-1-22 向こうの光
宵闇の中でちらちらと。それらは煌めき続ける。
今私の目の前にあるもの――本来であれば見上げる位置にあるそれは、動く事もなく、だというのに何かの意思を持つかのように、揺らぎ、瞬きを続けている。
宵を彩る、星という瞬くもの――月が従える、数多の下僕達。
暗い空。そこは今や、頭上という定義を持たない。距離を定義する事も無意味だ。かつて、それに最も近い、空を越えた世界――虚空の域にまで届いた法術師が居たというけど、それを以てしてもあの瞬きの正体を特定するには至っていない。小さく数多の光源というだけ。
……昔の人は、こんな疎らにさえ、姿形を見出し、名を与えた。それを星座という。だけどどう見ても、それは古人が語るような人や動物や物には見えない。
一体どんな芸術的感性があったのか。落書きみたいな絵に芸術性を見出すより理解に苦しむ。なにせ形が見えないのだから。
……今に限って、眠気は訪れなかった。然るべき物思いに耽っているのもそのせいだ。
いつもなら、そうしている間に眠りに落ちているんだけど、今日はいつまで経ってもそれが訪れず、思いだけが膨らみ続ける。……昨日と同じだった。
だからだろう。周囲にそれまでとは異なる音が現れた時、なんでもない程の小さなそれを、自分でも信じられない程の敏感さで認識していた。
音の発生は天幕から。正確にはその外辺から。中であれば気にはしなかっただろう。そもそもそれなら幾らなんでも聞こえない。
――女同士の語り合いだとか言う理由で、私の寝床は天幕から離された。私が居る場所は、その天幕が木々に隠れない程度に見える位置にある、木の根元。灯りの消えた天幕はその中の様子を窺う事が出来ない。
だけども意識を凝らすと、そこには動く気配があった。ここに居るのは私を除いてエンとトオナ……まさか迷い人と言う事はないだろうけど。この山に入れる人間は数少ないんだから。動物というのも論外だ。音と動きは間違いなく人間のそれだった。
二人のどちらか。用を足しにでも行くのか……それならば私も気にしない。
……、気にはしないけど、やけに帰りが遅い。場所が見付からない訳でもないだろうに。
まさかとは思うけど。何か良からぬ事でもあったか……エンなら心配するだけ無駄だろうけど、それがトオナだったなら――。
「はあ……」
……溜息が出る。こんな事なら顔や声か、誰かくらいは確認しておくべきだった。一度湧き上がった不安は、大元が解消されない限り消えはしない。
身を起こす。いずれにしてもこのままだと気になって眠れない。……外套があった事に一瞬どうしようかと思案するけど、羽織って行く事にした。冷えはしないけど、置いていくのも憚られた。折角の貰い物だ。着心地を確かめるのもいいだろう。
・
それはすぐに見付けられた。ちょっとした崖になっている、あまり好き好んで近寄りたいとは思わない場所。
闇の中に、崖の淵に座って、髪を風に流すものがあった。肩程までのその長さは、エンにしか当て嵌まらない。トオナの髪なら背の所まで届いている。
その姿はずっと遠く。切り離された場所。眼前に広がる森と大地、その向こうにちらりと覗く、淡い白の塊。
声を掛け――ようとしたけど、ためらわれた。何やらそれは、不浄の域を壊すように思えて。
だけど、それは気付いた。動かないように気を使っていたそれが、急に現実に戻される感覚。留まった時に吐いた息、
「……まだ、起きてたんだ」
――それを聞き取ったらしい。振り返る前に言葉を発し、遅れて笑みを現す顔を向ける。
「帰りが遅かったからな」
「そりゃあごめん。それで探してくれたんだ。優しいねえ」
「からかうな。エンと解っていればそのまま寝ていた」
「んあっ」
一瞬、不機嫌そうな顔と声。
「ううん……逆にトオナなら探すんだ、そっか」
と思うと、何やら真剣に考え込み、やがて薄ら笑みを浮かべて――、
「進展だなあ……」
逆にからかう材料を与えてしまった。
「っ……煩い。それよりエンは何をしていた」
強制的に話題を変える。エンの言った事は、あながち間違いとも言えない。エンの想像する程に深い事とは思えないけど。
「んあ? 私は心配しないんじゃなかったか?」
「状況によるな。こんな所で呆けているようだから、違う意味で心配になった」
変な空想でもしているか、変な場所でも見ているか、変な気でも起こそうとしていたのか。
「そうか」
納得してくれたらしく、エンはまた視線を戻す。
「つまりはここから、私が落ちると」
そしてはっきりと言った。
……答えづらい。
「それは寝惚けてか。それとも、自分でそう決めているか」
「エン――」
言葉を遮る。エンのそれが、あまりいい言葉とは思えなかった故にだ。
「ごめん。意地悪したね」
少し、声が和らいだ。それを聞いて、私は安心――したんだと。それ以上は思わないでおく。……複雑な心持ちだった。
「さっき気が付いたんだけどね、ここから光が見えるんだよ」
「んあ? どこに?」
「ほら、あの遠い所」
エンが指差す。そこの光というのは。そう、ここから遠くに見える、淡い染みのような光の塊――。
「ああ、あれか。町の所の灯りだな。ここまで届くようになったんだよ」
お国の政策で、治安維持の為に夜でもそこそこ明るいようにと、西方街灯をたくさん町中に立てたんだ。あまりにもたくさんなので、夜でもこの高台から見える程に明るく、そして町中では灯りが邪魔をして殆ど星明かりが見えない程なんだとか。
風情が削がれる――とも思うんだけど、お陰で治安は大分良くなったらしい。何かを得れば何かを失う、とは言うけど、風情と治安、どちらを重視させるかという事は難しい事だ。
「そう、あれは町の灯りだったんだ……」
言って、再び顔をそちらに向ける。星明かりなどではない。人工的に作られた、光の塊。
ここは妖怪山の端っこだ。山の中腹、それなりに高い所。町の方まで、何か遮るものはあまりない。だからずっと遠い町の灯りも、ぼんやりと見えるんだけど。
「ここくらいなら……私の知らない場所はないって思ってたんだけどな」
語り出すエン。だけどその表情は暗くて見えない。
「いつの間にかこの山にも知らない場所が出来ちゃった。いやいや、二年って長いな。なんでもかんでも変わり過ぎなんだよ」
膝を抱えるような格好をして、無理をするような、明るい口調。
「なんだかな、私だけ置いてけぼりにされた気分になってる。周りはみんな変わっちゃった。饅頭屋の婆ちゃんもすっかり老け込んじゃったし、昔は結構怒られたりしてたんだけどね。あんな遠くの灯りだって、ここまで届くなんて思ってもいなかった」
それは、二年という、遠い月日の結果。
「みんなが先に進んじゃって……置いて行かれた感じがする」
エンはもう、この土地から取り残されていた。二年と言う遠い月日、その向こう側に。
「ねえ……ここって、どこだろうね」
――的外れな疑問。
だけど、今のエンには、
「私、知らないからさ。こんな景色。昔は知ってた風景でもさ、いつの間にか少しずつ変わっていって――いつか全然知らない風景になる。……そんな気がする」
――的を射た愚問だ。
「今はまだ、知ってる場所もあるけどさ」
ちょっと、遅かったな。
そう言ってまた、ずっと遠くを見やる。
町はまだ明るい。それは人の活気がそこで生きている証だった。夜も遅い。なのに、あそこにはまだ誰かが起きていて、動いているんだろう。
人の場を照らす夜の光。それは人間が、夜の闇を恐れなくなったという証明でもある。ここは妖怪山。夜の側に生きる者達の住まう所。夜の闇を恐れる事のなくなった人間は、妖怪さえも――。