第二話:三年ぶりの訪問と秋の庭
(公爵家を訪問するのは久しぶりだな)
セシリーに手紙を出してから三日後、アーサーは馬車で彼女のいるウィングトン公爵家の屋敷に向かっていた。王都からは馬車で片道二日の距離である。
普段は、多忙なアーサーの予定に合わせて、セシリーが宮廷に来てくれる。三年ぶりの公爵家訪問だった。前回は、婚約が決まった直後、季節の変わり目で体調を崩したセシリーを気遣って、宮廷での約束をこの公爵家の屋敷に変えたのが最後だ。
車窓から赤や黄色に色づいた葉が遠くに見える。ウィングトン家の領地は山に近いため、秋になれば落葉樹が美しいのだとセシリーは過去に話してくれたが、アーサーはそれをセシリーと一緒に見たことはなかった。
アーサーが玄関前に到着すると、使用人がずらりと庭から屋敷の玄関まで並んでいた。婚約者として私的な訪問をするだけだと伝えたのに、やけに仰々しい迎えに面を食らいつつ、アーサーは案内されるままに庭にあるガゼボに向かう。
色合いの深いピンクの秋バラのツルがアーチに巻きついて、甘い香りが漂っている。彼は目の前の風景に息を呑んだ。セシリーが話してくれていたそのままの景色が絵画のように広がっており、彼女の描写力には驚くばかりだ。
当のセシリーは、アーサーに気付くと慌てたように立ち上がって、階段を降りてきた。
「殿下、ようこそいらっしゃいました」
「ああ、出迎えてくれてありがとう。とても綺麗だね」
「えっ」
「君が話してくれたとおり、紅葉した木々とバラの見頃が重なって、素晴らしい」
「ええ、そうなんです。よろしければガゼボへ……向かい側のほうがよりバラが見事ですから」
アーサーは頷いて、セシリーに自身の腕を差し出そうとして、やや躊躇った。
いつも庭を歩くときは婚約者としてこうして彼女と歩くものだが、彼女がそれを拒否する可能性もあることにやっと気づいた。
(いや、ここで普段と違うことをしたら、余計気まずくなる)
セシリーが腕に手を添えずに一人で歩き出したらどうやって誤魔化そうかを考えつつ、彼女の隣に並ぶ。すると、セシリーはそっと手を添えてくれた。
(よかった〜!)
今日はトーマスもセバスチャンもいないのでこの喜びと安堵を分かち合うことはできないが、アーサーはもう今日の大仕事を終えたようなつもりでガゼボに向かった。二人が座れば温かい紅茶が用意され、いつものように和やかな雰囲気だが、静かである。
(いつも何を話していたっけ……)
風で葉が揺れる音がやけに大きく聞こえるほど、沈黙が長い。これまでセシリーと会話するときに、いちいち何を話すべきかと気を遣って考えることなどなかった。どちらかともなくお互いの近況を尋ねて、それについて質問したり、目に入るものについて話たりしていると、すぐに時間が過ぎてしまうのだ。
アーサーが落ち着かない様子で庭を見ていると、セシリーが先に口を開いた。
「あの、殿下」
「うん」
「今日は、紅葉を見にいらしてくださったのですか?」
「え? あ、いや……」
もう一度沈黙が落ちる。
セシリーの表情は不安げに曇った。
「もしや、何か、当家が粗相を……?」
「違うよ! 僕が君に会いに来ただけだ」
セシリーは心から驚いているように見えた。普段は常に穏やかに微笑んでいる口はぽかんと開いているし、彼女の目が丸くなる。
彼女はすぐに扇子で口元を隠した。
「それは、その、ありがとうございます。私も、殿下にお会いしたいと思っておりました」
その一言で、アーサーは心の中にあったもやが晴れていくような気がした。心が軽くなり、予定を無理に調整してここまで来た時間も全て報われた。
肩の荷が降りて、アーサーはセシリーとどう時間を過ごしていたかを思い出すことができた。三年前には見なかった、庭にある噴水のモチーフについて尋ねたり、出された軽食について尋ねれば、セシリーは宮廷で話すよりも少しだけ饒舌に教えてくれた。
陽が落ちてきて風が冷たくなった頃、アーサーが宮廷に戻る時間となった。
馬車に乗る直前、手袋をつけていないセシリーの手が寒々しく見えた。小説の中にこのようなシーンがあったことを思い出して、彼女の手を取ると、案の定ひんやりしている。
「あの、殿下……」
「冷たくなってしまっているね。次に春がくるまでは、しばらく室内で話すようにしよう」
(布越しじゃない手を握ったのは、最初の握手以来だな)
ダンスをするときはよく手を取るが、そのときはお互い手袋をしている。散歩のときには腕に手を添えるのだ。
握手したときも彼女の手はアーサーのものより小さかったが、知らぬ間にその差が広がっているような気がする。
ひんやりとして、白いセシリーの手を見つめていると、彼女の指先にほんの小さな切り傷のようなものができているのを見つけた。貝殻のようにつやのある桃色の爪の近くに、治りかけの複数の傷があるのだ。
(これは?)
「で、殿下、そろそろ、あの……」
セシリーが居心地悪そうに指を動かすので、アーサーは慌てて手を離した。
(まずい、長く手に触れすぎた。怒ってる……?)
アーサーがおそるおそる彼女の顔色を窺うと、セシリーの頬がうっすら赤くなっているように見える。西日のせいで分かりづらいが、おそらく間違いない。
自分が手を握ったから、彼女は恥ずかしがっているのだ。そう思うと、ただ温めたいと思って触れたことがとてもやましく感じて、アーサーは自分まで頬が熱を持ち始めたような気がした。
いつも淑女として冷静に振舞っているセシリーが、白い頬を染めて、目を泳がせ下を向いている。アーサーの前では基本的に扇子の下に隠れている、彼女の年頃の少女らしい動揺が、アーサーを落ち着かない気持ちにさせる。
心臓はドクドク激しく脈打つし、手にじわりと汗が滲んできた。
もう一度手を握ったら、何が起こるんだろう。また彼女に触れたら、どうなるんだろう。
――そんな考えがアーサーの頭に浮かぶ。
時間が止まったように錯覚していたが、冷たい風が吹いてアーサーは現実に戻ってきた。はっと顔をあげて、セシリーに帰りの挨拶をしようと思ったのに言葉が出てこない。
代わりに、セシリーが口を開いた。
「殿下……今日は、来てくださってありがとうございました」
自分を見つめるセシリーの目が、光を浴びた湖のように輝いて見える。
アーサーはその様子に見惚れ、掠れた声で「あ、うん」と返すことしかできなかった。
*
セシリーは、その日の夜、ベッドの上で自分の手を見つめては、ため息をつき、しばらくするとベッドでごろごろと転がってから起き上がってまたため息をついた。
銀の髪は三つ編みにゆるく束ねられていて、彼女が転がるとペットのようについていく。
すぐ横には、彼女が幼少期から知り合いで、現在は専属で仕えてくれているメイドのパメラ。
「お嬢様、そろそろお休みになりませんと、明日に差し支えると思いますが……」
「分かっているわ。……はぁ、あーっ、もう! どういう意味なのだと思う⁉︎」
「そのままの意味として受け取ってはいかがでしょうか」
「私に会いにいらっしゃったのですって」
「ですから、お嬢様に会いにきてくださったのですよ」
「でも、なんのために?」
「お嬢様に会うためです」
「……隠れ蓑の婚約者に破談にされたら困るから、機嫌をとりにきたの?」
セシリーの言葉に、メイドのパメラは息を呑んだ。前のめりになってセシリーの言葉を否定する。
「お嬢様、あれはただの噂ですよ! お嬢様に嫉妬した方が言っているだけです」
「……分かっているわ。殿下は不道徳なことをするような方ではないと思っているけれど……でも、不道徳ではなかったら? お母様がおっしゃるみたいに、男性にとっては愛人がいるのは当たり前で、いちいち私に言うようなことでもないけれど、アーサー様は親切だから私に分かるように示しに来てくださったのかも」
パメラは黙ってしまう。セシリーは、そんな彼女の様子を見て申し訳なさそうに眉を八の字にした。
「ごめんなさいね。本人に聞けばいいのに、私はそんなこともできない、いくじなしなのよ。だって、もしいつものような笑顔で『うん。そうだよ。僕には本命の愛しい人がいるんだ』なんて言われてみなさい。二度と立ち直れないわ」
セシリーは、ベッドの上で起き上がると、もう一度深く重たい息を吐いた。セシリーの考えは完全な被害妄想ではなくて、彼女なりに根拠がある。
「殿下は婚約してから三年間ここに来てくださらなかったのに、今日は会いにきてくれたわ。それに、これまでは猛暑でも悪天候でも同じ周期で届く手紙が急に頻繁に送られてくるようになったわ。今日なんて、手を握ったのよ! 今まで一度もそんなことなかったのに、婚約した日の握手以来、初めてだわ。女性を喜ばせる方法を誰かに教えられたのではなくて……? それ以外に、どんな理由があって態度が変わったと思う?」
セシリーは一気に喋ってから、答えられずにいる可哀想なメイドに「ここで話しても仕方ないわね。もう寝るわ。おやすみなさい」と伝えた。
昔からセシリーのことを知ってくれているパメラに甘えて、つい八つ当たりのようなことをしてしまった。
パメラが部屋を出ていくと、セシリーは盛大にため息をついた。
婚約してから、いや、婚約者候補であったときから、セシリーはアーサーの隣に並び立つに相応しい華やかさを身につけるため、努力してきたつもりだ。
生活習慣を整え、流行の衣装を揃え、メイクや髪型も日々研究をしている。アーサーに会う日には特別気合を入れて準備している。それなのにアーサーはセシリーのことをお世辞でも褒めてくれないのだ。
「とても綺麗だね……ですって。そうでしょうね。自慢の景色だもの」
初めて二人が顔を合わせた日も、緊張して倒れそうになっていたセシリーと比較して、アーサーは涼しい顔をしていた。
彼はこれまで、どんな美女に話しかけられようと全く態度を変えなかった。過去に噂になったように女性に興味がないか、彼自身の外見が美しすぎるので、それと比較すれば美女もそれ以外も同じように見えているのかと思っていた。
そんな彼が、自らメイドを指名したのだ。そのメイドは彼にとって特別な存在に違いない。
セシリーにとっても、幼い頃から一緒にいるパメラは、身分の差に関係なく信頼している存在だ。彼女にしか吐露したことのない感情もたくさんある。
ひと月に一度程度しか会わず、あとは手紙を交わすだけのアーサーよりも、メイドのパメラのほうがずっと身近な存在だ。
そしてそれは、アーサーにも同じことが言えるはず。時々顔を見て無難な話をするだけの婚約者より、身近で本音を言える女性に心を許したとしても、それで彼を責められるだろうか――
少なくとも彼は、セシリーの父と違って、書類上の妻を冷遇はしないだろうし。
(だから別に、いいじゃない……愛してもらえなくても、良い夫婦にはなれるもの)
心の中でつぶやいた言葉が強がりであると、セシリー自身も分かっている。本当は彼と心から結ばれたいと願ってやまない。
自分自身にすら認めてもらえない恋心を抱えて、セシリーの瞳に涙が滲む。
(少しでも、好かれたいと思ってしまうなんて……みっともないわ)
眠れる気がしなくて、セシリーはベッドの横にある箱を手に取った。中にはシルクの刺繍糸がつまっている。
来月開催される冬の祭に、これまでは国王夫妻のみが出席してきたが、今年はアーサーが出席すると聞いていた。
その式典で身につける腰紐をプレゼントしたいと思っていたのだ。この祭では、大切な人に刺繍を用いた装飾品を送ることが習わしになっている。
アーサー自身を象徴するような太陽をモチーフに、その光が湖に反射する様子を刺したいと思っていた。冷たい澄んだ空気の中、穏やかな光が水面を照らし宝石のように輝く様子は、セシリーが愛する風景の一つである。
秋の庭を一緒に見ることができたから、今度は、彼と並んで冬の湖の美しさを堪能できたら素晴らしい日になるだろう。朝日の差す雪景色の中、彼のブロンドの髪や瞳が映えて、神々しささえ感じさせるだろう――想像上のアーサーにうっとりした後、セシリーは現実に戻ってきた。
多忙な彼が、そう頻繁にここにくるはずがないから、きっと隣で冬の湖を見ることは叶わない。
セシリーは妄想を程々にして、刺繍に取り掛かることにした。




