1 1-3 狂気病
ある日のある時。昼の時刻。
たまたま、本当に運悪くそれに出会ったのは、人気のない草道での事だった。
普通に町への道を歩いていただけなのだが、どうにもまともでない雰囲気の生き物らしきものが道の真ん中で蠢いていたのだ。
「……冗談」
身を屈め、草木に隠れて、気配を静めてそれの様子を窺う。
しゃがみ込み、蠢く人型。薄汚れたような、土気色となった肌。ぼろぼろに汚れた服を着ている。服はぼろぼろなのに、それを気にする様子は全くない。
傍らには、何か動物らしきものの死骸。全身毛で覆われているが、それには頭がなかった。狐狸や山犬の類だろうか。そいつは、ばりばりと音を立てて、その何かを食っているようだった。
狂気病。
それは“蟲憑き”とも呼ばれる。遥かな昔に“空の厄災”と共に世に現れ、生ある者全ての害敵となった存在――そう語られているモノ。
それは変異から現れる。動物。植物。或いは、人間。
たちの悪い事に、今そこで動いているそれは、よりにもよって一番厄介な――誰かさん。
それを元に戻すすべなどはない。一度それに変異してしまえば、最早二度と本来の知性を取り戻す事はない。今の今まで、治療法は散々研究されて、しかし現在も見付からないままなのだから。その例外――そんな幸運は世界でもほんの僅かしか確認されていない。いわゆる特別な奴ら。それらには、怪物とは違ってしっかりとした意思がある。その上で通常の定義からは色々と外れている。理性は戻っているから、人間を襲う事もない。滅多には。西方の国にある教会からは、それらは“悪魔”とも呼ばれ、断罪の対象となっているらしい。
奴らがなぜ変異するのか――その重要事項は“厄災”が落ちたあと、千年以上を経た現在も解明されていない。その治療法と同じくして。“厄災”の毒気に当てられた、というのが現在の通説となっているが、それも仮説の域を超えていない。
なぜならば、現在において“空の厄災”というものが現存する痕跡が見付からないからだ。かつてそういうものが存在した、という逸話なら幾多も残っている。昔話から歴史的遺物まで。世界中に。
だがそれはあくまで過去のもの。過去において猛威を振るったという“厄災”が、現在に脅威として現れた――そんな話は、今世の一大宗教である教会でさえ記録されていない。
今となっては伝説の類。だが脅威は依然として目の前にある。実際にここにある。ばりばりと、今もその小動物らしきものを食っている。
……さて、どうしたものか。何かは解らんが、食っているのならば、下手に気配を出さない限りは気付かれないとは思うが……。
見付けた以上は対処しないといけない。動物を食って、目の前でのたのたとうろつき始めた人型は、こちらに気付いてはいないものの、目に付く生物全てを襲い、いずれ人里に現れ、人間も襲うだろう。
そして増える。あれは伝染するのだ。
接触――触れただけで、あの狂った病気は感染する。つまりはまともな意思のない化物が増えてしまう。
本来であれば、狂気病に対する事が出来る力を持つに至る者達――寺院やら教会やらにでも報告し、対処して貰うべきだ。しかしこんな森の中、あれが悠長にこの場で待っていてくれるとは思えない。都合良く法術師などがこの場に現れてくれる気配も勿論ない。
……放っておく訳にもいかないか。
幸いと言うかなんと言うか、対するだけの得物と力はある。
……腰に手をやる。そこに添えられた得物――小さな鞘を確かめた。
対象まで、おおよそ三丈程。充分だ、一呼吸分あればいい。
右手を柄に添え、左手の親指で鍔を僅かに押し上げる。ほんの少しだけ身を現す、片刃の銀色。
なまくらだ。確かにこれは、何かを斬るとか突き刺すとかは出来そうにない。いや出来ない。刃の部分が、僅かに丸みを帯びているので、普通の短刀のようには扱えない。
だが、だからといって、これが得物にならないという訳でもない。
すらりと現れる、銀色の肢体。
ふっ、と木陰から飛び出す。
――一歩。
まだ反応はしていない。しかし、その距離はまだ遠い。
――二歩。
気付かれた。生気のない、野蛮に満ちた顔がこちらを向く。
――三歩。
相手が腕を振り上げる。土気色に染まった腕、その先には黒く鋭くなった爪がある。
とはいえ爪自体は凶器とはならない。いや正確に言えば、爪以外にも、あの体全てが凶器であると言えるのだ。少しでも触れられたら、そこでお仕舞い。奴らの仲間入りを果たしてしまう。
故に近付いていくなど愚の骨頂。離れた所から術や弓矢などの得物で撃ち倒すのが定石、なのだが。
迫る腕を、刃で弾く。それが出来るくらいには、この得物は頑丈だった。
そのまま、なまくら刃を強引に突き立てる。男の喉元に向けて。
すると、不思議な事に、その刃を突き立てた喉元がぱっと消えてしまう。
普通に触ってもなんともない小刀なのに、こういう“良くないもの”に対しては、とても強い力となる。これが、私がこのなまくら刀を手放さない理由の一つだ。
――喉元が殆ど消えてしまったその男。普通ならばこれで終わりだ。喉元がなくなって生きていられる生物なんて居ない。息が出来ない、血も通わない、骨や神経も消えている場所だ。まともに動く事など出来やしまい。
だけどそいつは、のけぞりながらもまだ動いた。最後のくそ力か、只の勢いか。
腕を、がしっと。
掴まれた。
「ぐっ――」
うめき声が出る。
ぎしぎしと、強い力が加わる。腕が軋む。
そして、何かが腕を這い上がって来る感じがした。
感染――。
狂気病となった者の、最大の脅威。他の者に触れた時、その症状を感染させるという最悪の能力。
“やはり、こいつらは残しておく訳にはいかない”。
握られた左腕。それは握るという力を超えて喰い込んで来る。
だがそれでもいい。それでいい。
侵入する異物。腕を穢し、血を滴らせる。そうまでして襲って来る理由は、それが本能になってしまったからか。
それは消さないといけない。世にあってはいけないものだ。
その衝動と共に、それを、
“じりじり”
と、雑音交じりに揺るがせた。
――瞬間、圧迫が消える。
私の左腕を圧迫していた相手の手が、肘の辺りまで跡形なく霧散した。そして消えた腕の面から、血がどばどば吹き出す。
それを見届けて、残っていたその頭を、刃で貫く。
すると、その頭も大きな穴開きが出来て。
遂にそれは倒れて、完全に動かなくなり、やがて灰のように肉が崩れていった。
……剣呑。思ったより手間を取られた。元は結構なやり手だったのだろうか。元の身体能力が大きければ、狂気病と化した際には幾らにもその動きが増幅されるらしい。
それはいい。結果的に、もう終わった事だ。
だが、
蟲に触れられてもなお、全く変化のないこの左腕。
普通ではない。普通狂気病に触れられれば、その時点で感染する危険がある、という話だ。
だが、私はそうはならない。揺らぎ――私は自分の特異性をそう呼んでいる。
それは物の形を、揺るがせる力。
物とは結合している。人であれなんであれ、非常に細かな何かが強固に集まり形になったもの。それが物だ。
さて。そうした“物”が、その強固に集まる力をなくされるとどうなるだろう。
そうすると、物は離れる。その形を維持出来なくなる。
その切っ掛けが、“揺らぎ”。物の形を崩す、振動のようなもの。
そんな力が私にはある。それを先生が教えてくれた。
左腕に意識を集中させるようにして、法術の要領で揺らぎの印象を組み込み、あとは触れるだけ。
それでその物は揺らぐ。振動するようにして、物の形から剥がれていく。そうして触れた部分は崩れて消える。
狂気病に触れられた部分についても同じ――と思われる。揺らぎによって触れられた部分を揺るがしてしまえばいいのだ。そうして感染部位を外に追い出す。これで完了。
なぜにこんな事が出来るか、その原因は解らないが、
「教えてはやるが、その力、むやみやたらに使うなよ」
先生は、滅多には仏頂面を崩さない。その難しい顔が、その時には更に険しさを増していたように見えた。
確かにとんでもない力ではある。これが例えば暗殺稼業なんぞに使えれば、触れさえすれば事は終わるのだから。一撃必殺、というか一触即殺とでも言うべきか。
勿論、私は暗殺稼業なんて考えていない。例外があるとするならば――先程のように、ためらうべきでない相手が現れた時。触れられても感染しないように。そして一撃で片を付けられるように。その為だけに、私はこれを使っている。
お陰でまあ、今の今まで生きて来られている訳だが。
――本当、どうしてこんな事が出来るんだろうね私は。
解らない。これではまるで魔法ではないか。法術ではない、魔術でもない、それは現す術のない力。
その魔法の結果はここにある。生きる力を失った、狂気病の残骸。
いずれそいつも消えていく。あと腐れなくこの世から消えていく事だろう。
それを見守るのもまた、優しさと言うか、慈悲だろうか。
……優しさ、か。そういえば。
「憶えていろ。優しいだけでは、人は容易く傷付く」
先生が、私に最初に教えてくれた事。
その後、先生は色々な事を教えてくれた。主に一人で生きていくすべなどを。
私が、今こうして旅暮らしを出来ている、そのお陰でもある訳だ。
幾つもの事を、先生は教えてくれたのだけれども。
その中の幾つかとして、私が憶えている以前に、私の物だと教えられた物が、二つあった。
一つは、なまくらな小刀。
一つは、白い髪留めの紐。
私は一人で生きる。だから最低限、刃物の一つは持っていろと言われた。
私の髪は長い。だから片側だけだが纏める物が要るのだと言われた。
この二つは、今まで肌身離した事はない。