1 1-34 スイッチ
はっと、目が覚める。
目の前には、ぼやけた姿のレシラントが――。
「え、なんで――」
いや違う。ぼやけている原因は私だ。
……泣いていたんだ。眼から涙が溢れて、それで――。
「つらい事、だったのかも知れませんね」
「いや――」
と、否定しようと思うけれど。精霊の前で嘘なんて事は意味がない。純粋な精霊は、人の嘘など簡単に見破れる。
「……ああ、そうだな」
身を起こしながら、答える。涙は手で拭っても、なかなか止まりそうになかった。
確かに、つらい記憶だった。家族を失い、姉に殺され掛けて。あんな出来事、そりゃあ記憶も吹っ飛ぶよな。
「望むものは、得られましたか」
望むもの、か。あんなものが私の探していた内容だったなんて、滑稽にも程がある。あんな記憶に執着していたのだから。
私が、姉に殺され掛けて――。
「え?」
ふと、気付いた事があった。殺され掛けた。確かにそうだ。でも体に傷付いた所もない。心臓に届く傷跡、そんなものも見当たらない。それはまあいい。だが、
「……指が」
左手を上げて、まじまじと見る。小指。“エン”に千切れ取られて、そして喰われた筈の所。
……ある。
指が五本、確かに左手にある。
手を握り、また広げる。自分の意思で動かせる、まがい物でもない。
……なんだろうこれは。まだ何か、見落としている記憶でもあるのか。
傷のない理由。ない筈の物がある理由。
これは、解らない。あれが、過去のものだとするならば。
この矛盾は、一体なんとするものか。
先生なら――先生ならば、こんなおかしな事も説明出来るのだろうか。
かちり、と、そんな音が頭に響いた気がした。
「……え」
あれ。
おかしい。
なにか、これは、おかしい。
私は、先生を探していた。
それはおかしくない。
なぜ探すか。
先生が居たからだ。そして居なくなったからだ。
これもそう。おかしくない。
先生は居た。確かに居た。私ははっきり、それを知っている。
先生は、?
え……。
誰だ。
名前は。
顔は。
声は。
……え。あれ。おかしい。
先生は居る。居た。一緒に居た。
どうして、解らない。
先生は誰で、どんな人で、
私は、探していた。誰を?
どんな人を?
先生は、
私の先生は誰だ。
――。
・
「誰かが、来ます」
唐突に、レシラントが声を上げた。
誰かが、来る?
「こんな所に?」
ここは森の最奥だ。精霊が導かない限り、誰かが入り込むなんて事は考えにくい。
「はい。人間の女性のようですが……」
考えにくいが、森に住み着く精霊のレシラントが言うからには間違いという事もないのだろう。
「レシラント、今すぐ私を元の森に戻せるか」
「はい。それは出来ますが」
「そうしてくれ。あと、お前は隠れているのがいい」
「それは、どうして?」
首を傾げるレシラント。だが、説明している時間はないと思った方がいい。……予感が正しければ。
「あとで説明するから。早く」
「あ、はい」
レシラントの姿が掻き消え、そして私は元の緑の森に戻っていた。
「さて」
知り得る原型は知る事が出来た。そしてこれが切っ掛けとなるのであれば。
……次に来るものがあるならば。
「久方ぶりだな、アサカエ エン」
唐突に、背後からその声が聞こえた。
……聞き覚えのある声。それはまさにあの人のもの。だが、違和感は消えない。
振り返る。白い西方服に、黒い洋袴、そよ風にたなびく長い銀髪に、顔には眼鏡を掛けている。すらりと背の高い女性の姿。
こんな所に突然現れるなんて。しかも私が記憶を見た、その直後にとは、出来過ぎにも程がある。……何かしらの作為を疑う程には。
「しばらく見ない間に忘れたか。お前が必死に探していた――リーレイア・クアウルだよ」
「……せんせい、か」
予想はしていた。だがどうして、今になってこんな所で?
「お前の記憶にはロックを掛けておいた。いや、“記録”と言うべきか。それが解除された時に私に知らせが来るよう細工しておいたんだ。出来れば知らずにいてくれれば良かったんだが」
“記録”。先生はそう言った。記憶ではなく。そこにどんな差異があるのか、全然解らない。
「しかしなんだ。お前もつくづく厄介な奴だね。しばらく見ないと思っていたら、まさか諜報員なんぞに目を付けられていたとはいやはや、有能な証だなあ。褒めを通り越してやり過ぎだ」
そうそう、こんな人だった先生は。
……こんな人だった?
いや。
こんな人だったと、知っている。
私の中の、“記録”が知っている。
「……悪い事をしている、と言いたいんですか?」
「日々が過ぎれば価値も変わる。私も十年も前の信念を貫いている訳ではないしな。だが、変わらぬように努力はして来た」
先生は、私の問いには答えず、
だが、別の問答をしているように思えた。
「無知は罪と言うが、知る事もまた罪として人を縛るんだよ。それでも知りたいのなら、お前の価値観、その死も覚悟すべきだな。
――そうだろう? だからこそお前は、ユエンもシエンも殺せたんだ」
ユエン。……ユエン、とは。
私はエンと呼んでいた奴を。シエンを。
「ふむ、どうやらお前はそこまでを見たようだな。いや、思い出したと言うべきか?
済まないな。私が直に吹き込んでやっても良かったんだが、先約があってな。そちらを優先させて貰った」
「……謝られても」
今更。
思い出した事を、私は、素直に喜ぶべきか。
……そうは思えない。
それに、全てを思い出したと、そう言えるか。
穴はまだ多い。それは多分、怖い事。私は、その一部を識ったに過ぎない。
「謝るさ。単なる自己満足だがね。謝罪とは相手に許しを請うものではない。自分で自分が許されたいと願う行為なんだよ。それが解るから相手も許せるんだ。相手が謝る際に、同じく許して貰う為にな」
解らなければ、許されない。
解ろうとしない、解るすべがない、なら、私は謝罪を受けてどうする。
許したように、見えればいいのか? どんなに酷い事をされたとしても。
「結局は慰め合いさ。不幸な奴は可哀想だ、だから許してやってもいい。上から目線は人間の常だよ。己の意思がある限り、己の目線が主人公になるのは当然だ。
だが例外も居るには居る。数少な過ぎる例外だ。……誰とは言い切れんがね。私もお前を完全に知り尽くしている訳ではない」
なんの事だろう。先生の言い回しは難解で、いまいちよく解らない。
「まあ、君は今を生きている。それ自体は喜ばしい事だろうね。喜ぶ奴も幾らも居る」
喜ぶ、奴。
「それは、先生もですか」
「っ、ははははは――」
唐突に、先生は笑い出す。
「いやいや、私は契約を履行したに過ぎないよ。別段深い感情などはない。あいつは泣いて喜ぶ事だろうがね」
あいつ。それは、“私”の想い人。
「トオナの事、ですか」
先生は、にやにやした笑みを浮かべたままで。
「そうだな。会ってやったらどうだ? 罪にならず人を泣かせられるなんて、なかなか出来る機会はないぞ」
「……少し、考えます。そんな悪趣味な考え方はしたくないんで」
「ほう? なんだ会いたくないのか」
「そういう訳じゃあ……」
ない、筈。だけどトオナは、なぜ私の所に来ない? 探しているという話も、聞いた事がない。そもそも今の今まで、トオナの事をすっかりと忘れていたのは――。
「まあいい。そこの所は私の契約外だ。お前の意思は充分に尊重するつもりでいるがね」
先生の考え、それを察するのは難しい。
勿論会えて嬉しくはある。今まで探していた、それは正しい。だが違和感はまだ消えずにいた。
この人は先生だ。先生に見える。だがどうしてか、断定が出来ずにいた。