第一話:噂と彼女の誤解
公爵令嬢のセシリーは、この国の第一王子、アーサーの婚約者である。
艶やかな銀髪に、神秘的な紫色の瞳を持つ令嬢で、月のように美しいと称賛される美貌を持つ。芸術に優れ、信心深く謙虚で、領民に自愛を向ける様子は女神と呼ばれるに相応しい。
対するアーサーは、輝かしい金髪に空色の瞳の美青年で、朗らかな性格もあり、この国の“太陽”と称される。
二人とも現在十七歳。十四歳のときに婚約して以来、関係性はいたって良好。
――のはずだった。
空高く、日差しの穏やかな秋の午後、 アーサーは、近衛騎士のトーマス、侍従のセバスチャンの幼馴染二人に問いかけた。
この夏まで同じ学校に通っていた旧知の中である。
「セシリーが僕の『禁断の恋』を応援しているらしいんだけど……婚約者との恋は禁断じゃないよね?」
彼は、公務として外国を訪問し、昨日一週間ぶりに帰国したばかりである。
そして本日の午前中、婚約者のセシリーを宮廷に招き、二人で庭を散歩して、軽食を楽しんだ。アーサーはおよそひと月ぶりにセシリーと一緒に過ごすことを楽しみにしており、彼女も同じ気持ちを分かち合ってくれていると思っていた。
いつもと同じくお互いの近況を共有し、食事を楽しみ、穏やかで平和な時間を過ごしたところである。
しかし、アーサーにはどこか引っかかるところがあった。
例えば、彼女がちらちらとアーサーの後ろを見てくることや、いつもより少しだけ話が広がらないところ。特に、彼女のことを聞いても、なんとなく会話が途切れてしまう感じがしたのだ。壁が築かれているような気がした。
体調が悪いのか、気分が悪いのか、なにか不快に思わせてしまったのか……探りを入れても、社交辞令でのらりくらりとかわされてしまう。
仕方ないので、帰り際に彼女の侍女を呼び止め話を聞いてみた。すると侍女は気まずそうに目を逸らし「私が言ったことはお嬢様には内密に……」という枕詞の後に、ぼそぼそと語り始めたのである。
アーサーが『禁断の恋』で悩み苦しんでいると聞き、セシリーはその恋を応援するつもりなのだ、と。
ひととおりアーサーの説明を聞くと、騎士のトーマスが困惑した様子で尋ねた。
「セシリー様はなぜ急にそんなことを?」
「分からない。僕はセシリー以外に親しい女性は家族だけだし、彼女との関係も良好だったはず……一体誰に禁断の恋をするんだ⁉︎」
「殿下、落ち着いてください。情報源はその侍女の発言のみですよね? 信頼性に欠けますので、俺が実態を調査してきます。このトーマスにお任せください!」
トーマスは自身の胸に手を当てて、力強く宣言した。
「ありがとう、トーマス。セシリーの様子がおかしかったのは確かだから、公爵家の状況も含めて周辺を洗って……」
「私はアーサー様に理由があると思いますが」
それまで黙っていたセバスチャンが口を開く。アーサーとトーマスは二人揃って勢いよくセバスチャンを見た。几帳面に整えられた暗いブラウン色の髪と、切長の緑の瞳をした神経質そうな男だ。
セバスチャンは注目を集めすぎたと思ったのか、やや気まずそうに咳払いした。
「……人の恋を応援している場合ではない、ということです」
「……!」
アーサーの青い目が丸くなる。トーマスは状況を理解できていない様子だ。トーマスは顔立ちがはっきりしているため表情の変化が見えやすく、眉を寄せると、まるで文字で「よく分からない」と顔に書いてあるようだ。
「おい、人の恋とは、いったい何のことだ?」
「お前だよ、トーマス。殿下、トーマスのためにメイドのエマをご自身につけていましたね?」
トーマスが息を呑み、真っ赤になってアーサーの顔を見る。
「殿下、な、なぜそれを……! というか、そんなことしていたんですか⁉︎ どうりで最近やけに顔を見る機会が多いと……!」
「あー、ええと、もどかしいから話す機会を増やしてあげようかと……」
「理由はともあれ、今まで全ての使用人に分け隔てなく関わってきたアーサー殿下が、急にご自身でメイドを指名したとなっては……噂になっても仕方がありません。実際ざわついてますし」
「えっ、そうなの⁉︎」
「その噂がセシリー様の耳に入ったのでしょう」
「噂になっているなんて知らなかった」
「宮廷内の噂はすぐ火消ししましたので、まさかセシリー様の耳に入っているとは……」
「それはありがとう。でも、そんな対応をしていたなら言ってほしかったんだけど」
「申し訳ありません。私も最近まで迷っておりまして」
「迷っていたとは?」
「真剣に関係を考えていらっしゃる可能性を考え、慎重に観察しておりました」
「どんな気遣い⁉︎ とんでもないことを言わないでくれ。昔馴染みの君にすらそんな不誠実な人間だと思われていたなんて信じられない! 僕が愛しているのはセシリー……」
彼は、はた、と止まった。
自分が真剣に愛しているのは婚約者のセシリーだと言おうと思ったのに、急にその言葉に中身がないような気がしてしまう。
セシリーとの結婚を決めたのは、アーサーとセシリーの両親である。アーサーは決まった婚約をそのまま受け入れて、特に何の不満も抱かなかった。
一緒に過ごす時間を心地よく感じていたし、信頼できる女性だと思っている。このまま祖父母のように、年老いて二人とも白髪になるまで一緒にいると疑ったこともなかった。
だがそれを、『彼女への特別な愛情』なのかと問われると、アーサーは言葉がでなくなってしまうのだった。
(そんなこと、僕は考えたこともない)
アーサーが黙ると、部屋は静まり返る。
セバスチャンが沈黙を破った。
「とにかく、メイドについては固定勤務を解除しましょう。これについては私が指示しておきます。誤解を受けた可能性はありますが、アーサー様に後ろめたいところはないのですから、堂々としていらっしゃればいいと思います」
セバスチャンはきっぱりと言い切った。アーサーは「そうだね」と同意したが、自信がなさそうに視線を下げた。
*
(きっと彼女も僕を信じられなかったんだろうな)
このところ、アーサーの口から漏れるため息の数が増えている。
セシリーと最後に顔を合わせてから一週間ほどたっている。二人はいつも決まった周期で手紙のやりとりをするが、アーサーはなんとなく落ち着かなくなって、その定期的なやりとりよりも早く、セシリーと会った翌日には手紙を出した。
彼女からの返答もすぐに届き、宮廷で過ごした時間に対して礼儀正しいお礼の言葉が綴られていた。
(うっ、いつもなら一言二言雑談が綴られているのに、完全に形式的な挨拶だけになっている。やっぱり疑われているんだ……!)
同じ文面を何度も読み返してすでに暗記しているが、アーサーはもう一度手紙の文面に目を通して、項垂れた。
気を取り直して、近隣諸国から届いている手紙に返事を書こうとするが、いつもよりペンに力が入らず、文字はやや小さめである。
「アーサー殿下! 失礼致します!」
三通手紙を書いた頃、扉がノックされ、近衛騎士のトーマスが入ってきた。トーマスはその手に三冊の小ぶりな本を抱えている。大柄な彼の手元にあると、まるでおもちゃのように見える。
「セシリー様のお考えに影響した可能性がある物品を押さえました! こちらの本です!」
「本?」
トーマスが、手に持っていた本をアーサーの執務室のデスクに置いた。布張りの本は、アーサーが普段目にするよりも簡素な作りをしているように見える。
印刷技術の発達により、書籍は昔よりも手に取りやすいようになっている。これは大衆にも手に取りやすい形で用意され、貸本屋にも並ぶようなものに見えた。
「ええ。タイトルをご覧くださいませ」
「……ええと、『平凡なメイドはドS王子の寵愛から逃げられない』。何だこれ⁉︎ 随分変わったタイトルだね。王子の名前も不思議な表記だし……翻訳本かな?」
「いえ、我が国で発刊された大衆小説のようです。最近こういった書籍がサロン内で出回っており、熱狂的な愛読者を獲得している様子。そしてセシリー様ご自身も輪読会に参加したことがあるとのことでした。このような書籍の流行以来、年頃の令嬢が不審な発言をするケースが複数報告されております。今回もそれに当てはまるのではないでしょうか?」
「つまり彼女がこの物語を読んでいたら、ちょうど僕が急にメイドを個人的に指名したという噂が重なり、誤解を受けたということか」
「そのように推測しております」
「それは仕方ない……」
アーサーは本を丁寧に執務デスクに戻した。そしてデスクに拳を叩きつけた。
「ってならないよ! 噂と創作物よりも信頼性の低い僕って一体……!」
「アーサー様……」
アーサーが項垂れていると、また扉をノックする音がした。顔を上げて「どうぞ」と返事をすれば、書類を抱えたセバスチャンが入っている。
「いかがされたのですか?」
「それが……」
アーサーは、トーマスが持ってきてくれた本を見せて、彼に事情を説明した。セバスチャンは中身をパラパラとめくって素早く目を通すと、いつものように落ち着いた表情で本を閉じる。
「理解しました。こちらの本と類似の書籍を全て焚書にしましょう」
「えっ、焚書?」
「著者を探し出し、処刑の上、本は出版禁止の上燃やすのがよろしいかと思います。なんと退廃的で下品な。印刷資源の無駄です」
「セバスチャンが急に過激派に。落ち着くんだ。この本は確かに非常に想像力豊かに書かれているけれど、我が国では王国法で言論の自由が保障されているよ!」
セバスチャンは深い緑色の瞳をすっと細めた。
「ここまで故意に、男の主人公をアーサー様の外見に似せているのは、悪意があるとしか思えません」
彼は挿絵のある一ページを開いた。
白黒で描かれているが、アーサーの肖像画を見本にしたと言われても不思議ではないほど髪型や顔立ちに面影がある。
ただし、この主人公はアーサーのように穏やかな様子ではなく、困り顔のメイドを壁に追い詰めて笑っている。
「それに、冒頭で描写されていた国や政治の仕組みも同じです。これでは、国民が実はアーサー様が裏では使用人に暴言を吐き、立場を利用してメイドに関係を迫るような方かもしれないと想像する可能性があります。今すぐ著者を探し出して二度と執筆できないようにしてまいります!」
「待った、待った! 僕に関する噂なんてこれまでも何度も出回っているし、過激な手段に出たらむしろ事実と思われるから!」
アーサーは、婚約者がおらずトーマスやセバスチャンとばかり過ごしていた時期は、男色家ではないかと疑われたし、実は従兄弟と仲が悪く勢力争いがあるとか、この世界の人間ではないなど、根も葉もないものから、ちょっとした行動が起因するものまで様々だ。
立場上注目を受けることに慣れている。悪意よりは好奇心が起因になっていることが多いだけの噂話をいちいち潰していたらキリがない。
「問題ありません。この本の話を持ち出さずとも、処罰の理由はいくらでも作れますので」
「それは権力者がやっちゃいけないやつ! 中身を精査してから僕が対応を決めていいかな⁉︎」
セバスチャンは不満そうだったが、「承知しました」とだけ呟いて本を戻した。
「こういった本をセシリーが好むなら、一度読んでみるよ。そして信頼してもらえるように頑張るしかない。後ろめたいことはないのだから、堂々としていればいいんだろう?」
先日セバスチャンに言われたことをそのまま言葉にしてみれば、セバスチャンはそれ以上何も言わなかった。
*
それからしばらく、アーサーは公務や、通常の勉強の合間にトーマスが妹経由で入手したという書籍を読んだ。
彼が貸してくれたものは全て男女の恋愛を扱ったものであり、二人が出会い、紆余曲折を経て結ばれるまでが綴られている。
セシリーが輪読会に参加した際に取り上げられていた本は全てアーサーと同じ金髪碧眼の王子が主人公である。彼らの性格は、最初に見た本の王子ほど過激ではないが、少なくともアーサーよりはずいぶん積極的な様子であった。
この読書によって、アーサーには悩みが増えた。
「僕はもしかして、つまらない男なのか?」
「はい?」
慈善活動のためにチャリティー音楽祭に参加し、議会に参加し、来週からの地方都市への訪問計画を読み込んで準備し終えると、アーサーは小説を一冊読んだ。そして、新しい資料を持ってきてくれたセバスチャンを呼び止めた。
「全くそんなことはありません。なぜ急にそんな心配を?」
「小説をいくつか読んだんだけど……」
「やはり有害ですね。燃やしましょう」
「大丈夫! そんなに有害じゃない! タイトルほど中身は過激じゃないし型があるからおとぎ話みたいなものだよ!」
「しかし、アーサー殿下の自己認識を歪めるような内容なのですよね?」
「歪ませたというよりは、これまで分かっていたけど気にしていなかったことが改めて気になったというか……」
アーサーは言葉を選ぶために一度視線を下げた。窓から差し込む午後の光を受けて、金のまつ毛が目元に影を作る。
「僕の人生は、障害らしい障害がなかったなと思って」
「と、言いますと?」
「たとえば、この本に出てくる王子は、実の両親から蔑まれて人を信頼できず、この本は天涯孤独、この本は幼い頃に全身大火傷を負っていて顔半分の皮膚が引き攣っていて、人付き合いを避けているんだ」
セバスチャンは「はぁ」と気のない返事をした。
「でも僕は両親が健在で家族仲が良く、親しい友人がいて昔から周りに助けてもらって生きている」
「孤独な人間が必ずしも魅力的になるとは限らないと思いますが」
「それはそうだね。ただ、僕には彼らのように、辛い状況を乗り越えた経験がないんだよ。生まれてから用意されたスケジュールに沿って勉強や公務をこなしていたら、この歳になってしまった。用意されたものを疑ったことも、それ以外を選び取りたいと思ったこともないんだ」
アーサーは顔を上げていたが、セバスチャンとは別のどこか遠くを見ている。
「……セシリーのことも、父上に引き合わされて、婚約者としてそのまま受け入れた。彼女は僕の中身のなさに気づいているから、僕の気持ちも信じられないんじゃないかな」
「やっぱり燃やしますか」
「なんで⁉︎」
「……本のことは後日検討として、アーサー様は、品行方正、眉目秀麗、博識多才、文武両道で決断力があり欠点らしい欠点もなく……」
「熟語辞典のように慰めてくれてありがとう」
「私から見た事実を述べたのみです。ただ、同じように貴方と過ごしても、違った印象を抱く方もいるでしょう。セシリー様がどう感じるかは、セシリー様にしか分かりません」
アーサーは青い瞳をぱちぱちと瞬きした。そして気まずそうに目を逸らし、困ったように笑う。
「そうだね。……欠点らしい欠点がないなんて、嘘だな。僕は彼女に直接聞くことを避けている。いくじなしだ」
一度大きく息を吐くと、執務デスクの上にあるペンを手に取った。
「公爵家に遣いを出してほしい。セシリーに会いにいこうと思う」




