-1-1 かつての二人へ
ここからは過去編になります。エンに与えられた、"迷いを打ち消す迷い"の結果、思い出すに至った"過去の記録"の一部のお話です。彼が記憶を失う前、どこで誰とどんな関わりがあったか、その一部分を彼は知るに至ったようです。
少し長めになりますが、どうぞお付き合い頂きたく思います。
―――
これは記録。それであり雑音。
ここに意味を見い出す者は既になく。しかし、これには確かな意味があった筈だった。
どれ程前のものかは解らない。彼らは皆、若く幼い。
そして語る内容にも、然程意味は残っていない。
今、思い出そうとしても意味を見い出せない。
それでも、この記録がここに残っているというのは、
これが掛け替えのないいつかの事なのだと、記憶の底に刻んでいるからだと思う。
―――
「……エン。二人共、ちょっとこっちに来てくれる?」
とある日の夜の事。暗く暖かい部屋の中で、母さんが私達を呼ぶ声が聞こえた。
「……んえ?」
「なあに? おかあさん」
私達、二人一緒に、声を発した母さんの方に向かう。
寝間着姿の母さんは、居間にある卓の前に正座をしていて、その傍らには湯気の立っている湯呑が三つ、置いてあった。
「あのね……今から二人に、大切なお話をしようと思うの」
まだ幼かった私達に、母さんはとても静かに、優しい顔をして語り掛けて来る。
「おはなし……」
「なあに?」
勿論、私達には意味が解らない。だけども母さんの言う事だから、二人して何を言おうとしているのか、私達は隣り合い、座り込んで、訊く。
「大切な事……少し長いかも知れないけれど。貴方達ももう――だから、よく聞いておいて?」
「うん」
「これから話す事はね、誰にも言ってはいけないの。どんな人にも……」
「誰にも?」
「そう、お父さんやトオナや、私にだって、絶対に言ってはいけない」
「んえ、どうして?」
「大切な事だから。これは誰に言っても解らない、誰も知らない伝えなの。もし誰かに知られたら――」
いつもと変わらぬ微笑みを表し、母さんはお茶を一口すする。
それはいつもの光景だった。話し掛ける母さんも、そのお茶の香りも。エンの好奇を含んだ瞳も。
形だけなら、それはいつも通り、何も変わらない一時だった。
「冷めてしまいます」
少し笑って、母さんは卓にあるお茶を勧める。
母さんのお茶は美味しい。暖かいお茶だったけれど、湯気はもう立たなかった。それだけ――母さんの短い言葉に聞き入っていた。
私達は見つめる。そうして言葉を待つ。母さんの綺麗な深青の瞳が、お茶の入っている湯呑をじっと見ていた。
「憶えておくだけで……聞いてくれるだけで、いいから」
いつも崩れない微笑み。今もまたその筈なのに、その時は、妙に悲しげに見えたような気がした。
「退屈だったら、眠っても、いいから」
綺麗な深青がもっと深く見えて。
手に持つ湯呑を見つめるその瞳が、そこに吸い込まれているのでなく、周りの全てが瞳に吸い込まれているのではないか――そんな錯覚を覚える程に、私はその時の母さんの眼をよく憶えていた。
やがて一息吐くと、母さんはその湯呑を卓に置いた。
暖かい湯呑。その中身は、まだ半分も減っていなかった。
「これはね、とても古いお話なの。私の母さんやお祖父、この神社と一緒に、七百も前の刻からずっと伝えて来た――」
そう前置きして、母さんは話し出す。
世界に残る只一つの、古い古い昔話を。
――。
その内容は、ここにはもう残っていない。私は途中で眠ってしまったらしいから。
古いお話。それがいつを示すのか、私達に伝えるのはなぜなのか、そもそも、この記憶はいつの事なのか。
そんな疑問を浮かべても、詮無い事。話は終わり、決して未来に生かされない。
だが、歪な雑音でありながら――しかし決して嫌いではない。頭の中から消す気もない。
補正も補修もなく、このままの形で残っている。綺麗にもならず、汚くもならない。夢現の中。
だからこの話は、ここで止まる。ここまでで止まる。
・ 季節前後
世界は、変わらずに時を流していく。誰かの望み、望まずに関わらず。一定に確実に。静かに緩やかに。
故にだろうか、少なくとも我が祖国、ワヅチ皇国においては、私の知る限り――私が生まれて十六年の間には、特に大きな変革などは起こっていない。
変わらない世界――或いは変わらずにいられている世界。そして今も続いている平和。それは我が国を統治している者――帝様のお力が優れているからこそ、今の世の安息が成り立っていると言える事なんだろう。
そんな国においても、当然ながら多くの“力”は必要とされる。
内側に対する力と、外側に対する力。
それは過去にはあったらしいが、現在では想定事でしかない、国と国が争う為の力。
それよりも小さな、ある個人。或いはそれを含めた、無秩序に力を振りかざす乱暴な集団に対抗する為の力。
そして――数としては少ないけど、存在する力としては無視出来ないもの。
遥か昔に、遥か天から地に落ちたと言われる“空の厄災”が生み出した産物であり、世界に存在する全てのものを餌食とする忌わしき存在、“狂気病”に対する為の力。
その為の力を持つ者として、この世界でも最高と称される存在。
東の果ての国、ワヅチ皇国が世界に誇る、力あるもの――法術師と呼ばれる存在があった。
・
{
綺麗な季節と、その時々にずっとあった筈の楽しい事や、つらい事、悲しい事。
刻が過ぎて、貴方はそれをどれだけ覚えている?
それともとっくに忘れている?
どちらが貴方の幸せだった?
私は知らない。
貴方じゃないから、貴方を見てみないと解りもしない。
だけど、知らないのなら、貴方は知るべき。
でないと貴方は、零のままだから。
知っているものが一しかないなら、
それは零と大差がないから。
}