-1-23 宵の重さ
「母さんと初めて町に行った時にね、はぐれて迷子になった事があるんだ」
唐突に、エンが話を変えた。
「んあ、初耳だぞ」
「言いたくなかったからさ。まあ言い付けを守らずにはしゃいでた私が悪いんだけど。見るもの全部新鮮だったから、詮無いと言えば詮無い事だろうけどさ。小さかった頃だし。
ふっと、母さんが居ない事に気付いて、探してみてもどこにも母さんは居なくて、呼んでも来てくれなくて。もしかすると置いて行かれたんじゃないかって、物凄く怖くて、寂しくて。……周りの人は知らない人ばかりで、そんなのに居場所を訊いても答えてくれる筈がないって、なんとなく解ってた。町に居る人が怖かったのかも知れない。
そうしてどうしようもなくなって、泣き出しちゃった時にやっと母さんが来てくれた。私を抱いて撫でてくれて。ごめんね、もう大丈夫だから……って言ってくれて……それでも泣いてた。母さんと一緒に。その時には怖くも寂しくもなかった筈なのに。
多分ね。その時に初めて、一人になる事が怖い事なんだって、覚えたんだよ」
……一人が怖い。
あれだけ強くて、怖いもの知らずで、いつも笑っていると思っていたエンが、
怖いものだと弱音を吐いた。
「今もね、少し怖い。周りが全部知らないものになっちゃって、私の居場所が全部取られたみたいで。これって、どうすればいいんだろうね。ずっと強がっていればいいのか、それともあの時みたいに、泣いてぐずればいいのかな……」
そう言うエンは、遠く灯りの方に顔を向けていて、その表情を窺う事は出来なかった。確かめる事も憚られた。本当に泣いている……とは思えなかったけど、後ろ姿がとても寂しく、そこだけでも泣いているように思えた。
その恐怖は如何程か。長年住み慣れた故郷を離れ、気が付けば思い出が殆ど侵略されていた。一気に、知らないものが増えていた。その怖さは如何程か。
私には解らなかった。ずっとここに居て、ゆっくりと変化するさまを見ていた私には。
「泣くんじゃない。姉さんだろう」
エンの肩が、少し揺れた。気がした。
「寂しいのなら呼んでくれればいい。知らない事なら私が教える。解らないなら出来る限り分けてやる。“エン”なんだから、二人で一つに出来るだろう?」
「……生意気だね」
まったくだ。エンの真意もよく解ってもいないのに、解ったふりをしている私はなんなんだろう。
エンはそう言いながら、でもその顔は、ずっと遠くを見たままだった。
町の灯り。それを見るエンは、今どんな顔なんだろう。笑えているのか、まだ泣いたままなのか。
「そういうの双子とかなら出来そうだけどね。生憎私は二歳違いのお姉さん」
「だけどもエンだ」
「っはは、それはそうか。名前がおんなじなら出来なくもないか」
「私も試験を通す。そうすればエンと同じ所に行ける。一緒に居る事だって出来る、だろう?」
そうすれば、寂しい思いをしなくて済む。一人で考え込む必要もない。人数が二人に増える、それだけだけど。
「簡単に行くかねえ。希望的観測。正直きついよあの試験」
「私は本気なんだ、通れないとは思わないぞ」
エンの言葉に、僅かながら剥きになってしまう。
「……うん、そうだね。思う事は大事だよ。信じていれば願いは叶うって」
「聖水効果? そんなものに例えられる程実力がないとは思っていないぞ」
「あ、一応知っているんだなそういうのも」
まあな。前に先生が気紛れに語っていたのを思い出しただけだ。あの人うんちく語りが好きだからな。
「話だけは。本当かどうかは知らないけど」
「あながち嘘でもないんだよなそれ。信じる事が事実になるって事。聖水、或いは偽薬。只の水でも信じている人にとっては奇跡を起こす聖水になり得る。不治の病が幾つか治ったって話は結構有名だよ。そこじゃ神様の奇跡なんて謳っているけどさ。――たまに本物もあったりするんだけど。
その逆もあるよ。只の水でも信じさせれば毒になる。思い込みが事実を生み出すんだよ。真実でも虚偽でもない。只の事実。周りにとっては嘘と解っているのに当人だけが真実を認めている。
おかしい話だよね。正反対の定義が同じ事象に発生しているんだから。白と黒が同じ場所にある。光と闇が同じ場所にある。神と魔が同じ場所にある。或いは、“無い”か“有る”か。そんな矛盾が現実にあるの。真実と虚偽はそんな関係と同じなんだよ。すぐ近くにあっても決して同じ場所に居る事はない。ならどちらかが間違っている事になる。でないとやっぱり矛盾になっちゃうから。争いの元にもなるかな。
……人は思っているより単純なんだよ。それとも人に宿る神秘なのかも。エンはいい方に考えてるからね。実力も充分にあるみたいだから、見込みはあるけど――」
なぜか、一瞬の間があった。そして振り返って、私の方を見て、
「成果を出さないと、通してくれないよ」
私の目をじっと見据えて――。
……あれ?
先程まで笑っていたよな。
……いや違う。今も笑顔のままでいる。
だというのにその笑顔が、何か違うように思えて、まるで――。
「さあて」
その声で、思考が断たれた。
「あんまりトオナを一人にしておけないな」
一つ、伸びをしながらエンが言う。
――ああ、そうだ。一人にしてはいけないと追い駆けて来たのに、これだと立ち位置が逆になっただけだ。三人の内二人が離れてしまえば、残った一人はどちらに行こうと、一方は一人になってしまう。
忘れてはいけない。トオナはエン程に強くはないんだ。
……だけど。
そっと、確かめてみる。
確かにそうだ、間違いの筈だ。
「あーあ、折角二人っきりって場面を作ってあげたのに。エンに男らしさは似合わないんだねえ」
「なんの事だよ」
……確かに自分の事を“私”と言っている時点で、男らしさを中和しているんじゃないか、とは思ったりするけど。
「まあいいや。ほら、早く帰るよ。幾らここでも女の子を一人にしちゃあ駄目だから。姫御前を守るなら持ち場は離れないように」
「……離したのは誰だよ」
「私か。まあ、そういう意味じゃないんだよ」
いよっと、エンは座るお尻を後ろにずらし、そうして立ち上がる。
「じゃあ、どういう意味なんだ」
問い掛けに、エンはお尻をぱんぱんとはたきながら、にいっといやらしい笑みを私に向けて、
「エンには色恋沙汰はまだ似合わないなって事だ」
そう言って振り返り、エンは歩いていく。私も一緒に、天幕への道を帰っていった。
それはそうだ。同じに決まっている。きっと状況が変わったからおかしな想像を抱いてしまっただけだ。
あの時のエンの笑顔が。
まるで――貼り付けられた能面のように思えた。なんて。
・
人に、変わろうとする意思があるのなら、
その意思を置かせる地にも、同じ意思があるのだろう。
……だとしたら、私は爪弾きにされたのかも知れない。変わろうとする意思に。この世界の意思に。
私には、そんな意思はないのだから。
変わろうとする意思なんてないのだから。何も変わって欲しくないんだから。
あの時眼に映った異物。
あの異様な光景が、今も頭から離れない。
あるべきものを喰らい呑み込む、怪物のようなもの。無貌の顔。
……嫌悪感を抱くには、充分過ぎるものだった。
だから、私は――、
近くにあった“それ”を――ほんの少し、喰らってみた。
“それ”は殆ど気付かなかったようだけど、
呪いを与えるには、充分だったみたいだ。
そんな事をしてしまってから、今になって改めて思い返すと。
ああ、私はやっぱり、××が好きだったんだと――、
いや、違う。
××だけは、偽りなく、
意味などなくとも、好きだった。
私の大好きな、私の半身――。
それが事実である限り、
私も、私を好きでいられた。
事実だ。それだけは確かに。なんの混じり気もなく。