-1-12 “私”と“私”
「あー……酷い目に遭った」
“新作”のお茶をしっかりと飲み干したあと、しばらくは自力で動く事もままならなかったエンを、肩を貸してその自室にまで連れて行って、介抱をする事になった。エンがまともに話が出来るまで回復したのは、部屋に着いてから少ししてからの事だ。
「しばらく飲まない間に耐性が弱くなっていたんだな」
しかし、回復するまでの時間を考えると、その早さは流石アサカエの者と言った所か。部屋に戻って一分程度で意識がはっきりして来たものな。
「うかつだったわー。時間空いてたから勘が鈍ったのかなあ」
「ご愁傷様で」
「いいねー、あんたはそんなに変わってなさそうでさ」
少し嫌味っぽく、エンが言う。
「それも失礼な言い方だな。私だって二年前から色々変わっている筈だぞ」
自分じゃ自覚なんてないんだけどな。どこの何が変わったか、自分基準だけだと解らないものだ。
「まあ、少しばかりは男らしくなった気がしないでも、とは思うけどさ」
そんな言い方だとあまり褒めているようには聞こえないんだけど。
「でもさ、気になっていたけどね、エンも未だに“私”って言うの変わってないだろ」
「んあ?」
それの何がおかしいか、と思った。自分の事を指す言い方なんて、別になんでもいいだろうに。
「エンくらいの年頃の男の子ならね、大抵なら“俺”か、育ちがいいなら“僕”って言うんだよ。結構世間を見て回ったけど、私って言っているのは結構人生見切った歳の奴だよ?」
「そんな事を言われてもな……物心が付いた時から“私”なんだから」
今更変わりようも何もあったものじゃないだろう。勿論その影響は、エンにあると思うんだけど。最も近しい姉と弟の関係、エンが私と言っているんだから私もそう呼ぶに至った訳で。
「それに、それを言うならトオナの方が余程だろう。あいつは“儂”だぞ。完全にお婆の影響だ」
「ああまあ、トオナはお婆っ子だったからねえ」
……そこで納得されると、それはそれで納得いかないんだけど。
トオナのお婆は昔気質だった。その言葉遣いもワヅチの国の古語。かなり昔に廃れた言葉遣い、廃語というやつだ。
「喋り方までお婆のままだぞ。私も同じだ。私の家は女が強いからな。エンや母さんが移ったんだよ」
「まあ、今更変えられても気持ち悪いしな。っはは、正直ね、帰って来たらエンが“俺”なんて勇ましい口調になっていたらって、考えてみたらちょっと怖かった。やっぱりそれでいいや」
「似合わないか……寺院の友人は俺と言っているけど」
思い浮かべてみる。例えば友人その一、イスクと同じ口調で喋る私……いや、“俺”。
「ああ……確かに柄じゃないか」
瞬時に現れた違和感で諦めた。父さんも俺と言っているが、確かに私の思考には合いそうにない。
なら……例えば、カイと同じく、“僕”。
「――っ」
なぜか、ぞわりと身が震えた。
「? どしたの?」
エンが私の顔を覗き込む。
「いや……何か触れてはいけないものに触れた気がする」
「……意味解らんよ?」
私も解らない。只、何かが忠告した気がしたんだ。それは絶対自分とは違う、と。
……もういい。私は私でいいんだ。今更何を変える必要があるか。おかしいと恥じる必要があるか。それは現在までの自分の否定に他ならない。
私は私。アサカエ ユエンという人格なんだ。無理に変わる必要など、どこにあろうか。
話の最中にエンもすっかり元の調子を取り戻し、遅めになった昼餉を終えて、さあいつもの修練に励まなければと道場に足を運んでみると、ある意味での戦いが既にそこで始まっていた。
それは恒例行事というかなんというか。
「あ? なんだお前、この前俺が風邪で動けなかった時は師範代引き受けてくれただろ」
「あれは事情が違います。師範が無理をしてみんなに感染ってはいけないと」
「土下座して頼むから仕方なく」
「勝手に変な動機を捏造しないで下さい!」
「俺が弱ってる時に仕掛けて来るとは……やるようになったなお前」
「……本気で怒りますよ師範」
ああ、カイの声が震えている。
しかしあれだけ色々と要領の良いカイが、どうしていつまでも父さんのあしらい方を覚えられないんだろうか。
……それは多分相性の問題なのかも知れないな。きっと父さんと出会った時から少しずつ調子を狂わされて来たんだろう。真面目故に狂うとは、なんて哀れな。せめて「この馬鹿師範!」とか「夫婦馬鹿!」とでも一喝してくれれば……無理か。性格的に。
「毎度毎度、飽きないなあ二人共」
仲裁に入る。カイが父さんに勝てないのは最早定番化しているので、仲裁というよりもカイの助けに入る、というのが正しいのかも知れない。
「ああ、ユエンですか……」「おうユエンよ、シエンはもういいのか」
二人同時に答えが返ってきた。カイの方は若干ばつが悪そうな顔をして(目は細まったままだったけど)、父さんの方は全く余裕の崩れない笑んだ顔をして。
「うん、エンは大分落ち着いた。思ったよりも早かったよ」
「シエンに、何かあったんですか?」
カイが、少し不安そうな声をして訊いて来る。
「ああ大丈夫、ちょっと母さんのお茶を飲んだだけだから」
うっ……とカイが渋い顔をする。そして「そ、それは大変でしたね……」なんて事を言って来た。
カイの反応も当然だ。カイも母さんの外れのお茶を飲んだ事がある。流石にぶっ倒れたり思い切り吹き出したりはしなかったけど、あれを知っている身としては、渋い顔をするのも当然の事と言えよう。
「……まあ、シエンの方はゆっくりと休んで貰うとして」
カイが、壁の方に幾つも立て掛けられている、本来のものよりも半分程刃の短い、木刀のある方に向かって歩く。
そしてそこから一本、木刀を持ち、しっかりと握った。
「ユエン、君の方はしっかりと修練をしないといけませんね」
そしてこちらを見やる。それが稽古――戦いの合図だった。
「解っているよ」
私も、カイと同じく木刀を持ちに行く。木刀の感触を手で感じながら、この道場の真ん中にまで二人で歩いていく。
「いやあ、みんな張り切ってるねえ」
その途中に、ひょっこりと、エンが道場に顔を出して来た。
「あ、エン」「シエン……大丈夫ですか」「おう、シエンか」
三者から、エンにそれぞれ声が掛けられる。
「うん、ちょっと見学にね。私は大丈夫だよー」
顔色も良くなって来ているし、本人の言っている通りに大丈夫なんだろう。……体に悪いものじゃない筈なんだけどなあ。只味が壮絶に気持ち悪い時があるっていうだけで。
「見学……」
「そ。私も暇な時は少しはあるしね」
と言いつつ、体を動かして準備体操的な事をしているエン。
これは、絶対に見学だけじゃ済まないだろうなあ。と思いつつ、私達は稽古の準備を始める訳だけど。