-1-6 来たるべきもの -Little Fox
日も低くなり、空に赤みが滲んで来た頃。
神社に通って修練をしていたカイが町へと帰っていったあと、私は居間でちゃぶ台の前に座り込んで、母さんの淹れたお茶をすすっている。
「エンよ、おるのか?」
その頃になって一人、突然にその子がやって来た。表の戸を叩く事もなく、子狐のような気軽さで我が家に入って来る、古風な言葉遣いをする女の子の声。
私の事をエンと呼ぶ、エンを除いた只一人の人物。
「うん、居るぞ?」
声に答えると、玄関の方からぱたぱたと足音が近付いて来る。
その足音の主である、ご近所さんの女の子、サヅキノ トオナには、母さんと父さんが「「他人行儀なんて要らないでしょう」だろうが」という楽観的な教えを吹き込みまくったお陰で、声さえ掛ければ易々と家に入って来ていいと容認し、その当人であるトオナもその教えを律儀に守っている。まさに人に馴れた子狐のよう。勿論普通の家でやれば失礼な上に不法侵入に当たる筈だけど、ここではそんな勿論は通じない。
「今日は遅かったな、何かあったのか?」
ひょっこりと居間に姿を現した、少し小柄で、腰まで届く、両肩の前で束ねた子狐の尻尾のような黒髪。そして白い小袖と赤い袴という、母さんと同じような恰好の女の子。いわゆる巫女装束を纏っているトオナに、早速疑問を投げ掛けてみる。暇があれば日の早い頃に神社に顔を見せに来るトオナが、日の暮れかかった夕方になってから来るのは珍しい。
「朝から半日も母に付き合っておってな、またも町の教会まで遠出だ」
さっさとちゃぶ台の前に正座をしたトオナは、つまらなさそうに答えた。
「それはまあ、ご苦労な事で」
「まったくだ。妙に気を遣わされるのだぞ。たったの一人で敵陣に乗り込むようなものだからの」
トオナの家から私の居る神社まではおおよそ十五分程の距離がある。私達が知り合って十年程経つけど、その間トオナは殆ど休まずこの神社に通っている。長い付き合いの間では幾度か喧嘩など穏やかでない事をする事もあったけれど、それでもだ。
だから逆にここに来なかった時の方が印象に残っている。今年に入ってからは三回、全てが教会関係だった。
「トオナ、お茶を、淹れますね」
母さんがそれだけ言って、すぐに用意に動く。急須からこぽこぽと湯を湯呑に注ぎ、
「はい、どうぞ」
私達の着いているちゃぶ台、トオナの前に湯呑を一つ置く。湯気と香りの立ち上るお茶だ。
「うむ、頂戴するぞ」
ちょっと不機嫌そうな顔から、一転柔らかい微笑みを浮かべて湯呑を手に取る。
トオナにとってそのお茶は好物だ。ここに来れば、まずは最初に母さんのお茶を飲む事から始まる。
しかし悲しいかな、トオナは重度の猫舌だった。口の中を火傷してしまうらしく、熱いものなんて本当に大敵だった。なので、ふうふうとお茶に息を吹き掛け、それを四回くらい繰り返してやっと少し口を付ける。猫舌なのは母さんも当然知っており、「冷ましたものを用意しましょうか」と昔から何度も提案をしているのだけど、しかしトオナはなぜか熱いままのお茶を求めている。
私がその理由を知ったのは、出会いからすればごく最近の事なんだけど。曰く「熱かろうと、初めからぬるい茶など美味くはなかろう」という事らしい。意外な拘りだ。或いはこれもトオナのお婆の影響なのかも知れない。お婆は昔気質な人だったし、古風な言葉遣いもしていたし、熱いお茶も平気で飲んでいた。真似をしたがっているんだトオナは。
「でも残念……都合が合っていればシエンと会えたのに」
「何? シエンは今日戻ったのか!?」
母さんの言葉に、驚き、ちゃぶ台に湯呑を置くトオナ。それと共に、表情には思いもしなかったであろう嬉しさが滲み出ていた。
「うん、今日はまだ仕事があるらしくてな。少し顔を見せただけでまたどこかに行ってしまった」
私が、補足の言葉を加える。まったくあの姉、どれ程の仕事を抱え込んでいる事なのやら。
「そうか、遅かったな。儂もシエンに会いたかったが……詮無いか。次に戻るのはいつ頃になるのだ?」
私は聞いていない、お茶を飲みながら母さんの顔をちらりと見やる。
「今日は夜更けになるかも、と言ってました……寺院で缶詰めにされると、愚痴を零していましたから。もっと遅いかも知れません」
「ならば、明日は早くに来る事としよう」
一刻も早く会いたい、という態度が如実に現れている。仲が良かったからなこの二人。女同士という事もあるし。というか、トオナと親しくやっていたのは私とエンくらいのものではなかっただろうか。思い返せばトオナの友人、という話を聞いた覚えがないし。要は私達以外の友達が居ない。原因となっているのはやはり、その性格と口調。お婆譲りの旧母国語か。古風な言葉遣い、それを悪い事とは私達は思わないけど。
しかし、人恋しさはあって然り。私達家族とカイは先に会っていたからいいけど、そうすると何やらトオナに悪い気もして来る。
「滞在時間は半刻もなかったな、二年も空けておいてまだ忙しいらしい。仕事熱心な事だよ」
「だがわざわざ顔を見せるだけの暇を作ったのであろ? シエンも早く家族に会いたかったに違いあるまい」
「ああ……言われればそうだな」
「まったくシエンらしい事ではないか」
だな。二年も経ったと言うのに、全然変わらないのはどちらだろう。
それはそれで喜ばしいか。二年が経って、実の姉が面影なく変わってしまっていたら、それは弟として衝撃がある。
「教会に付き合いというのは、礼拝の事か?」
話を戻す。仮にも私は法術師見習い、未知たる知識に興味を持っていないという訳じゃない。だけどその話になると、途端にトオナの顔は仏頂面になる。
「あれはつまらぬ。それならばどちらと言うと、儂は作業傭兵の方に興味があるぞ」
作業傭兵――それは西方の教会の直下の組織。金と引き換えに様々な依頼をこなす連中か。詳しくは知らないけど、結構危険な事もやる場合もあるという。
「作業傭兵になんてなるつもりか? おばさんが泣くぞ」
「元より良い思いなど持っておらぬわ。今この姿でさえな」
腕を上げ、袖をひらひらとしながらトオナは言う。平然と、茶をすすりながら。
元々トオナは教会嫌いだ。母国に所縁のあるお婆の影響が強くあって、異国のものには馴染みにくいらしい。土着ではない異国の神に祈ってなんのご利益があろうか、というのがトオナの弁。
逆に言えば、こちらの神には信仰が深いんだ。神と言ってもそれは様々。西方の教えでは最上位の神のみが絶対と教えているけど、こちらとしては世にある全てのものにそれぞれ神が宿っている、という考え方が根付いている。トオナも律儀にその教えを信仰している。両親の考えとは逆に。
そうして、トオナは少々ややこしい過程を経て、現在この神社の巫女見習いなどをやっている。トオナのお婆も、昔はこの神社の巫女をやっていたというから、恐らくそれに憧れての事だろう。幸いな事に、ここの神社の巫女である母さんも教えるのに乗り気、要は師匠のような事をしているのだし。
問題は、それを自分の両親には内緒でしている事だという、それだけだ。
「また、何か言われたか?」
「些末な事よ。母を思うのであれば、見るべきものを見ておくれ、だと」
相変わらず確執は深い。トオナの言い方は硬過ぎて深くは聞こえないけど、その実は、“貴方が神を信じないのなら、貴方を子とは思いません”とまで行き着きそうな、この国の思想から見れば殆ど病気のような発言だった。
「耳にたこが出来るわ」
乾いた笑いを通り越して、トオナは呆れ顔をしている。私はそれ以前に笑えない。本当に修羅場じゃないか。お婆が居た頃は今より権力の均衡が保たれていたものだけど、下手をしたなら家庭崩壊にまで発展しそうな気がする。冗談抜きで。
……まあ、そうなったらなったで、トオナが我が家に転がり込むいい口実になるんだろうけど。仮にもアサカエの巫女見習いなんだしな。
だけど、どうしてトオナの両親はそうした考え方になったんだろう。その母――トオナのお婆は立派な巫女をしていたというのに。
……解らないけど。もしかすると、お婆が立派な巫女過ぎたのかも知れないな。母さんの直の師匠であったという話も聞いた事があるし。でも今、その母さんが師匠の孫に巫女として教えを与えているのだとするなら、それはどこか運命めいたものがある気がする。
その後のトオナとは、いつものような他愛のない会話が続いた。笑わせたりからかったり、少し不貞腐れさせたり。
楽しい時間。だけど今日は日が遅い。半刻程で、トオナは家に帰る事になった。時間も遅い事から、今日のトオナの巫女としての修行はなしだ。
「では、また明日な」
「ああ、また、明日」
いつも通り挨拶を交わし、トオナは家路に着いた。神社の鳥居をくぐり、その姿は石段の下へと隠れていく。
私はその後ろ姿を見送る。いつもの事だけど、また明日、という言葉がいやに長いものに感じられた。とても遠い約束。明日にならないと叶う事のない約束。それがなんとも、もどかしいものと思えてしまう。
――だからだろうか。私は白い髪留めの紐、髪の左前に巻いて付けているそれを、意識もせずに左の人差し指でくるくると弄っていた。それは昔、いつの頃だったか、トオナから初めて貰った一本の紐。「お主は髪が長いのだから、しゃんと括らねばならんぞ」と言って、くれたもの。
私はトオナの事を思う時、いつの間にやらそれを指先でいじる癖が出来ていた。