その指が示す場所は⑤老兵は死なず
無事に遺失物を回収した僕たちは、カウンターの上で黙ったままのコンパスを見つめていた。
店主や僕たちが何度話しかけても反応がない。
「壊れてるんじゃないかしら?」
「コンパスとしても使い物にならなそうよ」
ミランダとメリンダがつんと冷たく言い放つ。
たしかに針が震えてきちんと北を指していないし、コンパスとしては間違いなく壊れている。でも遺失物であるならば、話はできるはずだ。
「……きっと、自分で納得していたんでしょうね」
「何を?」
「持ち主に捨てられ、忘れ去られることを自ら望んでいたのでしょう」
その沈黙はその言葉を肯定しているようだった。だけどそれは、道具としてはさびしすぎる決意に感じた。
「ですが、フランツがそれを許すかは別の問題です」
ぴくりと針が震えたように見えた。店主はじっとコンパスを見つめている。やがて根負けしたように、静かな低い声がぽつりと零れた。
「……なぜ俺の持ち主の名を知っている?」
店主はそれには答えずに「あなたは鏡を見たことがありますか」と訊ねた。
「人間じゃあるまいし、鏡など見るわけがないだろう」
「そうですか」
カウンター奥の棚の引き出しを開け、小さな手鏡をとりだすと、そっとコンパスの前に差し出した。
コンパスの蓋の裏に何か文字が彫られている。それを見て彼ははっと息をのんだ。
『私の親友を君に贈る。 君の選んだ道がいつも輝いていますように』
そしてそこには三人の名前があった。親から子へ、子から孫へと代々受け継がれてきたそのコンパスは、もはやただの道具ではなかった。
「でも俺は、もう役に立たないんだ。壊れてしまって、手が言うことを聞いてくれないんだ」
「きっと彼らは、あなたを見て勇気をもらっていたことでしょう。壊れていてもいなくても、それはさほど重要じゃないんです。だって、親友の代わりは他にありませんから」
コンパスは泣いているみたいに針を震わせた。
しばらくして店の前の魔法陣が光った。
身体中を泥だらけにした若い冒険者が現れて、きょろきょろと不安そうにあたりを見回す。だがカウンターの上に置かれたコンパスを見つけると、一目散にこちらに駆け寄ってきた。
勢いよく扉を開けると息を切らしたままコンパスに手を伸ばす。
「よかった、ほんとによかった……!」
落としたことに気が付いてからずっとダンジョンの中を探し回っていたのだろう。安心して気が抜けたのか膝に手をついてはあっと大きく息を吐いた。
「フランツさんですね?」
はっとして顔を上げた冒険者——フランツの前に、店主は手のひらに載せたコンパスを差し出した。
フランツは急いで姿勢を正すと、深々と頭を下げた。
「すみません、それ、俺の大事なものなんです! 見つけていただいてありがとうございました」
「いえ、遺失物を管理して持ち主に届けるのが、遺失物センターの役目ですから」
「噂には聞いていましたが、本当にあったんですね……」
この場所はすべてのダンジョンとつながった亜空間だが、落し物をした人か、この場所を知っている人しかたどり着けない。
半信半疑だったんですが、とフランツは額の汗を拭った。
「でも、どうして落としてしまったのか。俺ちゃんとポケットに入れたんですよ、落と下なんて信じられなくて……」
「古い道具や持ち主に愛された道具は、わずかながら自分の意思で動くことができるのですよ」
「それは……自分からいなくなったってことですか?」
「さあ。でも、きっとあなたに迷惑を掛けたくなかったんでしょうね」
震える手でコンパスを受け取ったフランツは、その言葉を噛み締めるように何度も優しく鈍色のコンパスを撫でた。
「俺はこいつに何度助けられたかわかりません。どちらに進むか迷ったとき、いつもこいつを見て決めていました。こいつを見ると、自分の選んだ道は間違っていないって背中を押された気持ちになるんです。だから……」
もう絶対に落としたりしませんと力強くいい、フランツは帰っていった。去り際に微かに「ありがとう」とコンパスの声が聞こえた気がした。
「一件落着ですね」
珈琲豆を挽きながら店主がのんびりとした声を出した。
「……でも、ダンジョンの中ってあらゆる物理的法則が変化するって言ってたわよね?」
「だったらそもそもコンパスって……」
珍しく声を落とした双剣の会話が耳に届く。
フランツらにとって、コンパスははじめから自分の心の声を聴くためのものだったのだろう。だから壊れていても問題がないのだ。
北を指し示すことを矜持として生きてきたコンパスには、店主も言えなかったに違いない。
お付き合いいただいてありがとうございました。
次回は全3回です。




