第7話:神州の孤立、産土の加護
西暦1920年、諸外国はソ連の内戦を横目に、ヤマト国経由で高天原の存在を知る。
だが、宗教的価値観の衝突が露わになり、後の「三度に渡るヤマトと諸外国連合の戦い」に影を落とす。
そんな中、高天原から正式な御使が降臨(着任)した。
御使の女性――見た目は20代前半、実年齢は数百歳――は、帝、西園寺、サーナの密会で決した演出に従い、天浮舟を従えて現れた。
記者会見では超常の力を披露。取材に来ていた新聞各社の社長らを会見場に転移させ、当初の嘲笑を驚愕に変えた。
御使の彼女は、サーナの言葉を胸に刻んでいだ。
「貴女の立ち振舞いが、ヤマトと高天原の未来を決める。」
彼女は丹念にヤマト各地を巡り、一年ほどが経過した時には、高天原の存在はヤマト国民に浸透した。
一方、高天原領総督府が四鬼王の旧領に設置され、外務省、内務省、宮内省、及び旧台湾・朝鮮総督府の役人たち、及び陸海軍の若手が配された。
海軍から派遣されていた若き日の山本五十六らは高天原を「敵に回せばヤマトは滅ぶ」と手記に記したが、ヤマト本国に留まっている軍人との認識の溝は深まった。
特に陸軍で顕著で、後のクーデターの際に派遣経験者を「売国奴」と糾弾している。
ヤマトと高天原の絆は深まったが、諸外国は「得体の知れない異界と通じるヤマトは危険」と警戒。
欧州の「黄禍論」がヤマト国を標的にしている事が、欧州各国に駐在する大使の電報により露呈。ヤマト国内では高天原への対応を巡り、保守派と革新派が再び対立した。
帝は仲裁に努めたが、陸軍中心の「反高天原グループ」は帝を親高天原派とみなした。
そして1925年7月、遂に不満が爆発。時の皇太子を奉じた陸軍主導のクーデターが勃発した。
親高天原派の官僚、政治家、軍人が次々と殺害され、帝に向けて凶刃が迫った。
この時、高天原に戻っていたサーナは異変を察し急遽戻ったが、帝が致命傷を負う瞬間を目撃。
激怒した彼女は、クーデター派の兵らを精神干渉術で強制的に発狂死させ、生き残りの脳内から主犯の情報を直接引きずり出した。
その情報を元に逮捕・拘束が続き、計画の首謀者たちは大逆罪に問われ、続々と刑場の露となって消えた。
一方、帝は生死の境を彷徨った。
西園寺、東郷、先代・当代の四鬼王が枕元に集う。
典医は「今のままでは、陛下の命は長くない」と告げ、皆が暗い表情を浮かべた。だが、何かを決したサーナは静かに語る。
「案ずるには及ばぬ、帝を生かす方法はある。」
程度の差はあれ、周囲が驚く中、彼女は少しだけ笑みを浮かべてこう述べた。
「本来辿るはずの命運をねじ曲げる禁忌の御業じゃ。面倒だがな。」
サーナは話を続けた。
「この御業の後、我はこの世界に暫く干渉できぬ。ゆえに皆、約束せよ。帝を支え、ヤマトと高天原が末永く信頼で結ばれること。そして――」
四鬼王に視線を向け、「約定通り、ヤマトの盾となり刃となる『護国の鬼』となれ。」
当代の四鬼王は先代を一瞥し、答えた。
「鬼の王としての誇りかけて誓う。約定は守る。」
先代四鬼王は「禁忌の御業」に戦慄した。人間の運命を歪める術は、高天原の統治層の誰一人として使える者はない。
サーナが「長命族」として今の統治層が産まれる前から存在し、結界・阿頼耶識の内側で自分たちを圧倒した事実を思い出し、彼女の正体を"源初三柱神"の一柱と推測した。
サーナは未だに意識が戻らぬ帝の枕元で囁いた。
「天孫の末裔よ。汝はヤマトと高天原を繋ぐ紐帯。我が裔でもある汝は、ここで死んではならぬ。我が『産土の力』を対価に、汝の死の運命を変える!」
瞬間、眩い光が迸り、周りの者らの視界が閉ざされた。
そして光が収まると、サーナはその場から消えており、帝の傷は癒えていた。
「朕は大丈夫だ。皆に迷惑をかけた。」
意識を取り戻した帝の言葉に、西園寺と東郷は咽び泣いた。
その一方で消えたサーナについて問われ、帝は微笑んだ。
「あの"御方"は今も朕と共にある。ただ、今暫くは会えぬ。それだけだ。」
翌日、帝の無事とクーデターの失敗が政府談話で発表された。
末端の兵は「上官の指示に従っただけ」であるとして罪は問われず、原隊復帰を許された。
その報に接し、兵の降伏が相次いだ。
新旧四鬼王はサーナの正体を議論した。
「高天原創世の別天津神か、三千世界の源初三柱神の一柱か。」
その結論に当代は戦慄し、先代は「敵わなかった理由が分かった」と納得した。だが、なぜそんな存在が長命族に扮して現世にいたのか?
帝だけがその理由を知っていた。
「あの御方は退屈だったのだ。為すべき事を為し尽くし、そして現世に興味を持たれた、それだけのこと。」
この一件以降、帝は積極的に国政に臨んだ。
大命により西園寺は三度目の総理に就き、1930年代には元老として反高天原派を監視。
先代四鬼王や兎人族が陰で協力し、それらの動きを封じた。
また西園寺は帝の密命で東郷と協議し、海軍省と陸軍省を国軍省(のち国防省に改称)に統合。陸軍は反対したが、クーデターの実動部隊の多くが属していた事による引け目で屈した。
海軍主導の国軍省は若者の人気を集め、陸軍は1960年代後半に国軍海兵隊として吸収された。
クーデターの後処理と並行して、帝は皇太子の廃太子を決断。
1926年正月、詔書で当面は皇太子を置かぬと宣言。廃立された皇子はいにしえの"親王任国"にちなんで「上総宮」の称号を与えられ、趣味に没頭した。
中華民国では袁世凱の死後、張作霖が暗躍。
大清帝国"最後の皇帝"を擁し、大韓帝国皇帝に帝位禅譲を強要。
結果、大韓帝国は崩壊し、張は国号を「大満大韓帝国」として建国。平壌を帝都に定め、その版図は半島から大陸東北部(満州)に及ぶが、同時に混沌が広がった。
この、一連の張の裏切り行為に激怒した中華民国政府は北伐を計画したが、先手を打った張の山東半島侵攻と国内での共産主義ゲリラの台頭で、「20世紀版三国志」と呼べる混乱に突入した。
そんな中でもヤマト国は高天原領から得られる富で国力を増し、国民の豊かさは欧米諸国の平均と比較して遥かに上回った。
だが、それにより世界規模での経済バランスが崩れ、以前から席巻していた「黄禍論」がヤマト憎しを煽った。
この事を受け、大英帝国は和英同盟を解消。
欧州大戦の後に設立された国際連盟はヤマト国が不利になる内容の軍縮条約や、外交経済的な嫌がらせを強いたが、ヤマトは不参加・無視を貫いた。
四鬼王の助言もあり、ヤマト国政府は「神州は独立独歩。高天原と共に外圧には屈せぬ」と宣言。
1941年末、国際連盟は対ヤマト制裁を発動。
大使館閉鎖、交易禁止、人的交流などの停止を以て、揺さぶりを掛けてきた。
それにより、国内で対外協調派と強硬派が対立したが、帝の勅命と四鬼王の提案で反体制(対外協調)派は国籍剥奪と国外追放で関係者を一掃。
連盟は追放された人々をアメリカ、カナダ、オーストラリアなどに受け入れさせ、同時に亡命政府の樹立を支援し、「ヤマトを高天原の支配から解放する」と決議。
ここに双方の衝突は不可避となり、戦いの火蓋が切られる時を待つ事となった。
ー その8へつづく ー