【第9話】 旅立ちの朝と、白薔薇の記憶
出発の朝。空は、しんとした薄曇りだった。
王都を離れ、隣国ミルセリウスへ向かう外交使節団に、私は“特別随行者”として加わることになった。
ヴァルフォード公爵令嬢としての立場ではなく、ただ、私自身の名前で。
「エリセ」
背中から呼びかける母の声に、私は振り返る。
母——セシリア・ヴァルフォードは、今もその美貌を失っていない。銀のように淡い金髪、透き通る声、そして人を包み込むような静けさ。
けれど、今の彼女はその奥に、どこか“遠い場所”を抱えている。
「少しだけ、話してもいい?」
部屋の奥。窓際の椅子に並んで腰かける。
母がこうして自分から話を切り出すのは、ほとんどなかった。
「あなたが“白薔薇”のことを調べたと……リオン様から聞いたわ」
「……うん。王宮記録庫で、肖像画も見たの。名前は消されてたけど、あれは間違いなく、あなた」
母は静かに頷いた。
その目に、うっすらと笑みが浮かぶ。
「白薔薇。そう呼ばれたのは、ほんの短い間だったわ。十六の春、王太子殿下に見初められ、晩餐会に招かれて——」
「当時の王太子って、今の陛下……?」
「ええ。でも、私は正式な貴族令嬢ではなかった。父は爵位を持っていたけれど、家系は遠縁で、王家とは釣り合わなかった」
セシリアは静かに、記憶をたぐるように話し続けた。
「私は恋をしたの。若く、まっすぐな王子に。でもそれは、政治にとって邪魔なものだった」
数秒の沈黙。
「ある日、突然“すべて”がなくなったの。招待も、接触も、書簡も。……そして記録も」
「……」
「あなたを授かった時も、私はずっと不安だった。私の過去が、あなたの未来を縛るのではないかと」
母の手が、私の手をそっと包んだ。
「でも、あなたは私を超えてくれた。自分で立ち、自分で進もうとしている。だから……これだけは伝えたくて」
「なに?」
「愛は、決して“なかったこと”にはならないわ。たとえ記録に残らなくても、心には残るの」
その言葉を胸に、私は出発の馬車に乗った。
リオンが、静かに付き従っている。
彼もまた、“過去を消された者”だ。没落貴族として、名誉も家も失ったけれど、誇りは手放していない。
「エリセ様、何か……お疲れですか?」
「ううん、少し母のことを考えていたの」
「セシリア夫人……“白薔薇”と呼ばれた女性。美しくて、誇り高かったと聞きます」
「そうだった。……そして、少しだけ、悲しかった人」
私は馬車の窓から空を見上げる。
母が恋をして、奪われて、それでも私を産んでくれた。
その記憶が、私の背中をそっと押してくれている。
外交使節団の行列が、王都の門を抜けていく。
その光景を、別の場所から見つめている人がいた。
クラリス・モンテローザ侯爵令嬢。
その横には、何も語らぬまま佇むマリア・ロゼリア子爵令嬢の姿。
「行きましたわね、白薔薇の娘。さて、あなたはどう思われます?」
クラリスの問いに、マリアは少し目を伏せて答える。
「ただ……強いな、って思っただけ。私には……あんな風には、きっとなれない」
クラリスは意味ありげに微笑んだ。
「だからこそ、あなたの役目があるのですわ。彼女とは違う形で、殿下に近づいて」
その声は、やわらかく、甘い毒を含んでいた。