-1-39 ようこそここへ
―――
「――だけど雲は流れるものだろう」
「うむ。雲は風によって流れ、形を変える。留まるだけのそれをいずこへと運んでくれるのだ」
「なら想いも、そうなるんだろうな」
「儂らの想いは儂らの中にしかない。伝わらぬそれを人に伝えるのもまた、風よ」
想いは、風が伝えてくれる、か。
「詩的じゃないか」
「現実的と言え。儂はこの教えが気に入っておるのだ」
「そんな事を言っているとまたお前の母さんに睨まれるぞ」
「元より異端扱いされておる、今更よ」
そう。こいつはそんなおかしな奴。
だから、二人通じる意思を持ち合うのは、当然の事だったんだと思う。
・ あと八日
眠りに入って、暗い夜の刻を越えて。
私は朝早くに目が覚めた。外はまだ、やや暗さが残っている。恐らくだけど、まだ動物達も眠りの中にある頃だろう。
どうしてこんな刻に? と自分で思ってしまうのも当然の事。私の思う限り、こんな朝早くに起きるなんて事はまあなかった。朝にはとことん弱いというのが私だというのに。友達との約束があるから? だとしても気が急いてやいないかね。
とにかく、起きたからには動かないと。こんな早くに母さんが起きているか解らないけれども、朝餉を食わねば力になるまい。
衣を変えて、台所まで行く。そこにはいつもの紅白、巫女装束の母さんの後ろ姿が、何かしら朝餉の準備をしているようだった。
「おはよう、母さん」
そう声を掛けると、「はい」と一言言ってこちらを向いて、そのまま何やら私を凝視して動きを止めていた。
「今日こそは天変地異の前触れでしょうか」
いやいや、自分でもそう思うから否定は出来ないな。
山のふもと。森の出口。そこから町のある方角を見やりながら、私は友人達を待っていた。
日は既に山の上を越えていた。この夏の真ん中の時期、朝の日とはいえ日光を直に浴びるというのは少し堪える。約束をしていた時間より幾分か早く来ていた訳で、未だ二人の姿は見えて来ない。
「……暇だなあ」
朝餉の序でとして母さんに作って貰ったおにぎりを食いながら、傍にある木に背を預けてずっと待っている訳だけど。
あの二人、どちらともまだ来る気配がない。結構待っているのになあ、日が少し上に昇るのが解るくらいには。
……時間指定をもっときっちりとしておくべきだったかも。いやそもそもあの二人も、多分初めて歩く道だ。どれ程の時間が掛かるのか、知らないとしても詮無いか。
――その時、ぽんぽんと肩を叩かれる感じが。
「えっ」
振り返る。そこには、
「おはようだのエンよ」
巫女装束を着た、トオナが木の傍に立っていた。
「おはよう。ってなんでお前ここに居るんだ」
巫女装束、という事は、母さんに教えを乞うている最中じゃないかと思うんだけど。
それがどうしてこんな所に? 巫女の修練に役立つようなものなんて、多分ここには一つもないぞ。
「いやなに、シエンからお主が暇そうにしておると聞いた故、少し暇潰しに付き合うてやろうかと思うてな」
そこまでせずとも。多分様子見の意味も兼ねていると思われるけど。私の町での友人が、どんな者なのかとな。
「暇を潰すも何も」
「暇なのであろ」
むう、その部分にはまったく間違いはないな。
「解った。じゃあ少し付き合って貰おうか」
「うむ、良いぞ」
にっこりと、トオナは笑って応えて、木の根元に座り込んだ。
でもまあ、暇潰しに付き合うといっても、余っているおにぎり(二つ目)をトオナに渡して、一緒に食いながら他愛のない話をするくらいしかない訳で。
「のう。エンは本当に――」
トオナが、少し小さい声で私に語って来た。
「んあ?」
「いや、法術師となる道を進んで良いのかとな」
「何を今更。二年の時間を使ったんだぞ。ここでならなくてどうする」
折角試験を受けられる所にまで来たというのに。これでなれなけりゃあ本当今までの時間の意義について問題があると言わざるを得ないぞ。
「むう、それはそうであるが」
「不満でもあるか? 何をそんなに気にする」
そう訊くと、トオナは少し考え込むそぶりを見せた。
「……エンは、シエンの行く道に囚われ過ぎではないかと思うてな」
……それは、言葉に詰まる物言いだった。
「いつか言ったが、シエンはエンの二年先を進んでおるのだ。どうにも埋まらぬ、時間の差というものがあるであろ」
「……解っている」
「もしや、意固地になってはおらぬか?」
「それはないな」
二年の差は大きい。それは身を以て解っている事だ。勿論、今のままではエンには絶対に届かない事も。
そう。今のままだと只追い駆けているだけだ。同じ道を辿って、同じ事を学んで。尻を追い駆けて満足した気になっているに過ぎない。
そうして本来すべき事を疎かにしている。神社の息子として、神職を継ぐという事を。
……解っている。我侭を言っている事くらいは。だけど――。
「いろんな事を学んで、損になる事はないだろう?」
「それは――」
「多分、エンの方も同じだ。いろんな世界を廻って、いろんなものを学ぼうとしている。私達の知らない事までもな。だから巫女という、一に収まる事を良しとしなかった。視野が広過ぎたんだよエンは」
「だが、それではエンも同じではないか。エンも一に収まる事を良しとしておらぬ、そうであろ?」
……そうだ。いつまでもエンを追い駆けている、まさにそれが理由だと。我侭を通している、その原因はエンであり、それに張り合っている私だと。
「あの神社はこの地における楔ぞ。それを知らぬ訳ではあるまい。今はハトリやメイスケがおるからいいのであろうが、いずれはエンが――」
と、次の言葉を言い掛けた時に、道の向こうから二つの人影が。背の高いのと、それより少し背の低いものが。
「来たようだの」
「ああ」
「では、儂は一旦戻ろうかの。またなエンよ」
そう言って、トオナは立ち上がり、そそくさと森の方へと引っ込んでいった。二人に会わないまま。
人見知りは変わらずか。トオナだって、少しは変わる努力をすればいいだろうに。神社だってある意味客商売なんだ。いつか参拝客が来た時、そいつに対応が出来ないと色々と困るぞ。
まあとにかく、今はそれは置いておこう。元々私は出迎えの為にここに居る訳だったんだから。
「おーい!」
大きく手を振る。するとその片方、背の高い方が大きく手を振って応えた。少しして、姿がはっきりと見えるように。
待ち人来たり。シズホとイスクが私の方に駆けて来た。
「よう! おはようだなユエン」
イスクがにこやか爽やかに挨拶する。
「……おはよう、ユエン」
シズホの方も、掠れるような小さい声で挨拶の言葉を口にした。
「おはようだ二人共。早速行こうかね」
日はまだ低めの位置にある。ゆっくりと行ってもバチは当たるまいと思うくらいには。
「お前ん家って、神社だったんだよな」
私を先頭に、涼しげな森の中を歩いていって、その最中に唐突にイスクが訊いて来る。
「無論そうだけど、何か?」
「いやなんつーか、また辺ぴな所に……なあ?」
イスクが隣を歩くシズホに向かって同意を得るように。
「神社の在り方はその場それぞれ。偏見は良くない」
いつもの無表情のままで、シズホが嗜めてくれた。ありがたい事だな。ちゃんと味方が居てくれるのは。
「そういうもんかね……いっつも客が来ないとか言ってたけどな」
いつもながら一言余計だぞイスクの奴。いや確かに前にそんな事を言った覚えはあるけど。どうして憶えているんだこの馬鹿。
「納得だぜこんな辺ぴな所なら」
「喧しいわ」
突っ込みを入れつつ、殆ど道に見えないような道を歩き連れていく。やがて、森の中に人工物である小さめの赤い鳥居と石段の前に着いた。
「この上が私の家だ」
言いながら、鳥居の端っこをくぐって、石段を三人で上って行く。やがて、頂上の二つ目の鳥居の所にまで行って、そこからやっと神社の姿が見えて来た。
「……結界」
そう、シズホが一言呟いた。
「なんかあるのか? ここ」
こくりと。イスクの言葉に頷くシズホ。
どうやらシズホには解るらしい。それもそうか。シズホの眼は“そういうもの”を察知する事に長けている。流石にここの結界を破る程の事はないとは思うけど。逆にイスクの方は全く気付いていないらしい。それはイスクの察知能力があれなのか、或いはここの結界が優秀過ぎているのか。
――それはそれとして。
石段を登り切って、先頭に居た私は後ろの二人に振り返って、
「ようこそだ二人共、アサカエ神社へ」
神社の息子として、久々の参拝客である二人を迎えた。