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亡霊の音楽教師


【 サロンの再開】

それから三日後。テオは、約束通り、再びクラシックサロンに姿を現した。


彼は、約束の時間のきっかり五分遅れで現れ、ユキに見向きもせず、窓際の椅子にふんぞり返って座った。


その態度は、彼の内面に渦巻く苛立ちと屈辱を隠すためだった。


ユキは、そんな彼の態度を気に留めることなく、笑顔で迎えた。


「テオ。時間通りね。ありがとう。」


「時間通りではない。五分遅れた。」


テオは、不機嫌に答えた。  

 

「それに、お前のような女にお礼を言われる筋合いはない。これは、証明のための実験だ。私が勝手に始めた、くだらない才能の検死作業だ。」 


ユキは、テオが前回の衝動的な激情から、いつもの皮肉屋の(よろい)を再び着込んだことを理解した。


彼女は彼の正面に座り、古いアコースティックギターを、彼の前に優しく置いた。 


「いいえ。これはレッスンよ、テオ。あなたが誰であるかを、音符という言葉で読み解く、静かな授業。」


ユキは、あくまで教師の立場で毅然きぜんと言った。「さあ。前回弾いた『Julia』をもう一度弾いて。」


テオは、ギターを手に取るのをためらった。


彼が一番恐れているのは、前回のコントロール不能な陶酔が、再び自分を支配することだった。


「…教えるのはお前の役目だろう。どこからどう始めるか、指示を出せ。」


「いいわ。じゃあ、あなたに最初の宿題を出す。」


ユキは、真剣な眼差しでテオを見つめた。


「テオ、あなたはコード(和音)の存在を知らないはずだわ。」 


テオは無言でユキを見返した。 


「あなたは、その指で『F』を弾きなさい。」


テオの左指が、再び迷いなくネックの上を滑り、第一フレットにバレー(セーハ)をかけ、

Fコードの形を完成させた。


その動作は、数千回、あるいは数万回も繰り返された、体に染み付いた動作だった。 


ザッ...。


テオが弦を弾いたが、音は濁り、不協和音を

撒き散らした。人差し指のバレーが完璧ではなかったのだ。 


「フン。」


テオは、嘲笑ちょうしょうを漏らした。


「これが天才の音か。やはり、まぐれだった。」 




【 魂と肉体のズレ】


「いいえ。」


ユキは、穏やかに首を横に振った。


「それはまぐれではない。それは、長い空白が作った、肉体のズレよ。」


テオの顔から笑みが消えた。


ユキは続けた。


「Fコードのバレーは、多くのギタリストが最初に苦労する箇所よ。そして、ジョン・レノンもまた、若かりし頃は、このコードにしばしば苛立ちを覚えていたという逸話があるわ。」


ユキは、テオの指をそっと取り、バレーしている人差し指を微調整した。


「あなたは、完璧にFコードを知っている。あなたの魂は形を覚えている。でも、あなたの今の筋肉は慣れていない。まるで、長い空白があったかのようにね。でも大丈夫。すぐに体が魂に追いつくわ。」


テオは、再び挑戦的に弦を弾いた。今度は、澄んだFコードの音が響いた。


ユキは、その音を聞き、満足そうに頷いた。


「さあ、テオ。今日は、私があなたのために

解釈し直した曲を教えるわ。」


ユキは、静かに自分のギターを取り出し、弾き始めた。


その曲は、シンプルな三つのコードだけで構成された、とても静かで、メロディが繰り返される、短いインストゥルメンタルだった。


「これは、『SMILE』よ。」ユキは言った。「ある偉大なアーティストが作った曲だけれど、今は私の感情が込められている。」


「くだらない。」


テオは吐き捨てた。


「笑え、だと?そんな気にはなれないね。」


「そう。だからあなたに弾いてほしいの。」


ユキは、テオの顔を見つめた。


「あなたが今感じている怒りや混乱を、この静かな曲に込めてみて。もし、あなたが本当にジョンなら、あなたが最も嫌うはずのシンプルでポジティブなアートの中にこそ、あなたの真実の感情が隠れているわ。」


テオは、その曲の繰り返されるメロディが、ユキが最初に彼に見せた「星の紙」と同じように、心をざわつかせるのを感じた。


「いいだろう。」


テオは、ギターを構え直した。


「教えてみろ。亡霊の音楽教師ミュージック・ティーチャー。」


ユキは、テオの荒々しい挑戦を、優しく包み込むように微笑んだ。




【 制御不能の創造性】

テオのギターレッスンは、教える者と教わる者の立場が完全に逆転した、奇妙な時間となった。


ユキはテオに、三つのシンプルなコード(C, G, F)で構成された『SMILE』の楽譜とリズムを教えた。

しかし、ユキの指導が必要なのは、運指やコードチェンジではなく、テオの「肉体」と「魂の記憶」の不協和音を修正するためだけだった。


「テオ、そこは四拍子全てを弾くのではなく、三拍目と四拍目で少し間を取るの。そうすることで、静かな余韻が生まれる。」


ユキが指導する傍ら、テオの指は猛スピードで肉体の空白を埋めていった。


数回の試行錯誤の後、彼の指はすぐにユキの

求めた繊細なリズムを正確に捉え始めた。

テオの集中力は凄まじく、彼の指から生み出される音は、わずか一時間の練習で、ユキの演奏を凌駕し始めた。


そして、その現象は起きた。


テオは『SMILE』のシンプルなメロディを繰り返し演奏していたが、ある瞬間、彼の左指が無意識に、ユキが教えていない別のコードを掴んだ。


透明な響きを持つ、甘く憂鬱な和音か鳴り響いた。


そのコードは、甘く、憂鬱で、そして決定的に新しい響きを持っていた。それは、ユキが教えた『SMILE』の平和的なトーンとは全く異なり、激しい孤独と、未来への不信感を象徴するかのようだった。 


テオ自身は、何が起きたのか理解していなかった。彼はただ、自分の指が勝手に動いたという事実に、激しく混乱した。


「今のは何だ?」


テオは苛立って演奏を止めた。


「私の指が、また…勝手に動いた。」


ユキは、両手を胸の前で組み、興奮と確信に満ちた瞳でテオを見つめた。


「テオ。今のコードは、この曲にはないわ。それは、あなたの魂が今、新しく生み出した音よ。」


「馬鹿げている!」


テオはギターを叩きつけたくなったが、その音があまりにも美しかったため、躊躇した。


「デタラメだ。何の規則性もない。」


「規則性はあるわ。」


ユキは、テオの心を読むように続けた。


「そのコードは、あなたの『新しい曲』の断片よ。テオ、あなたは今、過去の曲を再現しているのではない。あなたは、新しい音楽を生み始めているの。」


ユキはテオのそばに寄り、優しく彼の指をその新しいコードに固定させた。


「そのコードの響きは何を訴えかけている?孤独?反抗? それとも、失われたものへの渇望?」


テオは、ユキの問いかけを拒絶しようとしたが、そのコードの響きが、彼の正体の知れない欠落感を正確に言語化していることに気づいた。


「...失われたもの、だと。」


テオは、自分の指から生まれる音を睨みつけた。


「そうかもしれない。だが、これは検死作業だ。創造ではない。」


「いいえ、テオ。」ユキは、力強く、しかし母性的に言った。


「これは、あなたの魂による、過去の才能への抵抗よ。あなたは、ジョン・レノンの曲をなぞるだけでは満足できない。あなたは、ジョンを超えようとしている。あなたが憎んでいるその才能が、あなたを新しい天才へと進化させ始めているのよ。」


テオは、ユキの情熱的なまなざしと、自分の指が自然に生み出した真実の音との間で、完全に身動きが取れなくなった。


彼は、もはやテオ・チャールズでもジョン・レノンでもない、新しい存在として、音の海に引き込まれ始めていた。


「...では、私は何をすればいい。」


テオは、初めて拒絶ではない、探求の言葉を口にした。


ユキは、微笑んだ。


「その新しいコードを、私に教えて。その音符は、あなたと私が出会った意味を、未来へと導く最初の言葉になるわ。」




【 公の舞台への招待】

ユキは、テオが「新しい天才」として生まれ変わり始めていることを確信し、すぐに次の段階へと進むことを決めた。


「そして、もう一つ。」


ユキは、テオが新しく掴んだコードをメモした楽譜を閉じながら言った。


「あなたの才能は、もうこのサロンだけに閉じ込めておくべきではないわ。」


テオは、警戒の目つきでユキを見上げた。


「どういう意味だ?」


「私がプロデュース(企画)する、美術館の展覧会よ。あなたの魂が、世界に語りかけるべき時が来たの。」


ユキは、その提案がテオに再び激しい拒絶を引き起こすことを知っていたが、迷いはなかった。


「テオ。あなたは、私が仕掛けたアート作品の、最も重要なパーツになるのよ。」


テオは、「アート作品」という言葉に、怒りではなく、逃れられない運命を感じて、深く息を吐いた。


「...勝手にしろ。だが、それは検死だ。創作ではない。」


ユキは、テオの諦めにも似た同意を勝利と受け止め、微笑んだ。


彼の魂が、運命の舞台へと足を踏み入れた瞬間だった。









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