-1-4 短刀の主
「これいつから?」
「はあ、もう一刻程ですかね」
困った顔に困った口調で、父さんの隣に佇むソノデラ カイはその奮闘ぶりの一端を語る。そうか、今日はまだ一刻なのか。
対してエンは、まだこれは治っていないのか……とでも言いたいような、複雑な表情をしていた。
エンは甘い。父さんのこうした小さい事に拘る癖は、二年前よりも酷くなっている。昔はこんな事があっても最長でも二刻程しか続かなかったけど、その最長記録は今まで随時更新され続けて来た。三刻の大台を確認したのはつい二月程前の事だ。
「毎日の清掃はいい事ですけど、その為に僕達の時間が削られるのは勘弁して欲しいんですけどね……」
「だからいっつも言ってるだろ。邪魔しねえなら勝手にやってればいい。俺ぁ文句は一切言わねえぞ」
言いながらもその手は休まる事はない、真剣に染みを擦り続けている。
「毎度言いますけどね」同じ部分を強調して、「師匠のこんなみっともない姿を弟子に見せられると思うんですか?」
全く負ける事なく結構酷い言葉を言い返すカイ。
確かにみっともない。染み一つを神経質に擦るその姿に威厳などと言うものは皆無だ。……元より威厳などないに等しいけど、それを言うと本気で落ち込む。
だけどそれも今更だろう。なにせ弟子達にとっても周知の事実となっているんだ、我が父の奇癖は。それを脳内に受け取り再確認する彼らにとっては、日常の不条理を処理する為に無駄な時間と頭脳を費やすという、まさしく無駄に対して無駄を行う最大の原因となっている事だろう。それでも見ないふりをしてくれている彼らの寛大さを称えてやりたい。
だけど父さんは、そんな私達の努力を知らずに怒り出す。
「んあ! みっともないだと? 師匠自ら弟子の為に身を粉にして動いてんだぞ。光栄に思えよ寧ろありがたがって労われよてめえ」
そう言いながらも染みを擦り続ける姿には、威厳も威圧もありはしないけどな。
「動くなら刀を持って動いて下さい。それに師匠の教えもなしに稽古が出来る訳ないじゃないですか」
「何言ってんだ」
振り返った。カイの方をじっと見つめ、
「お前が居るだろ?」
なぜか親指を立てて言った。爽やかな笑顔付きで。
「そんな無茶苦茶言わないで下さいよ!」
「ああ!? てめそれは失礼な言い方だぞ? 俺ぁ師としてだな、お前なら安心して任せられると」
「その動機が不純じゃないですか! そんなものには騙されませんよ!」
「言うじゃねえか……そいつは挑戦と受け取っていいんだな! よっしゃあ表出ろやてめえ!」
「そう考える前に一歩引いて考えて下さい!」
「ああもう! 馬鹿みたいな掛け合いしてないで!」
普段であればもう少し続くのだが。今回は遂に見兼ねたエンが一歩前に出て来た。カイを軽く一瞥し、それにカイが一歩身を引く。選手交代。
「父さん!? 父さんがエンをとっとと連れて来いって言ったんでしょう。それがどうしてこんな面倒な事になる訳? 存分に鍛えるって言ってなかった?」
言う事が正論に戻ってくれた。父さんは話を無駄に引っかき回すのが得意だから、それを上手く操作してくれるエンのような存在はありがたいと言えばありがたい。カイも父さんの手口は解っているのだろうに、いつの間にか話に引き摺り込まれている。
それにエンの言葉は全くだ。こうなっていると解っていたならもう少し惰眠を貪れたのに。……勿論口に出すと、この場の標的が一斉にこちらに向けられるのは解り切っているので黙っている。
「俺もなあ、そのつもりだったんだよ。我が子に強くなって欲しいんだよ。俺の屍越えていって欲しいんだよ。でも見付けちまったもんは仕方ねえだろ? 気になるんだよそういうのあるだろ? 前の奴の髪の毛跳ねてたり、黒い服にでかい埃付いてたり、見たらむずむずするだろ?」
「だからって何考えてるんだよ……優先順位は汚れの方?」
「仮にも宮司様としてな……こんな穢れは敵なんだよ、俺に対する挑戦だ」
……染みが挑戦するのかよ。染みと挑戦状は同意なのか。
「昨日はなかったんだぞこんな染み。こんなもんすぐ取れる」
「取れてないけどな」
一刻も掛けておいてだ。なんでも人並み以上にこなす父さんも、これだけは相性が悪いらしい。下手の横好き……それは少し違うか。
「貴重な時間をそんなものに費やす気? エンよりそんなのを? 馬っ鹿じゃないの?」
「うっせえな! 気になるんだよ仕方ねえだろ! こんなもんすぐ取れるって思ってたんだよ!」
それでも動きを止めず、エンに対して理不尽な怒鳴り声を上げた。そろそろ一方的な展開になって来たか。
「なんで怒鳴るんだよ! 先約無視したの父さんでしょう!」
「掃除が趣味でもいい親父だろ! 家庭的で何が悪い!? 最高だろうが俺、最高!」
「言ってる事が無茶苦茶ですよ師匠……」
カイが的確な突っ込みを挿むけど、恐らくどちらにも聞こえてはいまい。
「場合を考えてくれれば文句は言わない! やるべき事はしっかりやってよ!」
「ああもううっせえ! いい事してんのになんでそんなボロクソ言われにゃならんのだ!それ以上の反論は断固許さんぞ!」
言い切ってすっと立ち上がる。雑巾をバケツに突っ込み、一見荒っぽいようで実は水を零さないように、繊細にバケツを持ち上げて。
「くそう、今回はこれで勘弁してやるぜ、憶えてろ! 俺は着替えて来るからな! カイっ、練習稽古やっとけよ!」
まさに子供じみた癇癪を起こし、元より罪のないだろう、元凶たる染みにまで当り散らしながら、どんどんと足音を立てて父さんは道場をあとにし――掛けて、くるりと顔を振り向かせる。
「転んで泣け! 阿呆共っ!」
実に馬鹿らしい捨て台詞を吹っ掛け、引っ込んでいった。
「……仮にも師匠で宮司が、あんなのでいいのかな……?」
「言ってやらないで下さい。弟子として少し恥ずかしいですから」
……あれでも一応、この辺りでは最強とか言われている刀の主なんだけど……あのさまを見たなら誰も彼も信じまい。
「ああまあいいわ。転んで泣きはしてやらないけど、私の仕事はこれで終わったな。あとはカイに任せるよ」
言ってエンは踵を返し、道場の入口へと歩く。……あれ?
「あれ、シエンは稽古をやらないんですか?」
私が頭に浮かべた疑問を、カイが代弁してくれた。
「私はこれからお仕事。只帰って来たって訳でもないんだよ。エンはまだまだ忙しいんだなあ困った事に」
エンは自分を示す時にも“エン”を用いる事がある。理由を訊くと、エンという響き、それ自体が好きだからとか言っていた。そのくせ私が同じように使うと、紛らわしいと怒って来る。理不尽な昔の話だ。
でもてっきり稽古に付き合うものだと思っていたんだけど、そうだった、今回の帰郷はあくまで仕事の序でだったんだ。
「はあ。それは、大変ですね」
「大変大変。大変だけどね、今日が済んだら結構お休みが取れる予定なんだよ。取り敢えず明日は空きになるから。その時に付き合ってくれる?」
「解りました。なら今日はユエンをじっくりしごいてやりましょうか」
「う……」
来た。やっぱり来た。カイの張り切りが形になる時が。
「っはは! 存分に苛めてやって。エンの未来はカイのしごきに掛かってるからさ。あとは任せてエンは行くよ。じゃあ、しっかり叩きのめされなね」
言いたいだけ言ってエンは立ち去り、
「じゃあエン、カイ、また明日ぁ」
言葉を残して消えていく。後に残ったのは意気消沈していく私とやる気満々のカイ。そのカイは稽古用の木刀を持って来て私に手渡す。