1 1-1 目覚め
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忘れるでない。
どうか、忘れるでない。
お主には、愛すべき人が居た事。
儂らを愛してくれた人が居た事。
お主は決して一人ではない。
一人では、ないのだ。
彼は必ず、お主を愛してくれる。
儂がいつまでも、彼を愛するように。
だからお主も。
いつか来るであろう出会いを。
それを、儂の想いと共に――。
}
・
――明るさを感じて、目が覚めた。
また何か、妙な夢を見ていた気がする。だけどどんな夢だったか、もう一度思い出そうとすると、泡沫のように現実に溶けて消えてしまっていくのだ。そういう思いは何度もある。悪い夢ではなかった、とは思うんだが……。
……眠りからの覚醒。立ち上がろうとして気付いたが、今私は一本の木を背にして座り込んでいたのだった。
そして伸ばした足。なぜだかその私の足に身を預けるように、一匹の猫が居た。別に連れて来たものではない。これは野良、野生猫だ。それがいつの間にやら私の足に身を寄せ、すやすやと眠っていた。
森の中に居る野生猫……野生のくせに妙に懐こい。なぜやら私は猫に懐かれる性質らしく、近付こうが触ろうが逃げられない。その猫に手を伸ばして撫でてやると、おああ、と一鳴きして身を伸ばした。どうやら猫も目を覚ましたらしい。
寝惚けた頭を左右に振って本来の意識を戻す。その時、最初に頭によぎった疑問は、ここが一体どこなのだろうという事だった。
はてさて何がどうなっているのか。視界の中、周囲に幾つもの緑の柱、樹木が無秩序に立ち並んでいた。空から、光の柱が私の体に当たっていた。
森の中に居る――そう理解するのに少しも時間は掛からなかった。但しこんな場所は知らない。見た事がない。それもそうだ。道がないのだし、標だって見当たらないのだもの。
取り敢えずは現状把握。だがそもそもどうしてこんな場所に居た――いや、こんな所で寝ていたのか。記憶が曖昧だが……ああ確かに、こんな風景の場所を、今より暗い時間、昨日の夜に歩いていた、と思う。うん、少し頭がはっきりして来た。
うかつだった。只の森と侮っていたのがまずかったか。歩き続けて少しもしない間に方向感覚は狂い、その日の内に出られずにどことも知れない場所で野宿をする羽目に陥ってしまったのだ。……まったくなんて事。これで旅人をやっているとは、先生に笑われてしまう。いや、或いは知られたら説教ものか。
その場で立ち上がって、灰色の甚平のような着衣を整えて空を見上げる。枝葉の間から射し込む光はまだ薄い。日が昇ってから半刻も経っていないだろうか。
空の明るさの様子から、大体の方角の見当を付ける。日自体は木々に阻まれてまだ見えなかったが、空の色は左右で僅かに違っていた。左が明るく右が暗い。東西南北はこれで解る。
こうなると、どこに向かうべきかも見当が付く。木を背にして左右を見回し比べれば、右の方が昨日最後に見た記憶に近い気がする。
それに昨日は、確か歩いていた景色の右にあった木にもたれ掛かり、そこに座り込んだような気がして来た。となれば、少なくとも私はここから右の方角に向かって進んでいたという事になるだろう。昨日まで自分がそちらに向かっていたのだからそれが正しい。違いない。あったとしてもいいやどうでも。
傍に放り出されてあった少ない荷物を拾い上げ――その袋の中身が空だった事に気が付いた。
食料も水もない。持ち歩いていたそれらは既に食い尽くして飲み尽くして――ああそれでやる気がなくなって寝込んでしまったんだ。もうお仕舞いだと。死んでしまうのなら死んでしまうでいいやと。
食料はまだいい。いざとなれば、その辺りの動物やら茸やらを狩ってしまえばいいのだ。食料……いや流石に今目の前で私を見つめている猫を取って食おうとは思わんが。
しかし、水がないのは困る。自然の水の溜まり場なんて、なかなか見付からないのだから。いやそれよりも茶が飲みたい。少々濃い目の煎茶。勿論あったかいもの。
……そんな贅沢を妄想する空しさ。
もう一つの荷物。空の袋の上に置き石のようにして横たえられた、一本の短い棒――あまり立派とは言えない、小さく短く古ぼけた鞘に収まった小刀。
名は知らない。名刀なのか普通の刀なのかも解らないが、どうやらこれはなまくららしい。刃の部分を指で撫でてみても解るように、刃の部分は刃とはなっていなくて、僅かながら丸みを帯びている。故に何かを切る、という事は出来そうにない。旅暮らしの唯一の道連れとしては非常に心許ないが、幸運な事にどうしてもこんな得物などを必要とする事件には、今までに殆ど出会ってはいない。今後そんなものに出会うかどうかはどちらとも知れないが、どのみちここから出られなければ、何かに出会うとか以前に野垂れてしまう。
それは嫌だ。明確な理由がある訳ではないが、昨日まで私は進んでいたのだから、今日の私も進まない訳には行かないだろう。
それに、そうだ、出来る事ならもう一回くらいは茶が飲みたい。
毎日思っている事なんだが、いいだろう。先に進むには充分過ぎる理由だ。少なくともあと僅かばかりは、死ぬ訳にいかない理由。その明確な理由が、私の知らない後に命を繋げる事になる。
面倒だ、と思いながらも歩いてやろうと思う。日の光はまだ低い。せめて真昼頃には外に出たいなあ。と思いながら後ろを見やると、猫はふいと顔をそむけ、どこかへと歩き去っていった。それでいい。頑張れ猫よ。私も頑張るから。
私は何かを探している。
その何かがなんなのか、それさえ解らないのに探している。
無駄とも思えるような時間だけが過ぎていくように思えるが、それでもそうするしか、私は自分が生きている定義が出来ないでいた。
森を歩き進みながら――不意に私は、少し長めの左の髪、そこに巻き付き垂れている白い紐のような髪留めを、左手の人差し指でくるくると弄っていた。
それはいつの間にかあったもの。そして癖となっていた事。
一体こんなもの、いつから持っていたものなのか。なぜ、左側だけにしかないのだろうか。髪は全体的に長めな筈なのに。
……解らないのだが。
てくてくと歩きながら、暇となればその髪留めを人差し指で弄る。くるくる。
・
日が暮れそうな頃になって、やっと人の居る町にまで到着した。
そうして町に着くなり、私は書物館を目指す。調べたい事があったからだ。
町に来て最初にする事が調べ物とは。そんな妙な行動力がある事に我ながら感心する。自分の事にすら興味がないくせに。
なのに違う何かには興味がある。
自分の事としてもおかしい話と思う。自分に生きる糧がなく、他の何かにそれを求めている。
だが、そんな目的でも作らなければ死んでいるのと同じ。
私はまだ、生きている。
生きて何かをしようとしている。
動くという事は生きているという事――。
そう先生も教えてくれた。
――結論を言えば、今回も先生の痕跡を知る事は出来なかった。
それもそう。この世のどこに居るかも解らない人間一人、只一つの町を探しただけで見付かるとは思っていない。
それ以前に、書物館だけを探してその名が見付かるという保障も全くない。
かと言って、町行く人にその名を尋ねた所で、望みの応えが返って来る可能性は皆無だ。
今まで何度も試した。その度に全くの無駄だと思い知った。
先生は特別だから。
表の世界に名前が出て来る立場には居ない人だから。
ではどうすればいいのか。解らん。
解らん事だが、私は先生を追っている。教えを乞う為に旅をしている。