-1-13 虚御(うつみ)の型
「うーん……」
何やら、エンがこちらを見ながら考え込んでいる。
「最近少し弛んで来てるからね……やっぱり私もちょっと付き合っていい? 一丁揉んで貰うわ」
やっぱり、結局やるって事かい。
「ええ、シエンと手合わせするのも久しぶりですか。僕で相手が務まるかは解りませんが、二年の成果、見させて貰いますよ」
カイが言うように、エンは強い。
二年前から、私やカイは言うに及ばず。師範である父さんとも、表向きには互角の腕を持っていた。父さんなどは、どうしてうちの家系は女ばっかり強いんだよ、と愚痴を零していたけど、私もそれを同感の思いを以て聞いていた。
「って私は……?」
「あと回し。毎日鍛錬してるんだろ? 少しくらいはエンに譲ってあげなさい」
この前は自分で連れて来ておいて、放り放しとはどういう事か、と思いはしたけど。
「はあ、解ったよ。折角だから特別に譲っておく」
一つの興味に湧かれた為に、それを表さずにそう答えて、道場の端に寄る。そこには幾つかの短い木刀が。
「いいねえ、特別にしてくれるならもう少し待ってても良かったかも」
あれから二年。その空白にどれ程の差が付いたのか、或いは埋まったのか。それを間近で見る事が出来るのなら、私にとってはいい機会だ。左手でひょいと木刀を振り上げ、軽々と感触を確かめるエンからは、まだそれを窺い知る事は出来ない。
「うん。悪くない。あの時と同じやつだな」
その感触を懐かしむように手のひらで転がし。ふっとそれを止めてカイに向かう。
カイの方は既に試合場の真ん中で構えに入っていた、木刀を持つ右手を腹の前に、左手を柄の下に添えて。それを確認した上で、エンは木刀を握る。
「じゃあ。お願いするよ、カイ」
道場の真ん中にまで行ったエンが木刀を握る左腕を胸の前に構え、そのまま木刀を突き出す姿勢を取る。
その瞬間に――その場の雰囲気ががらりと変わった。
優れた刀士がその内に宿すという、気迫の現れ。正面に居ないというのに、私はそれに気押されてしまう。
……なんて事。二年前にも同じように感じていた筈のその空気。いや、空白があったが故に。寧ろそれに対する耐性を失っていたか。
「行くよ」
一言。
その一言で、相対するカイの表情も、微妙に厳しいものに変わった。
カイはいつも微笑みを絶やさない。いつかの昔になぜかと聞けば、そういう性分だからと返された。
だけども、カイは刀を持つと微妙に性格が変わる。知らない他人が見るには気付かない程度だけど、物心付いた頃から一緒に居て修練相手をしている私達にとっては、その時に現れる冷たいものを、はっきりと感じ取る事が出来た。
……私に至っては、幼心に恐れさえ抱いた事もある。
しかし今エンと対しているカイには、その冷たいものよりももっと違うものがそこに現れていた。本人にも隠し切れない、冷たさよりも勝るその感情。それよりもっと原始的な――言うなれば、“恐れ”に近いものをその表情に表していた。
エンの表情は笑みの形から変わっていないのに。
交える前から、二人には既に差が現れている。
そして、言葉が発せられた一瞬あと。エンの足が、前に滑り出た。
決して速い動きではない。余裕さえ見て取れる滑らかな動き。だというのに、その動きは強烈な重圧を見る者に与えていた。
実際、カイはまるで体を押されたように、前に出す足を僅かに後ろに引かせた。それは意識的な動きではないだろう。まさしく無意識的な防御反応。
そして、エンの構える小刀の型。胸の前で腕を真っすぐ、木刀を突き出すその型は、ここが本来伝えている技の中にはないものだ。エンが勝手に作り出し、だというのに、この場に居る者全てが一度も完全には破った事のない型。
“虚御の型”。
自らの刀を真正面に突き出し、その刀先の内側に入った相手の得物を、角度に応じて打ち流す、自身の優位と共に相手に致命的な隙を与える技。
不思議な事に、その構えのどこに打ち込もうと、エンは刀先の動きで軽く往なしてしまうんだ。決してエンにまで届く事はない。届く前に、その刃は既に流されている。それによって無防備となった相手を打ち倒すのは、エンにとっては赤子を下すが如き簡単な事。
それに加え、エンの方は確実に距離を狭めている。間合いに入ってしまえば、虚御の型は守備から攻撃へと形が変わり、その実力を以て相手を潰す。
待っていても結果は同じ。どちらにしても、先に見えるのは自分のどこかに刀先が突き付けられている結果しかない。
攻める手立てはないだろう。技を知っている者ならばどうしても守りに入る事になる。エンから間合いに入って来るなら、まだこちらから打ち込むよりは勝機が高い。
但しそれはエン以上の実力があればの話だ。只でさえ道場内でも最高位の実力を持っているエンを、実力で打ち負かせなければ結果は同じ。
その上、向こうからこちらの間合いに入っても、虚御の型がなくなった訳じゃない。うかつに早まった行動を取れば、結局目の前で無防備を晒す事になる。
破る手段は、皆無。少なくとも私には手の打ちようがなかった。いや、手段はあるにはあるか。至極単純な事だ。
――エンより早く動き、潰せばいい。
言葉にすれば簡単だ。誰にだって言える。老若男女、経験者未経験者を問わず。だけど同じ言葉でも、今のエンの前で言うとなれば――。
……断言する、そんな事が出来る奴はそうそう居ない。
出来るのなら、それこそ刀を持って公式な試合に臨むべきだ。言葉が終わるその間に、エンの攻撃をかわせる速さがあるのなら。恐らくそいつは皇国に名を知られる剣豪であるに違いない。
――迫る。
カイの間合いに、エンの刃先がゆっくりと迫る。
一歩一歩が、敗北への宣告に思える。距離が詰まる度に、勝ち目などあり得ないと教え込まれるよう――。
じり、と、カイの足が後ろに下がる。見えない壁によって押し退けられるように。
だけど、決して只押されている訳ではなかった。寧ろ少し下がる事は、カイにとって攻め口へ踏み込む時の、予備動作。
走る。それは縮められた間を埋めるには充分な速さで。
エンの間合いの僅かな外。カイの得物が一閃に払う。それは瞬速。
エンにも抜かりはない。自身に向かって払われる一撃。それが間合いに入る瞬間に打ち払う。
カイは、それ以上は踏み込まない。位置は変えず、打ち払われたままの動きを利用して、一回転。逆方向から再び小刀を払う。
狙いは、エンの持つ小刀。
相手に届かないなら、まず届くものを無力化すればいい。それは定石であり、常套手段。あの型を見た者なら、まず考え付く手段ではある。
エンが、にやりと笑みを浮かべた。
カイがそれを見た時には、もう遅い。勝敗は決定されていた。
互いが交わった瞬間、ばしんと、大きな音と共に小刀が弾かれた。からんからんと音がした時には、エンは小刀を突き付けていた。得物のなくなった、カイの胸元に。
「来るって解ってたら、対処するのは当然だろ?」
私の見えたもの――それが正しいかどうかは解らないけど――それでも言えるのなら、エンの一回目の打ち払いは、そこから続ける攻撃を意識したのか、僅かに大振りだった。故にカイの二撃目の迎撃には遠い。届いた所で一撃目のような強い対処は難しいだろう。
だけど、エンは戻し切った。自身の持つ手、柄の部分を引き寄せ、真横に寝かせての打ち払い。そこからエンは弾き切った。
「……やられましたね」
わざとだ。
エンはわざと一部分に隙を生み出し、そこに斬撃を誘導させた。
“解っていれば”対処は容易い。
相手の実力と、自分の限界。その二つを見切っていたならば。
カイはそれらを読み切れていなかった。解っていても、急に出て来た隙を見付けてしまったら、思わずそこに打ち込んでしまう。誘導される。誰だってそうする。それが勝ちに行く為の最適解なんだから。
だけどそれが罠だった。私もまた、見切れなかった。
私が、対処は無理だと判断した隙。エンはあっさりと覆した。