桜満ちる頃
1
学校の帰り道、ふと叫びたいと思った。嫌な事をおもいだして。
それ程大事は起きていない。ただ、今日は些細な不運が重なってだいぶイライラしていた。
朝ご飯に嫌いな納豆が出てきたり、通学路で苦手な女子に捕まったり、授業中に居眠りと勘違いされて先生に怒鳴られたり、その他諸々の小さなボディーブローが重なって、現在私の精神状態はすこぶる悪かった。
家も近くなる頃、生い茂る木々の中にポツンと釣瓶の付いた古い井戸を見つけた。いや、それは昔からそこに有り、何も今改めて発見した訳ではないのだが、手頃な空間という意味でそれが今、目に付いた。
いつだったか、井戸から青白い女の幽霊が出てくるホラー映画を見てから下校の時には極力目を逸らして通っていたのだが、こうして至近距離に寄ってまじまじと見ると、とても静かで深く、それに遠い底に光る水が神秘的で、却って恐怖を感じなかった。
ざらざらした井戸のへりに掴まり、首をすっぽりと円の中に入れた。先日の台風のせいか、中に虫や蜘蛛の巣などは見当たらない。水面が静かだという事は、井戸に付き物のカエルやアメンボも居ないのだろう。
息を吸い込んだが、途端に大声を上げる気が失せてしまった。どうしたことだろう。
引っ込みがつかなくなって、そのままの姿勢で暫く逡巡していた。水面には間抜けな自分の影がゆらゆらと映っていた。
「佐倉」
心臓が跳ね上がり、危うく井戸に落ちるところだった。暗い円柱から慌てて顔を出すと、声の主は真横に居た。驚く私をみて、そいつは怪訝な顔で『何してんの? 』と質問してきた。
同じクラスの男子、森田だ。眼鏡を掛けている、色白で地味な、チビの男子。
「何か落としたの? 一緒に探そうか? 」
いつもおどおどしている森田に積極的に話しかけられ、私は少々むっとした。完全に自分の思い込みだが、よく一人で帰る私は、はぐれ者と思われてやたらと気を遣われるのが大嫌いだった。変に同情されて腫物扱いされるよりは、そっとしておいてほしい。尤も、そのせいで周りから孤立している節もあるが。
「別に何も。急に声掛けないでよ」
「あ、ゴメン…。でも、何で井戸覗いてたの? 」
「べつに何でもいいでしょ。放っといてよ」
因みに、私は普段からこんなに愛想が悪いわけではない。相手が一応男子の森田で、それも二人きりなので、今は無意識にこうなっているだけだ。
私のように中途半端な容姿の女は概して必要以上にガードが堅いもので、男子と二人だけだと自然とこうなってしまう。例え森田のように、弱気でナンパなど絶対にしなそうな男子に対しても。
「佐倉怖い。普通に話してくれたって良いのに」
「あたし森田と喋った事、ほとんど無いじゃん。何? 急に」
居心地が悪くなって即座に立ち上がると、スカートを払って目も合わさずに帰り道に復帰した。その瞬間、視界の真ん中にすっと白い長四角が現れた。
立ち止まって顔を上げると、それを差し出した森田が顔を不自然な程思い切り向こうにむけていた。
もう一度視線を落とすと、それは白くてシンプルな横書き便箋用の封筒だった。どうやらベタな漫画なら、きっとハートのシールで封を閉じてある、例の手紙らしかった。
もう一度森田の顔を見る。小学生に間違われるくらいの童顔を真っ赤にして、小さな口を尖らせていた。こんなものを差し出されたのは生まれて初めてだった。
困惑の末、一瞬迷ったが、あろうことか私は―――全力で走って逃げた。
「佐倉! 」
縋るような声が聞こえた。
森田は追いかけて来なかったが、たとえ追いかけて来ても逃げ切る自信はあった。こっちは運動部、森田は文化部の軟弱系男子だ。
「さ、佐倉、待てよ! 」
私を呼ぶ声はあっという間に遠くなり、そして聞こえなくなった。後ろを振り向けない分、私はひたすら走った。自分の家を通り過ぎて200メートル位の所で息が上がり、走れなくなった。心臓が痛い。連動してみぞおちが全体的に痛い。やっててよかった、ソフトボール部。ダテに毎日走り込んでないのだ。
必死で駆け上がった坂の上からそろりと下を覗くと、雑木林の中からトボトボと引き返す猫背の森田が見えた。
それを見て、私はあまり気の毒とは思わなかった。少し気味が悪いとも思った。私は森田の下の名前すら知らない。2年から同じクラスだった気がするが、これと言って印象も無かったし、実のところ私は森田と話すのが苦手だった。
毎度毎度、目の合わせ方がわからないのだ。小心者だからか、いつも瞳があさっての方向を向いているのでどこを見ればいいのかすごく悩む。まぁ、今まで話すこと自体あまり無かった訳だが。
ともあれ私は森田をまいて5分程経過してから、こそこそと帰宅した。
ドアを開けてすぐにただいまを言う習慣が無い我が家だが、別に仲が悪い訳じゃない。とりあえずリビングに行き、荷物を3人掛けソファに放ると、何となしにテレビを点けた。映ったのはバラエティ番組だ。勢いだけの、最近出てきたちっとも面白くない芸人が、柱に繋がれたライオンに素手で餌やりをしている所だった。
「みちる、お帰り。今日天ぷらそばだけど、いい? 」
「いいよ、別に。ただいま」
節電のためか、調理中は窓を開けてエアコンを切ってあるリビングは、どうりで何だか油っぽい匂いがしていた。
私は好きだから気にならないけど、弟の和也は何を出されても一言は文句をつけるタチだから今日も何か言うだろう。中一のくせに私より帰りが遅い弟は、やたらとクレームの多い生意気なガキになった。そのくせギターが欲しいとか、歌詞を書いたとか、変にませた所もある。もとより中学に上がってから、私とあまり喋らなくなってしまったけど。
「…おかあさん、森田って知ってたっけ? 」
どうしても、あの出来事を自分の中だけにしまっておくのは気持ちが悪い。
「もりた? 去年同じクラスだった由美ちゃん?」
「違う。男子。チビで眼鏡の森田」
「お母さん、男の子はちょっとわからないわ。和也のクラスの子しか」
「そう」
「どうしたの? みちるその子が好きなの? 」
「全然。でも今日、手紙くれそうになったから逃げた」
不意に、テレビのスピーカーからわざとらしい爆笑が聞こえた。
件の三文芸人が、ライオンに手を甘噛みされてのた打ち回っていた。馬鹿馬鹿しくなり、チャンネルを変える。報道が良い。こういう時、テレビは無難にニュースを流していてほしい。
「逃げたの?!あらまあ…。おばかさんねぇ。可哀そうなことをして」
たっぷり感情の詰まったお馬鹿さんの称号を受け、私はリモコンを持ったままソファの背によじ登り、後ろにあるキッチンで汗を流す母に向き直った。
「だって喋ったこともほとんど無いし、全然仲良くないやつだよ。キモいよ。何か怖くない? 」
「もう、嫌だわ。キモいとかそういうギャルみたいな言葉、どこで覚えるの? ほら、箸配ってみちる。もうお父さんも和也も帰ってくるから」
「だってキモいもん。箸ちょうだい」
「取りにいらっしゃい。それくらい」
あの白い封筒の中には、どんな手紙が入っていたのだろう。教科書通りの甘い文面だろうか。それともストーカーじみた奇怪文だろうか。それとも…単なる私の早とちりで、あれは誰かに依頼されたものなのだろうか?はたまた只の連絡事項か?
せめて貰ってから逃げるんだった。私に向けられた愛の言葉が綴られている手紙など、毛ほども想像が付かない。ちょっとだけ興味が湧いてきた。せめて森田がもう少し笑うやつで、普段から雑談等をしていたら、もしかしたら私も頬ぐらいは染めていたかもしれないのに。とてもじゃないが喜べない。まさに残念賞が当たったような気分だ。
玄関から男二人の話す声がした。和也と父さんだ。遅れて、ドアが閉まる音がした。
「何? 今日天ぷら? 脂っこいじゃん。気持ち悪くなりそう」
リビングに入るなり、和也が早速文句をつけた。ここ最近背だけはうんと伸びたが、何かにつけいちいちケチを付けたがるのは、さすが中一らしい、いかにも鼻につくガキといった感じだった。
「何でいちいち文句言うの? いらないんなら食べなきゃいいじゃん」
「いらないなんて一言も言ってませんけど」
「なにそれ。ガキくさい。なんで敬語なの? 」
顔をしかめた母に制され、尻に一発蹴りを入れてから手伝いをしに台所に立った。
息巻いて和也に背を向けた途端、ふくらはぎのあたりにすぱん! とスリッパが飛んできた。振り返って睨みつけると、ニヤニヤしてもう一方のスリッパを構えていた。私は猛烈に頭に来た。結構な勢いで飛んできたスリッパを拾い上げ、振りかぶって…
「こら!いい加減にしなさい!! 中学生にもなって! 」
母に般若の形相で一喝され、私の反撃は中断を余儀なくされた。ご近所さんいわく淑女らしい佐倉家の母も、一般人ゆえ怒っている時は普通に怒鳴る。営業帰りのスーツ姿のままで食卓に着いていた父がテレビを見ながら、面倒臭そうに、やめろ とだけ吐き捨てて箸を取った。うちの父の自慢できる所と言えば、うるさくない事と禿げてない事くらいだろう。いや、反抗期ゆえ、私が父の事をまともに見ていないだけなのだが。
すぐれない気分のまま無言で夕飯を平らげ、ソファに散らばった荷物を回収して私は早々に自分の部屋に引き上げた。
自室のドアに鍵をかけ、通学かばんを、グローブを、体育着の入った袋を、次々にベッドに投げつけた。再び、大声で叫びたい衝動に駆られた。しかしそれと同時にあの古い井戸と、森田の赤い顔と、白い手紙が思い出されて進退窮まり、頭を掻きむしりたくなった。
嫌だ。もう学校に行きたくない。席こそ遠いが、同じクラスだ。二度と森田の席の辺りに顔を向けられない。最悪の場合、今度は学校で手紙を渡されるかもしれない。そんなの、誰かに見つかりでもしたら地獄の始まりだ。思春期真っ只中の、面白いもの好きで調子こいてる一部のクラスメイトの好奇の的となってしまう。ウチのクラスにも例外なく居る、アホ男子たちの餌食に。
夜中まで散々悩んだ末、結局私は翌日からもいつも通りに振る舞うことにした。手紙を急に渡されたって、受け取らなければ良いだけの話だ。そうすれば、恥をかくのは森田だけで済む。
鳥が鳴く通学路、朝霧のおかげで幾分しゃっきり頭で昨日の出来事を整理した。
なに、恐れることなんて無い。私は何も悪くないのだから、堂々と校門をくぐればいい。俯いて教室に入ることなんて無い。幸い森田の席はいちばん前だから、授業中はわざわざ振り返らなければこちらを見る事すらできないだろう。極力時間ぎりぎりに教室に入って、授業が終わったら隣のクラスにでも逃げればいい。放課後はさっさと部室に行って、部活が終わったら着替えずにダッシュで帰ればいい。ちょっと慌ただしいけど、しばらくそうしていれば、きっとほとぼりが冷める。黙って何もしないで居てくれればそれでいい。私の事をどう思っていようと、てんで構わないから、頼むから何もしないでいて欲しい。
ドアを開け、拍子抜けした。
せっかく始業ぎりぎりに教室に入ったのに、何故かあいつは席に座っていなかったのだ。
ロッカーにかばんも無い。急いでいたので靴箱は確認しなかったが、もしかしたら、靴も無かったかもしれない。青ざめた。まさか、あれが原因で休んだのだろうか?
教卓の目前にある空席を凝視していると、扉がガラっと開いた。クラスメイト達がてんでばらばらに椅子を引く音が響いた。
朝一番のチャイムと同時に担任のミスター・フジワラが、白々しいハイテンションで教壇に上ってきた。43歳、独身、小太りの英語教師で、ギャグがいつも寒い。
「ハーイ! グッモーニンエヴェリワァーン!?
…………えー…はい! ね! 出席を取りまーす! 井上! 」
「はい」
「内田! 」
「はーい」
頬杖をつき、自分の机の傷や木目を眺めた。最近聞こえるようになったアブラゼミの大合唱を聞き流しながら、もうすぐ夏休みだな、とぼんやり思った。
「佐倉! 」
「ハイ」
今年もどうせ宿題が山ほど出て、クソ暑い中結局勉強漬けにならざるを得ないのだ。夏休みなんて、40日も無くて良いのに。家で1時間勉強するより、学校で1時間授業を受ける方がまだ煩わしくない。要するに先生たちだけ本当に休んでいるのだ。酷暑の中、40日もの間。
「三谷! 」
「はいはーい」
「矢部! 」
「は~い!」
森田が呼ばれなかった。やはり欠席だった。でもそれはそれで、良い気がしない。私だってよっぽど仮病を使おうと思ったが、3年のこの時期に欠席するのはヤバいと思って仕方なく来たのに。まったく、何それ。お腹が痛いとか言って、お母さんに電話してもらったわけ?
「1時間目は体育なので、皆早めに水着に着替えて下さーい! 特に女子は急げよー!いつも時間かかるって、先生昨日文句言われちゃったよ」
「センセー! 女子もここで脱げば早いと思いまーす」
お調子者でギャル男の三谷が、お約束をかましていた。
三谷は私のような地味系の女子を下ネタでからかったりして忌み嫌われ、付き合う人間の種類も自ずと決まっていた。彼と楽しく会話が出来るのはギャルか不良くらいだった。顔は十人並みだが、前髪を止めているあの細いカチューシャが憎たらしい。
「先生もその方が早いと思うけどー…。ね、そうなると先生、PTAとか色んな所にボコボコにされちゃうので、女子は早く隣の教材準備室に行って下さーい! ほら、本当に早くしろよ! 」
女子全員の失笑と男子数名の爆笑が入り混じる中、ミスター・フジワラはそそくさと教室を出て行った。
机に引っ掛けていた学校指定のプールバッグを手に取り、私も皆にならって苦笑いで教室を出た。私と同じソフト部で、小学校から仲の良い直美が後ろに付いてきた。
「アタシ、三谷は苦手だな。なんか怖いし」
「私も」
私達は準備室に入るなり率先して部屋中のカーテンを閉め、風で浮かないように徹底してすべての窓も閉めた。ただでさえ蒸し暑い準備室に、独特の女子臭さが広がっていった。制汗剤とか、香水とか、色々混ざって表現できかねる複雑な、その筋の人には需要がありそうな、そういう匂い。私は好きじゃない。そして歳を取っておばさんになったら、今度は化粧臭くなるのだろう。いや、多分私もそうなるけど。
「あれ? 直美プールバッグは? 」
「アタシ今日ダメなの」
「あ…そっか、大変だね。大丈夫? 」
「うーん…。お腹いたくてさぁ、ホントはちょっと休みたかったんだけど、親が行けってうるさいから」
「薬飲んだ? 辛かったら保健室行っといでよ」
「大丈夫。家で飲んできたし、まぁ半分仮病みたいなもんだから」
直美は、県内でトップの進学校を狙っていた。元々頭が良かったし、そうするだろうと思っていたので、それを聞いた時にもやっぱりね、としか思わなかった。私はごく普通の女子高を受けるので、直美よりはだいぶ気楽な3年生ライフを送っていた。
「…森田も仮病なのかな」
誰それ? という顔になり、直美は目をぱちくりさせていた。
「今日、名前呼ばれて無かったじゃん。前の席の、チビの森田」
「あ、森田ね! はいはい。なんで仮病? 昨日元気そうだったから? 」
「うん…あのさ、昨日……」
直美なら大丈夫だ。くだらない噂を広めて喜ぶような女の子でもないし、私もこのあいだ、直美の好きな人を教えてもらったばかりだ。
「何? なんかあったの? 」
「うん。えーと…」
「なに? 」
周りの女子を見る。銘々自分たちのおしゃべりに夢中で、丁度いい具合にがやがやしていた。自然な感じで、少し音量を落として云った。
「昨日、告…いや、違うかもしれないけど、手紙渡されそうになって。
…でも私、逃げちゃってさ」
大声こそ出さなかったが、直美は両手で口を押えて、交通事故を目撃した時のような表情になっていた。
にわかに後悔が襲った。誰にも言うべきではなかったかもしれない。こんな着替えのついでに、まるで話のタネのように誰かに教えるのはいけなかった。たとえ直美でも。
「それ本当? 森田ってみちるの事好きだったんだ? 」
「わからない」
「『わからない』って! 手紙ってそういう手紙なんでしょ? 」
徐々に皆が着替えを終えて、人が少なくなってきた。すっかり終えていた私と制服のままの直美はすみやかに廊下に出て、再び小声で喋りだした。
「多分、そうだと思うけど…私全然好かれるような事してないのに。年に数回喋る程度だし」
「優しい女の子が好きなんじゃない? 」
「私全然優しくないよ」
「優しいよ。あと、ショートカット好きとか、教科書を大事に扱う女の子が好きとか。顔は…中の上が好きとか? あ、あと字が綺麗だよね。みちる」
「やめてよ。面白がってるでしょ」
「胸もそれなりにあるし、ね!みちるは良い女だよ? 見る目があるよ、森田は」
「ちょっと直美、いい加減にしてよ!」
私を置いてひとりで春爛漫のような状態になり、直美はしきりに頷いていた。中学3年間、全く浮かれた話が無かった私に、まるで遅咲きの花が咲いたとでも言わんばかりに勝手に喜んでいた。
「森田だって別にカッコ悪い顔じゃないじゃん。子供っぽいけど。背だってまだ伸びるんじゃない?」
「そ、そういう問題じゃないよ。全然喋ったことが無いのが嫌なの。まだ三谷の方が多いよ。会話自体は」
「そんなのいいじゃん ! それこそ、そういう問題じゃないよ。一言も喋らなくたって好きになったりするよ。それに一緒のクラスに居るんだから、みちるがどんな子かは森田もわかってると思うよ ? 良いじゃん。飾らないみちるを好きになってくれるなんて、羨ましいよ」
熱く照らされた窓に目を細め、直美は呑気そうに微笑んでいた。
だからって、急に好きだと言われても困る。言われてなくても現に困っているのだから、この上本当に告白されたらきっとまた逃げ出すだろう。私は。
1時間目の体育が終わり、その後の国語、数学、英語が終わり、給食の後に進路指導、H.Rが終わって、私は約1年ぶりに部活をサボった。職員室で顧問に腹痛で帰ると伝え、その足でミスター・フジワラの席を訪ねた。背を丸め、単語の小テストの採点をしていた。
「藤原先生」
脂の浮いた丸顔に満面の笑みを浮かべ、『What is the matter ? 』とやたらネイティブな発音で尋ねられた。心底鬱陶しいと思った。
「連絡網の紙ください。無くしちゃったんで」
「連絡網 ?ちょっと待っててな佐倉。先生の机散らかってるから、探さないと」
自虐ではなくまさにその通り、わら半紙や提出されたノート類で机の上はゴミ山のようだった。和英辞典にしおり代わりに挟んであるのは、どうやら昨日給食で出た未使用のココアパウダー(牛乳に混ぜる、アレ)だった。間違いなく、部屋もこんな感じだろう。
「Oh、あったあった。コピーで良いよな ?」
「はい」
「写してくるから、何も触らないで待ってろよ。絶対何も見ちゃダメだからな」
「……何も見ませんよ」
しかし吐き捨てたセリフとは裏腹に、私は一通の書類に目を留めた。クラスの連絡網と共にファイルに閉じてあった、生徒の住所録だった。ちょうど剥き出しになっていたせいで、私は無意識のうちに一人の生徒の住所を見てしまった。そして驚いた。そいつの家は私の家と真反対の方向にあり、町名から考えると、あの古井戸から歩いて1時間近くかかる場所だ。
健気なのか、馬鹿なのか。あそこまで来なくても、学校の靴箱にでも入れてくれれば良かったのに。
「はい! 今度は無くすなよ。一応個人情報なんだから」
「すみません。ありがとうございます」
職員室を出ると、私は走って学校を出た。まだ青い空の下、ひとりきりになれる場所を探して走り、結局またあの雑木林にたどり着いた。井戸には水も溜まり、木が茂っているのに不思議とここには小虫が寄り付かない。近くにハーブの類でも生えているのかもしれない。
カバンの内ポケットを探り、電源を切って布に包んでいた携帯電話を取り出す。田舎の中学校は、とくにこういうものは厳重に隠しておかないといけない。こんな物が見つかると没収されてしまうのだ。電源を入れ、制服の胸ポケットに入れていた連絡網のコピーを見ながらゆっくりとボタンを押した。数回咳払いをして、呼び出し音に耳を集中させる。
…3回、4回、5回とコールが響く。留守だろうか ?
7回目のコールで諦め、電話を切った。
きっと森田は家で寝ているのだろう。あるいは落ち込んで部屋に閉じ込まっているか。急にどうでも良くなって、部活をサボった事を後悔しつつ、のろのろと家路に就いた。
しかし森田は、その日から姿を見せなくなった。その週の土日が明けて、休み前最後の登校日になっても、とうとう学校に来なかった。担任は相変わらず顔色も変えずに名前をとばすだけだし、クラスのほとんどの生徒はその事にすら気が付いていないようだったが、私は納得せざるを得なかった。
私だって、森田がクラス内で誰と喋っていたかすら思い出せないのだから。
2
夏休みに入った。地方大会でもあまりいい成績の出ない弱小ソフト部だったせいか、私と直美の引退はわりとあっさり決まり、私達は勉強に専念するという名目のもと午前中に家でダラダラする権利を手に入れた。
今更ながらパソコンの便利さに気付いた私は、初日からすっかりパソコンとクーラーのあるリビングに入り浸りになって、始終ネットサーフィンに明け暮れた。
徒然なる思考の隙間でひとつ思い立ち、検索ワードに『引き籠り』と入力しかけて、私はバックスペースキーを連打した。部屋に籠っているかどうかは判らないので、この場合は『登校拒否』とした方が良いかもしれない。ともあれ非常に便利なパソコンは、コンマ何秒の速さでそれに関する溢れんばかりの情報を画面に羅列した。私は手始めに、一番上に表示された拒否児の母親のブログを読み始めた。
―――私の息子(たかし・仮名)が学校へ行かなくなったのは、中学3年の夏からです。はじめはお腹が痛いだとか、風邪っぽいとか、週に1回程度休んでいたのですが、そのうち学校どころか、部屋から一歩も出なくなってしまったのです。いじめだとか、そういった事も無いようですし、私達夫婦は一体どうしたら良いものかと途方に暮れていました。
始めのうちは悲壮感漂う文面に、同情だの共感だの、応援したい気持ちが募ったが、画面をスクロールするにつれて話はどんどん他の方向にズレ始めた。
―――某日、主婦仲間のAさんにあるお話をされました。私も最初は半信半疑で始めたのですが、その日を境に息子は部屋を出てくるようになり、自然と笑顔が戻ってきたのです。そして信じられない事ですが、夏休みが終わると息子は自然に学校へ行くようになったのです!さらに信じられない事に、休んでいたにも関わらず成績や内申点にも殆ど影響が無く、それどころか息子はめきめきと学年順位を上げ、遂に今年度県内トップの難関高校に合格しました!私と主人は、うれし泣きで涙が止まりませんでした。それというのも、全てAさんに教わったあの方法を実行したお蔭なのです……。
話は二転三転し、最終的に画面に出てきたのはラムネの瓶に入ってるようなガラスのビー玉が30個くらい連なった、妙ちきりんなネックレスだった。
『今なら鬼除けの札も付いて29,800円!』因みに送料は別で、一律500円。
私と悩みを分かち合ってくれていた淑女は、突然欲望を丸出しにして身を乗り出してきた訳である。
いや、これを書いたのは、多分淑女でもなければ母親でもない。暇で、才能も無くて、もっと言えば頭の悪い(しかもそれを努力で改善する気も無い)欲臭いでくのぼうに違いない。詐欺師という商売は往々にして、金と共に貴重な時間をも奪って行く。
金の方はまだ良い。ちょっと立ち止まって一考すれば大体の場合はおかしいと気付いて奪われずに済む。しかし話を聞き、判断を下すまでの間の時間は既に騙し取られているのだ。今現在という、行動を起こせる範囲では自分の中で最も若くて貴重な時間を。
苛立った私は詐欺師や嘘つきがウヨウヨしているパソコンに見切りをつけ、電源を切って自分の部屋に戻った。ベッドに身を投げ、天井を見つめる。
明日、直接森田の家に行こう。休みが明けてもこれ以上学校を休まれたら私の精神衛生上も良くないし、どうにか立ち直ってくれないと、このままでは森田の進学にも影響するだろう。
それにいい加減、ちょっと心配になってきた。
あの時、手紙だけでも受け取れば良かったのだ。何も言わずに逃たのがちょっと申し訳なくなって来たし、そもそも私はべつに森田をすごく嫌いだった訳でもない。明日は丁度直美と出掛ける予定だったから、そのついでにちょっと寄らせてもらえばいい。住所は覚えている。とにかく一度会って話をしないと、スッキリしないままだ。
そう思ってすぐさま直美に電話を掛けると、何も言わずに快諾してくれた。良き友を持ったものだ。どうやら今夜は、何も悩まず眠れそうだった。
気分がほぐれた所で、受験生らしく机に向かう事にした。今の成績でも十分だったが、夏休みというものは一旦怠け癖が付くとあっという間に取り返しのつかない事になる。最低限のワークと提出課題を毎日ちまちま片付ける事にした。
幸い、宿題は思っていたより少ない。蝉の声も、今年は耳に心地よかった。
そして24時間後、
私は全く同じ自分の机の上で、頭を抱えて自己嫌悪に陥っていた。
結論から言うと、森田の家には行けなかったのだ。
私と直美は近くで唯一の都会である浜松に行ったのだが、遊びに関しては文句のつけようがない程充実していた。
しかし帰りの電車を待つ間に直美が妙な言葉を発した。それがいけなかった。
「みちる、何か悩んでるの? 」
腹の底から楽しんでいたつもりの私は言われた事の意味が解らず、首を傾げておうむ返しに訊いた。
「なんで?? 何か悩んでるように見えた? 」
「うん…。時々、そう見えた。勉強ヤバいの? 」
思わず笑って、首を振った。
「まさか。悩むほど難しいとこ、受けないよ」
「んー…。そう…。じゃあ、もういっこの方? 」
「もう一個? 」
ますます混乱して片眉を吊り上げた。部活ならもう辞めているし、後輩や顧問も笑顔で送り出してくれた。それは直美も見ていた筈だ。
「みちる。からかわないから正直に言ってね? 森田のこと、ちょっと気になってるんでしょ? 」
「……えぇ?! 」
声が裏返った。
しかしそれは図星だからではなく、全く思いがけない質問だったからだ。その事をはっきり直美に伝えないといけない。
「―――ちがうよ! 全然違う! びっくりしたぁ。何で急に森田が出てくんの? 」
「でも今日、行くんでしょ? 森田の家に…。今から」
本当にからかう口調ではなく、しんから心配しているように直美は私の眼を見て丁寧に訊いた。それが余計に恥ずかしくて、私は意味なく時刻表を見たり、時計を見たり、視線を泳がせた。
「ううん。実はやめようかなって思ってた。もうめんどくさいし、家も逆方向だしさ」
「えっ?! そうなの? 」
「うん! やめる、やめる。変な誤解されても困るし」
「でも…」
タイミングよく掛川行きの普通列車が到着し、私は直美の腕を引っ張ってそれに乗り込んだ。乗り込む人の多さの割に、座席は簡単に確保できた。どさくさで窓側の席をもらって、私は頬杖をついて目を閉じた。
「ちょっと寝ていい? 昨日夜更かししちゃって」
「あ、うん、全然いいよ。着いたら起こすから」
「ありがとう」
袋井までのおよそ15分、ハッキリ目の覚めている状態で寝たふりを続けるのはちょっと辛抱の要ることだったが、自分のくだらない強がりを振り返り、反省するにはぴったりの姿勢だった。
思わず深いため息が出そうになったが、到着するまで石のようにジッと固まっていた。電車を降りると、外はあっという間に田舎になっていた。
「本当にいいの?」
「いいよ。帰って勉強するよ。一応受験生だし」
「そっか…。そうだね。じゃあ、アタシももう行くね。お母さん、うるさいし」
「うん! 頑張ってね。また受験が終わったら息抜きしようよ」
「そうだね。ありがとう! 」
颯爽とペダルを漕ぎ、直美は早々と視界から消えてしまった。
どうして若さというものは、こうも物事を難しくしてしまうのだろう。やり場のない焦燥だとか苛立ちが、自分の肺から湧き上がるようだった。
こういう訳のわからない感情の切り捨て方を会得した時、思春期は終わるのかもしれない。
8月下旬、業を煮やした私はひとりで森田の家を訪ねた。
しかし、そこに森田は居なかった。父親らしき中年男性が、曖昧な笑顔でこう言った。
「未希也なら市の総合病院に入院中ですよ。よかったら見に行ってやって下さい」
入院という言葉に驚き、私はその足で即座に病院に向かった。
受付で森田の名前を告げると、小柄な看護師さんに案内された。気を遣うような笑顔だった。やめてほしい。
重い引き戸の中は、一人部屋だった。右足にコルセットを付けた小さな少年がベッドに座っていた。
森田は目を見開いていた。私がここに来るなんて、思ってもみなかったのだろう。私はわざと不機嫌そうな顔をつくり、険のある声で言い放った。
「ちょっと、どういう事? 」
「さ、佐倉? …来てくれたんだ」
「なんであの日から来なかったの? 」
「…え? 」
「手紙の…あの日」
「え、あ…! だって俺がそうしたかったから。前から決まってたんだよ。入院の日」
悪びれず答える森田に、私は噛みついた。
「わかってたの?! じゃあ何でわざわざ前日にあんな事したの?!! こっちは気が気じゃなかったよ! あれが原因で学校嫌になったのかと思って…! 」
森田が驚いて目を丸くした。
「佐倉、心配してくれたの? 」
「し、してないよ! 調子に乗らないでよ! 私あんたの事なんか全っ然好きじゃないから! 」
言ってから思った。これじゃあ、まるっきりツンデレ同級生だ。ツインテールだったら、もうまさに。まぁ、私じゃ絵にならないけど。
けっこう酷く突き放したと思ったが、森田は呑気に微笑んでいた。いつもの眼鏡を外しているせいか気弱そうな部分が少し薄まり、笑うと、ただ優しげな雰囲気が漂った。何故かこそばゆくなって、私は眉間に皺をよせて窓を見た。病室の白いカーテンに濾された夏の日差しが、部屋中を程よく明るくしていた。
「わざわざ来ること無かったみたいね? どうって事無さそうだし」
「ううん、嬉しいよ。ゲームは出来るけど、ちょっと寂しかったから」
「あんた、ゲームより勉強しなよ? 学校に戻ったら死ぬほどやる事あるんだから」
「佐倉、お母さんみたい」
「うっさい。治ったら早く学校来なさいよ」
「うん、ありがとね。元気出た」
少しだけ笑顔が出てしまい、何だかきまりが悪くなって逃げるように病室を出た。
まあ、あんな奴別に好きじゃないんだけど。
しかし、森田は夏休みが過ぎても学校に来なかった。
9月も後半に差し掛かる頃、私がもう一度病院を訪ねると、信じられない事に面会不可と言われてしまった。
たかが骨折ごときでこんな事になるだろうか?
不可解な気持ちで病院を出ようとすると、看護師さんが一枚のメモを渡してくれた。
「これね、未希也くんが渡しておいてって。病棟の中でも電話できるスペースはあるから…」
11ケタの番号が、ハイフンもなしで走り書きのように記されていた。
「今電話してもいいですか? 」
看護師さんの顔が、少し曇った。
「今は…ちょっとダメかな。明日の午後ならきっと大丈夫だから、未希也くんに伝えておこうか?」
「あ…いいえ。大丈夫です。全然。ありがとうございました」
私の不可解度はMAXになった。
一体森田の身に何が起こっているのだろう。感染症か何かにでもかかったのだろうか?
自転車を漕ぎながら、只々ありそうなことを羅列してみた。
何かの拍子に再骨折した?
それとも院内感染で何かの病気に掛かったとか?
そもそも骨折ではなく別の病気とか?
帰っても気分は晴れず、翌日の放課後まで気もそぞろだった。
学校を出るなり、すぐに携帯の電源を入れた。メモの通り番号を押すと、1コール目で森田は出た。
「はい! もしもし! 佐倉?! 」
とりあえず声は普段通りだった。
「佐倉だけど…あんた、何? どうしたの? 面会不可って言われたんだけど」
「あ、うん…。ゴメン」
「何で謝るのよ。森田…大丈夫? 」
「……うん」
「何があったの? こっちはもう何が何だか全然…」
声が掠れた。私は思わず黙り込んだ。
「ちょっと傷口が悪くなっただけだよ。何か熱は出るし、脚痛いしで、最悪だった」
「…無理に動いたりしたんじゃないの? 馬鹿みたい」
「…うーん、そうなのかなぁ」
「もう切るからね。ほんと、早く治さないと、行ける高校無くなるよ」
「はは、そうだね。病室でも一応やってるけどさ、早く出たいよ」
「ねぇ、退院いつになりそうなの? 」
「…さぁ。俺も医者に訊いてるんだけど、経過観察中としか言わないの。暇すぎて死にそうだよ」
「ふーん…。まぁ、じっとしてることね」
「そうだね」
「…」
「…」
「それじゃ。…お大事に」
「…うん。ありがとう」
「…」
「…佐倉」
「…なに? 」
「俺、お前の事好きだから」
「!……あ、そ…そう。……それで?」
「それだけ…じゃあね」
電話が切れた。夕日が、頬を照らした。
3
日に日に夜の方が長くなり平均気温が10℃台をうろつく頃、面会が許可されていた森田の病室を久しぶりに尋ねた。
それまで時々(あくまで友人として)電話で下らない話をしていたが、直接会うのは約3か月ぶりだった。教室には、もう森田のことを覚えている生徒すら居ないかもしれない。
ひんやりとした廊下を通り、まだ微かに記憶していた森田の病室に辿りついた。
何の気なしにドアを開けると、そこにはやけに華奢な知らない男の子が居た。
「あ…れ? すみません」
踵を返そうとすると、森田の声が止めた。
「待って佐倉。何で行っちゃうの? 」
ぎょっとして振り返ると、それは確かに森田だった。
あ然として立ち尽くした。ちょっと見ないうちに、完全に病人になっていた。
「…来ちゃったか。佐倉。嬉しいけど」
「嘘でしょ…森田。痩せた…よね?なんで?どうしちゃったの?」
「ちょっとね」
「何よ?! 『ちょっとね』って何なのよ! どうしてこんなになってんのよ!! 」
叫んだ拍子に、顔から滴が落ちた。
「トイレ!! 」
慌てて病室を出ると、白衣を着た聡明そうな男と鉢合わせになった。
ここを尋ねに来たとなると、おそらくこの男が全て知っている。
「こんにちは。未希也くんのお友達ですか? 」
声こそ愛想がいいが、顔は微動だにしなかった。
「森田のお医者さんですか…? 」
無表情のまま、男は頷いた。
「あの…。森田、どうしたんですか? 教えてくれませんか? クラスの皆も心配してるんです」
「骨肉腫です」
担当医はにべも無く答えた。
「こつにくしゅ? 」
そう言われても分からない。初めて耳にする単語だった。
「俗に言う骨の癌です。既にリンパ節への転移が認められます。ステージはⅣ-Bです」
「ステージ…? 」
「ステージⅣと診断されても、決して回復の見込みゼロというわけではありません。しかし自分のためにも家族のためにも、残りの人生について考えることは大切です」
『残りの人生』という単語に、思わず担当医を見上げる。一点の歪みも無い額、眉、それに頬。鉄仮面を見つめているようだった。喉の奥から胸の辺りまで、いつの間にか熱くなっていた。
「あなたみたいに森田君にとって大事な人が、彼にしてあげられることはたくさんあります。僕ら医者はどれだけ専門知識があっても、効く薬が無いと非常に無力な存在ですから。この時期受験で大変だと思いますけど、できるだけ森田君の傍に居てあげて下さい。その方が精神的にも安定しますから、ね」
何て無責任なセリフだろう。傍に居て一体どうしろというのか。今さら森田の傍に行っても、都合よく気の利いたセリフなんて出てくるわけないのに。もう森田はすっかり弱って、やつれて、、好きな子の前でカッコつけるどころか普通の状態でいることもできないのに、そんな姿を私がただ見ているなんて、そんなの殺生に過ぎる。
それとも、森田の想いを受け止めて、私は共に悲しむべきなのだろうか?どうせあと僅かな命、数カ月の間森田の恋人で居れば少しは慰めになるという、そういう取り繕い方で良いのだろうか? 人生最初で最後の大熱演で、大いに悲しんで見送ってやれば? いや、きっとダメだ。そんな事をして一体何になる?
森田の担当医はあっという間に歩き去ってしまい、隣の病室から老人の乾いた咳が聞こえてきた。秋も深いというのに、夜になってもこの部屋に虫の音など聞こえるはずもない。森田が気の毒で仕方なくて、ただ苦しくなって、あいつがここで毎日何を思っているのか考えると、頭痛がしてきた。
力なく病院を出て携帯の電源を入れた途端、森田から着信が来た。躊躇したが、さすがに無視は出来なかった。
「…佐倉? 」
「……何? 電話なんてして良いの? 」
森田は何も答えなかった。静かな、落ち着いた息遣いが微かに聞こえるだけだった。
「…―――病気の事、何か聞いた? 」
悟ったようだった。ドア一枚隔てての会話だったから、当人に聞こえていたって不思議ではない。
「…森田、もうヤバいの? 確かにちょっと痩せたけど、全然そういう風には見えないよ」
「うん…。わからない。でも体は最近すごくだるいし、咳も出るけど、副作用なのか病気のせいなのか、もうわかんない。体重とか、多分佐倉より軽いよ。あはは…」
「ちょっと、笑ってる場合なの? あんた本当にもうすぐ死ぬの? 信じられない」
「うん、そうだよ。ね、だからもし学校で嫌な事されたらそいつの名前教えてよ。死んだら呪って100倍返しにしてあげるから」
「…ばかじゃないの」
「佐倉、俺の事忘れないでね。他の男に告白されても、変な奴と付き合っちゃ駄目だよ。佐倉を大事にしてくれる人をちゃんと見つけて…。あと、結婚するなら綺麗なドレスを着てね。俺、空から見たいから。
とにかく…幸せになってね。佐倉。今からずっと、幸せでいて欲しい」
電話は、唐突に切れた。そして次の日から、森田は私に電話を寄越さなくなった。
私はその日帰ってから夜が明けるまで泣いた。
私から、あいつに電話はできなかった。
怒り。戸惑い。悲しみ。それらに理由は見いだせなかった。
それからしばらく、受験勉強という大義名分を掲げて私はひたすら机に向かった。
やがて心は鎮まり、麻痺していった。
晴れても、曇っても、珍しく雪が降っても、何だかんだと言い訳を重ね、遂にその日が来るまで私は森田に一本の電話すらしなかった。
十二月二十九日
―――厳しい寒さが募り、あと二日で今年も終わりという、煌びやかなクリスマスの余韻も消えたその日に、電話は来た。
その日は未明の小雨で濡れた道路が凍てつき、ここ数年でもいちばん寒い日だった。
私がそれを知ったのはその日の昼過ぎだ。
自宅の電話に掛かってきたクラスの連絡網だった。
火葬場がやっていないとかで、森田の遺体は特殊な措置を施したあと暫く病院の霊安室に安置される事になった。年末年始で旅行に行っているクラスメイトや、受験でただでさえナーバスになっている人もいるため葬儀には無理して来なくても良いとの言伝だった。
頭は、怖いくらいに冴えていた。冷静に受話器を置いた後、私はすぐに厚手のコートを羽織って森田が入院していた病院に向かった。コートのポケットに入れっぱなしの自転車のカギを取り出す。鍵穴に差し込もうとしてそれを取り落とし、自分の手が震えている事に気が付いた。
今さら何だっていうの? さっきまで私は何も…
自分への激しい怒りで頭が熱くなった。文字通り頭に血が上っているのだろうか。
市民病院までは自転車で四十分程の距離だったが、信号を避けて飛ばしたお蔭で、たった二十分で着いた。息切れで喉が焼き切れそうだった。例年より厳しい寒さの中、私のコートの下だけは灼熱だった。
『12月29~1月2日迄休診』と無愛想にマジックで書かれた白い紙がセロテープで自動ドアに貼り付けられているのを見つけるまで、私は一切何も考えていなかった。
涙は出ず、まだ悲しくもなかった。ただ、今は膝の皿がどうにかなりそうだ。
疲れ切って自動ドアの前で動けなくなってしまい、冷たいコンクリートの上にへたり込んだ。見上げると、空には雪雲が立ち込めていた。
頭の汗が冷えて冷たい。手に、頬に、吹きつける北風。
もう急いで会いに行っても意味がないのに、それでも私は一秒でも早く森田の顔が見たかった。
本当はまだ生きているかも知れない。私に最期の別れを告げるために、もしかして待っているかもしれない。森田の癌なんて嘘で、ほんとうはただのケガで、義足を着けた森田が笑ってくれるかもしれない。
ばかな幻想。そうであると良い。そうであって欲しいのだ。
固くなった膝をどうにか立たせ、正面の出入り口付近に付いていたインターホンを押す。応答は無かった。ふと、思い立って森田の携帯に電話を掛けた。本人が出るはずはないが、誰かしら森田の傍に居る人が出てくれるかも知れない。そして数コール後、その期待は当たった。
「はい、もしもし」
若い女性の声だった。森田のお姉さんだと、直感した。
「あ、私、森田君の同級生の佐倉といいます。すみません、急に」
思ったより乾いた声が出て、自分でも驚いた。普段通りの声音だった。
「え…? あ、お友達? ゴメンね、ちょっと待ってね」
受話器の遠くで数秒くぐもった会話がなされた後、すぐに明瞭な声に戻って話が再開された。
「もしもし? あの…未希也の事、もう連絡行ってる? 」
「あ………はい。もう、知ってます。でも、どうしても顔が見たくて…すいません」
「あぁ、そっか…。そうなの……わざわざゴメンね。大変な時期に」
「いえ、大した高校受けませんから」
「ちょっとお母さんに訊いてみるね。病院の場所分かる? 」
「あっ…あの、今病院に居ます。年末はお休みって忘れてて…」
電話口のお姉さんをびっくりさせてしまい、私は耳まで赤面した。私と森田の大体の関係を悟られたかもしれない(それが誤解かどうかは、もうこの際どっちでもいい)。お姉さんは急に涙声になってしまい、すぐに行くと言った後電話を切ってしまった。
私が乱れた前髪を直している僅かの間に、自動ドアの前に病院の守衛さんと森田のお姉さんが来てくれた。人のよさそうな中年の守衛さんが足元に屈んで、自動ドアの鍵を開けてくれた。
お姉さんは、近くで見るとちょうどそのままそっくり森田を女性にしたような童顔で、優しげな瞳の淑やかな人だった。戸口に現れた時には、すでに花柄のハンカチを顔に当てて目を真っ赤にしていた。私はそれを見て初めて、近しいひとが本当に死んだのだという事を、まずは形式的なものとして理解した。
「ごめんね、寒くなかった? 自転車で来たの? 未希也に会いに…」
鼻をすすりながら、お姉さんは歪んだ顔を可愛らしいハンカチで覆って、その場に座り込んでしまった。守衛さんが同情の顔で、そっと私をドアの中へ招き入れた。広いロビーは暖房が入っていなかったが、寒さは感じなかった。
「すみません。本当はもっと早く会いに来るべきだったんですけど…」
「そんな事ないよ。今だってもう追い込みの時期なのに…たくさん心配かけたでしょう? ありがとうね。未希也もきっと喜ぶよ」
心から労わるようなその口調に、私は思い切り頬を打たれた。
たった今気が付いたが、私はきっと死ぬほど愚かで卑怯なのだ。現に、ほら。私は今更になって、真っ先に罪滅ぼしに来たではないか。
悟られぬよう、舌を噛んだ。血が出そうになるくらい食い縛った。
お姉さんの顔を見るのが辛くて、終始黙って床を見たまま地下の霊安室まで付いて行った。
上の階の生きた患者用の施設とは違う独特の静けさが漂うその廊下に、森田のお父さんとお母さんも目と鼻を赤くして立っていた。何も、一家総出で部屋から出る事無いのに。私なんかにそんな扱いをされては、逃げ出したくなってしまう。
「こ、こんにちは。このたびは……」
来る途中で雰囲気にのまれたのか、私の口から思わず告別の常套句が出そうになったが、それはお母さんの嗚咽に遮られた。横に居た背の高いお父さんが、目頭を押さえた。
「あぁ…! みちるちゃんね? こんな寒い中、本当にありがとうね。未希也があなたの事を好きだって言ってて、私はもう…」
声を詰まらせて、悲嘆に暮れるお母さんの姿を私はただ茫然と見つめた。森田姉弟はふたりともお母さん似だと思った。
少し泣きそうになったが、私はこの場で自分が泣くことが許せず、顎を閉めて奥歯を強く擦り合わせた。やがてお母さんはしゃくりあげて、頬を拭っていたハンドタオルを鞄に仕舞った。
「どうか入って、二人だけで言葉を掛けてあげて下さい。こんな可愛い子が駆けつけてくれて、未希也照れちゃうでしょうけど」
その場でもじもじしていると、お父さんが霊安室のドアを開けてくれた。私は半ば背中を押されるようにして中に入った。
きついお線香の匂いがした。ドアが背後で静かに閉まる。
そこは寒々しく、ドラマで見るより暗い部屋だった。
横たわる森田の顔に布は掛かっていなかった。私は目を見開いた。遠くから一目見ただけで苦しみぬいた事がわかるその姿に―――全ての思考が止まった。
それはとても、お世辞にも良い最期とは言えない姿だった。まるで、いつしか教科書で見た、力尽きた栄養不良児のようだった。
疲れ果てて目を閉じた顔からは、私が密かに望んでいた有終の美など一片も感じ取れなかった。ただ、そこに在るのは苦しみと、寂しさと、それらからやっと逃げおおせたという、安息に似た絶望だった。小さいながらも平均的だった体型は、底なしの吐き気のせいで窶れに窶れ、手首など骨ばって、私よりもうんと細くなっていた。
こんなになってでも森田は昨日まで生きていたのだ。この姿を見られまいとしてひたすら沈黙し、自らの塗炭の苦しみを、私に、こんな私に悟られぬように、あの日から電話も止めたのだ。自分の名誉を守るためでなく、こんな私の心を乱さぬように。
それが今になって、はっきりわかった。
「森田」
やや躊躇したが、私は冷たい手を握った。謝るべきだろうか?
…駄目だ。
余計にやるせない。しかし他に掛ける言葉が見つからず、私は途方に暮れた。
今に至るまで森田の事などほとんど知らなかった。私の何をそんなに好きだったのかも、結局訊けずじまいだった。
ひとりで喋るのが嫌で暫く黙っていたが、森田の顔を見ているうちに訊きたいことがつらつらと出てきて、口から零れ落ちてきた。無論、もう返事などしないけれど、どうしても訊きたくなった。
「…ねぇ、森田。あの手紙、まだ持ってるの? 半年くらい前、私に渡そうとしたやつ。
―――あの時の手紙、もう捨てちゃった? 」
冷たいままの手を握り締めて、一番知りたかったことを質問した。
「森田、私のどこが好きだったの? べつに可愛くないし、ソフト部で女らしくもないし、地味だし。おまけに私、森田を見捨てたんだよ。あの日から私、あんたを忘れたくて、そのためにずっと勉強してた。もしかして、もう嫌いになった? 私、酷いでしょ? 」
外に聞こえぬように、小さな声を出すのが苦しい。廊下の気配が気になり、喉までせり上がってきた涙をもう一度呑み下した。
「私、あんたの傍に居るべきだったのかな? ねぇ、森田。どうしてあの後一度も電話しなかったの? なんで死ぬ前に私を呼んでくれなかったの? もう本当に嫌いになったの? 」
呑み切れなかった涙がじわりと目に浮かんできた。鼻も詰まってきた。
「ねぇ…何でこうなっちゃうの? あんたまだ中三なんだよ? 」
頬を何かが伝い、そこだけ温かくなって、すぐ冷たくなった。いま私の感情の決壊を防いでいる最後の鎖は、脆く、今にも千切れそうだった。顔がどんどん歪んでいくのが分かった。
「せめて……何でもっと前に、私に告白しなかったの? 私、あんたの事嫌いじゃないよ? もっと前から私と喋ってくれれば良かったのに。いきなり好きになった訳じゃないんでしょ? なんでギリギリになってあんな事したの? あの手紙書いた時にはもう全部分かってたの?
…………私にどうしろって言うのよ。今あんたをどう思ったって、もう、しょうがないのに」
森田の痩せた手がほんの少し温まってきて、僅かの間生き返ってくれたような錯覚に陥った。
しかし肋骨が触れる冷たい胸に耳を当てても、勿論心音は聞こえなかった。
まるで冷蔵庫から取り出したばかりの加工肉のように、体は芯から冷えて、それからひどく無機質だった。
この体はもう森田ではない。誰かが中身を、温かい血の通った森田を連れ去ってしまった。もうあいつが何処で何をしているのか、誰にもわからなくなってしまった。いま笑っているのか、泣いているのかさえも、もう私たちは知る事が出来ないのだ。
崩れるように、私は泣いた。廊下に居た森田の両親が、驚いて部屋に突入するほどの音量だった。泣く事だけで人間が死ねるなら、私は多分そうするつもりだった。
私の記憶はそこから断片的になり、数時間後に自分の部屋でようやく落ち着きを取り戻した。今までの人生で経験したことが無いくらいに目が痛くなっていて、涙を拭くだけで瞼の皮が剥けそうで辛かった。
霊安室を出た後、森田のお母さんに何を言われたのかも、何時に家に帰り、私がいつ泣き止んだのかも不明瞭なままだった。
年は明け、私はその後執り行われた森田の葬儀には出なかった。
森田が死んだという儀式に平気な顔をして参加したくなかったし、だからと言ってもう泣くのも嫌だった。
冬休み明けのホームルームで、ミスターフジワラが皆に森田の死について簡潔に説明した後、クラス全員で黙とうを捧げた。
直美は、私が何か言うまでそれには一切触れずに、しばらく一緒に下校してくれた。
それ以外、日常は何も変わらなかった。そのうちに机から花と花瓶が消え、やがてその机もどこかへ消えた。下駄箱から、ロッカーから、森田未希也のシールが消えた。全てごく自然に、最初からそうだったかのように残り香も無く、あいつの存在そのものが儚く消えていった。
やがて梅が散り、暦の上ではとっくに春だが相変わらず底冷えするその日に、うちの中学でも平凡でのどかな卒業式が執り行われた。
卒業生300人余り。誰もが落ち着かず、ある者は別れに、ある者は出発に、また、ある者は恋の成就に各々の感情を発露していた。直美は難関高校に軽々と合格し、私も第一志望の女子高に受かって、ふたりともこれからは当座呑気に春を過ごせそうだった。あの日は一歩づつ遠ざかり、私の笑顔は、徐々に戻ってきていた。
卒業式の二日後、暇に任せてリビングのソファに寝そべってテレビを見ていると、母が一通の手紙を持ってきた。
受け取って見るとえらく素っ気ない白い封筒に、切手、消印、うちの住所と、私の名前が綺麗な字で記されていた。女性の字だろう。差出人の名は無かった。
「お友達? すごく綺麗な字だけど、中学の子? 」
「…知らない」
それは半分嘘だった。すぐに想像がついた。
「高校からのお手紙だったら見せてよ? 何か大事なお知らせだったら困るから」
「うん」
すぐさま自分の部屋に行き、ドアに鍵を掛けた。封を開けようとしたが、ぴったり糊付けされていて剥がれず、あきらめて鋏を使って慎重に封筒を切った。小刻みに手が震えていた。
中に入っていた一枚の便箋を開くと案の定、中学生男子特有の雑な字が、それでも心のこもったように真っ直ぐ羅列されていて、私はその瞬間久しく森田と再会した。天国にもポストがあるのだろうか。目に痛い程白い便箋には、次のようにしたためられていた。
『佐倉みちる様
驚かせてごめん。こういう手紙に何と書けば良いのか分からないけど、他に言い回しが思いつかないので、単純に言います。
俺はあなたが好きです。2年のはじめ頃からずっと好きでした。
佐倉は滅多に笑わないけど、笑ったらすごく可愛いです。あと、無愛想なのに案外世話焼きな所とか、俺と喋ってるとき一生懸命目を合わせようとしてくれてる所とか、全部好きです。
俺は生まれつき脚が弱いみたいで、今度手術の為に入院するようなので、何か無性に寂しくなって、こんな手紙を書いてしまいました。 佐倉、困らせてゴメンな。
追伸
手術が終わったら多分夏休みに入ってると思うから、できたら連絡下さい。佐倉の思ういい男の条件を、参考までに聞かせて欲しいです。
本当に大好きです。
森田未希也』
手紙を閉じ、震える溜息を吐いた。今すぐあの古井戸に顔を突っ込んで、叫びたかった。井戸が溢れるくらい泣いたら、森田の想いは報われるだろうか。目を閉じ、穏やかに微笑む病室の森田を思い出す。鮮明だった。
きっと行き場のないこの想いは、私の中でどこにも漂着せず、ふわふわと永遠に彷徨い続けるのだろう。時に戒めとして、時に支えとして、私の中を転々と転がりながら。
あらだらけの拙作を最後までお読みいただき、ありがとうございます。