換し、三人で座れるスペースを確保した頃には、何だか、ずいぶんと、くたびれてしまった。バーゲンセールのおばちゃんがどっからパワーを発揮しているのか、誰か研究してみて欲しい。
『カウンター、増やして欲しいよね』
愚痴っぽく健作が口を開いた。
『まあ、この値段じゃ仕方ないんじゃない?カツ丼、360円とか、他じゃあり得ないでしょ』
『あんだよ、悠太…食堂は初めてってわけじゃねえんだろ?ありゃ、カツ丼っぽい何かだよ。カツ丼じゃない』
『…けど、そのカツ丼もどき、頼んでなかったっけ?』
『見てんじゃねえよ…!』
『ああ、ごめん。もしかして、ネタだった?』
『………』
短い付き合いだが、悠太は少し大人びている。いや、ガキっぽさが少ないっつった方がいいか…それに、他人の思惑や行動を見透かすのが得意のようだ。だから、ちょっとやそっとのことじゃ動じない。いっちゃなんだが、顔は童顔なのに、可愛くないやつだ。
『そういえば、フッチー、坂倉さんとはまだ、続いてるの?』
『坂倉?』
健作が悠太に振った話題だったが、有名人の名前だったので、思わず口に出る。坂倉は校内でも5本の指に入るだろう、男子生徒からの人気が高い女子生徒で、卒業後は芸能界入りが噂される、アイドルの卵みたいなやつだ。
『あれ?くろやんは知らない?去年、修学旅行でフッチー、坂倉さんからコクられて、つきあってたんだよ』
『…へえ…そりゃ、知らんかった。修学旅行?』
『そうそう、僕とフッチーは同じ班だったんだけど、部屋に坂倉さんが来て、フッチーを呼び出したときはびっくりしたよ』
『残念ながら、もう、付き合ってないけどね』
何故だか得意気に説明を続ける健作の話に割り込んで、さっさと結論を述べる悠太。
『え?そうなの?…何で?別れちゃったんだ…』
『うーん…大人の事情?…というか、そういうのは、聞いてやらないのが、ルールってもんだよ』
悠太の言葉に健作は不満そうだったが、まあ、正論だ。
『それより、天城』
『ん?』
『…キャンプ、誘ってくれてありがとう。……ええっと、よろしく』
…微妙だな、おい。
それまで見せていた、まるで年長者のような感じとは打って変わって、どこかよそよそしい悠太の物言い。友達の少ない健作が推薦するくらいだから、てっきり仲良しなのかと思っていたんだが…そうでもないのだろうか?
『こっちこそよろしく。何かよく考えたら、高校生活ももうすぐ終わりなのに、僕って普通に話せる男子がそんなにいないんだよね。くろやんとフッチーと…あとは、ちょっと、怪しい属性を備えた…』
『やめろ。飯が不味くなる』
何だか不憫な話を堂々と始めた健作にストップをかける俺。因みに、フッチーというのは悠太のことだ。苗字の淵野辺からきてるのだろう。
二人の距離感はよく分からんが、もしかしたら、悠太にはこの誘いが意外だったのかもしれない。健作が推薦し、俺から話を持っていったとき、悠太は初め、何で俺?みたいな顔をしていた。まあ、そのくせ、二つ返事で参加を表明した辺り、こいつの考えてることも、さっぱりなんだが…
けど、まあ、その辺はせっかくキャンプに行くんだ…目的の中に、参加者同士の交流を深めるっつう項目が増えても問題ない。寧ろウェルカム。
『寒くならなきゃいいけどな…』
もちろん、キャンプ当日のことだが、そう、独り言のように呟いたとき、食堂のおばちゃんが、俺の持ってる番号札の数字を声高にアナウンスした。
昼食後…
『これ、何て読むの?』
教室に戻り、悠太にご所望のノートを貸し出してからすぐ…机に突っ伏してた俺に、早速、悠太からクレームが入った。
やれやれ…どうやら、昼休みに睡眠不足の解消ってわけにはいかないっぽい。
ーーーーー
午後になると、太陽のヤローは更に調子に乗りはじめ、気持ちの良い陽気は睡眠不足どストライクの俺を、容赦なく眠りの世界へと誘いはじめた。
ついでに拍車をかけるのが、英語教師による、教科書読むだけ淡々授業だ。これが毎回毎回、催眠術の方法でも習ってんじゃないのかってくらい眠くなる。居眠りする生徒はもちろん悪いと思うけど、常に居眠りさせるような授業を繰り返す教師も、俺は如何なもんかと思うね。しかも、今日はこの後、オーラルの授業が入っていて、そちらもこの教師が教鞭を振るう。一週間のうち、最も自分との闘いを強いられる二時間に、気持ちは早くも辟易としてきていた。
『ふ……ぁ…』
再度、欠伸を噛み殺す。眠い目を何度も擦る。
睡魔との闘いに、白旗を挙げたくなる衝動が、波となって襲いかかってくる。それに何とか抗うが、時間の経過とともに、身長を高くする荒波に防波堤の決壊は目前っぽい…
こんなとき、時計の針ってのはなかなか進まないもんなんだ…ほら、まだ、あんなとこに…
…ん?
ふと、黒板の上に掛けられた時計に違和感を覚え、もう一度、目をやる。俺はすぐに、その秒針が動いてないことに気付いた。
止まってんじゃん。
途端にそろそろ、チャイムが鳴ってもよさそうな気がしてきた俺は、すぐさま腕時計に目を落とす。
…マジか…
止まっていた。
不思議なこともあるもんだ。
同時に止まんなよなと思いつつ、鞄の中に入れた携帯を取り出すか迷っていると、気付いたんだ…
『………』
………静かだ。
そりゃ、さっきまでもうるさくはなかった。何しろ授業中だ。けどな、俺にだって、英語教師が教科書を読む声や、生徒がメモを取る走り書きの音。制服の衣擦れの音だっていい。そんくらい聞き取る聴力はあるはずだろ?
止まってるんだ…
暖房の効いた教室だってのに、俺は一瞬で身体中の血液が凍りついたような感覚を覚えた。
『お……おい…』
小声で、前に座る男子生徒に話しかける。
『………』
試しに鉛筆で背中をつついてみたが、やはり反応はなかった。
『はは…何だこれ………なあ!みんな!!』
動を失った世界。わざと大きな声を上げる。注目を浴びて、馬鹿にされてもよかった。非現実的な世界がほくそ笑み、俺を手招きしているような…そんな、アホな考えが頭を過る。
『おい、聞いてるのか?』
突然、後方からかけられたその声に、俺の心臓が天まで跳び跳ねた。慌てて振り返る…が…信じられない出来事は、そこから矢継ぎ早で俺に襲いかかってきやがった。
『なっ…!?』
広がったのは夜の森。
つい、さっきまで確かにあった快晴の空は一変し、眼前には闇を照らす焚き火の赤。
何だってんだ…!?
理解不能。何がどうなってんのか、訳が分からない。一瞬で大混乱に陥った頭は、まるでパンクしてフリーズしたパソコンみたいに、暫く、動きを止めた。
『どうかしたのか?鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔して』
俺に語りかけるそいつは、焚き火の向こう側から心配そうな顔でこちらを観察してくる。その顔に、俺は見覚えがあった。
一週間前…夢の中で見た、手錠の男…
『あ……ああ、悪い…ボーっとしてた』
…!?
お…おいおい…
『疲れてるんじゃないのか?』
尚も俺の状態を気にするような男の言葉に、様々な疑問が噴出する。しかし、同時に…
『いや、大丈夫。仕事はちゃんとやるさ』
ふざけんなっ…!!
思考再開。
起こった現象は、とても認めがたいものだった。だって、今、喋ってるのは俺だけど…そうじゃない。そりゃそうだ。こんな、意味不明な会話が冗談でも出来るなら、もっと他に聞きたいことが無限にある。声が出ないのだ。いいや、それどころか、体も動かない。座って話している感覚はあった。だが、それは俺の意思で行われていない。それって、何なんだ!?もう、本当に訳が分からない。出来ることなら、すぐにでも頭を抱えて叫び出したかった。
『それにしても…』
焚き火の向こう、立て膝の体勢で座る男は、パニクる俺に気付きもしないで話を続ける。
『白でも黒でもなく、赤とはな…』
『ったく、本当だぜ。色気づきやがって…いい、迷惑だ』
…何の話だ?
…って、まてよ?……もしかして、俺はまた、夢でもみてるんじゃないのか?
唐突に思い付いた仮定だった。
いつかの夢と登場人物が同じだったのが、よかったのかもしれない。それは絶賛錯乱中だった俺に、多少の冷静さを取り戻してくれた。しかし…
もし、仮に夢だとして、見ず知らずの人間が二回も登場するって…ありなのか?
疑問は次々とわいてくる。だが、働きだした俺の脳は、苦し紛れの解答も次々と産み出した。
もしかしたら、この目の前の人物は、過去にどこかで出会ってるのかもしれない。人間の記憶容量は豊富だって聞いたことがある。ただ、その引き出しを自由に明け閉め出来ないのだと。まったく思い出せないってことは、本当に些細な接触だったのか…もしかしたら、どこかですれ違っただけってことも考えられる。
それは、ここが夢の世界であることを前提にした考察。しかし、段々、正論のような気がしてくる。自分に都合のいい解釈は、一種の防衛本能が働いた結果なのかもしれない。何せ、これが夢なら、それは安心材料なんだから。だって、これは現実じゃなくなるわけだろう?
そう考えると次第に心は落ち着いてきた。
感覚はあるのに、動かない体。知らない男と知り合いのように話している俺。さっきまで教室にいたのに、突然、森の中。昼夜の逆転。何だよ…はは、馬鹿馬鹿しい。
こんなことが現実であるわけがない。
そうだ…これは夢。ちょっと考えれば分かることじゃねえか。この、リアルな感じは何なのかさっぱりだが、たぶん、俺の脳みそが変なホルモンでも分泌しちまったんだろう。原因はストレスとか、睡眠不足とか…まあ、何でもいい。だが、解決は簡単だ。目覚めるのを待てばいいだけ。
そう結論付けたとき、男が何か口を開きかけた瞬間だった…
ヒュンッ…!
風を切るようなその音は、突然、暗闇の向こうから訪れた。同時に、俺の顔が右方向へと弾けとぶ。
『勇人っ…!!』
男がでかい声を出す。が、俺は右手を支点にして倒れ込むのを拒むと、すぐに体勢を立て直した。男の方も既に立ち上がって、こちらの状態を確認しようと近付いてくる。
『大丈夫か!?』
『ああ、鼻先を掠めただけだ』
そう言って、俺は何かの飛来物が掠めた(らしい)鼻に左手で触れた。
『鼻血が出てるぞ』
男が情報をプレゼントしてくる。
『大したこたない』
鼻を触ったのは鼻骨の確認だったのだろう。大事には至っていないようだ。
『拙いな…囲まれてる…ケンがいないのは痛かったか…』
『仕方ないさ…数は?』
『分からん…だが、相当だ』
……何なんだ…
『ちっ…あっちも必死だってことか…』
『だが、これで、はっきりしたな』
『ああ…情報が漏洩してやがる』
気に入らない……
『手薄なのは?』
『十二時方向……比較的、という話ならだがな』
何で、こんな夢をみる?
『…まだ、死ねないぜ?』
『分かっているさ。それに、お前を死なせたら、あの、じゃじゃ馬に何と言われることか…』
『案外、ケロッとしてんじゃねえの?おっと、そろそろ、お出ましだ』
左手の茂みがガサガサと音を賑わい始めた。
何かが…来る…
思い通りにはならないくせに、臨場感だけは凄まじいものがあるもんだから、俺は心の中で固唾を飲んでいた。
視界がぼやけだしたのは、そのときだった。
『……き…!……くろき!』
…何だ?
どこか遠くから、声が聞こえる。
『起きんか!』
視界が暗転した。
ーーーーー
『やる気がないのか!?』
英語教師の怒鳴る声に、俺はまだ覚めきらない目をパチパチとしばたかせた。
『堂々と眠りおって…』
顔を上げると、教壇で腕組みした、酷く不機嫌そうな壮年の姿……ああ…やっぱりな…
『すいません…』
取り敢えず、謝っておく。
もちろん、このとき、俺は心の中で安堵していたんだろう。英語教師の怒りなんかどうでもいいくらいに。けどな……取り戻したと思った平穏は、茶化すかのように発せられた、男子生徒の発言から破綻を始める。
『黒木ー、お前、何の夢みてたんだよー?』
途端に教室中で巻き起こる笑い声。
…なんだよ?
きっと、俺は何にも分からずに、さぞ、間抜けな表情を晒していたに違いない。答えは英語教師がくれた。
『さっさとトイレなり、保健室なり行って、鼻血を止めてこい!』
『……はな……ぢ?』
鼻の下を伝う、熱い雫の感覚が、途端に俺の中で産声を上げる。
…はは……そんな…
夢は…現実との境界を侵しやがったのさ。