1 1-24 迷いの森
地図を見た所、次の町へ行くにはここを突っ切るのが最も早い。という訳で森へと入る数刻前。
――森の入口にある村で、私は凄まじい足止めを食らわされていた。村の人間に散々引き留められていたのだ。
それら全員が言うには、要約するとあの森には近付くな、との事だった。理由を訊くと、森に魅入られた者は二度と森から出られなくなるという。だから入るな、と。
いわゆる曰く付きの場、という認識。村人は迷いの森と呼んでいた。
しかし、私だって暇な身ではない。はいそうですかと引き返すのも面倒くさい。
素直に引き返す振りをして村人達の気を逸らし、その隙を見付けて私は森の中に駆け込んでいった。制止の声は聞こえたが、誰かが追って来る気配はなかった。それだけこの地の人々に恐れられているという事だろう。
……確かに、森は一歩入っただけで深く、日の光も殆ど入って来ない。空から白い糸のようなものが幾つも垂れているが、恐らくあれは木々の葉の隙間から通って来た日の光なんだろう。
入口に近い所ならまだ良かったが、少しも入るとそれこそ天候の区別も出来ない程だった。
迷いの森。確かにそうだ。雰囲気的には、出られないというよりも、出してやらない、という意思があるのではとさえ思える。
だが、村にあったこの辺りの地図を見た所、真っすぐ進めば向こう側に抜けられる。
何より、私はこの森の雰囲気がなんともなしに気に入っていた。静かで、暗くて、清い空気の森。
食料を買い込む必要もなかった。その分水を持てばいい。精々ゆっくり進むとしよう。
そのまま森を歩き続けて数刻後。
目の前に、何やら自然の森と言うには似つかわしくないものが目に入った。
・
気が付いた時。
そこは今まで居た森とは違っていた。
……よく解らない。
確かに、何かを見た気がした。森の中にあった、異質な物。
しかしそんなものは視界のどこにもなく、只深く暗いだけの森が広がっている。
いや、只の森ではない。辺りにそびえ立つ木々が、見上げれば遥か上空にまで高々と伸びていた。
日の光が入らない筈なのに、やけに辺りが薄明るい。
何よりも、雰囲気が先程までとまるで違う。
空気が澄んでいる感じがする。森の色が青白く、色褪せた感じがする。何か、光を放つものが辺りに漂っていた。……虫だろうか。
更に歩く。が。
……方向感覚が解らない。
今どこに居るのか。昼なのか夜なのか。状況を少しも把握出来なかった。
だが、不思議と不安な感じはしなかった。
心が落ち着く。ずっとここに居てもいい心持ちになる。……冷静な部分では、それは危険な事だ、とは思っているが、それも僅かながらの意思でしかなかった。
――突然、目の前に明かりが見えた。
目立つ明かりではない。しかしなぜか、私はそれに訴え掛けるような意思を感じていた。
心が惹かれる。そのまま私はその方向に向かって歩き出す。
明かりには全く変化がない。
しかし歩いてゆく間に、少しずつそれは小さくなってゆく。
やがて、完全に明かりが消えた時。
立ち止まると、そこは開けた空間だった。
雰囲気は変わらないが、より明るい感じがする。
源素が満ち満ちた空間。
神聖とも思える場所。
成程……ここは特別な場所なのだろう。何ともなくそう思った。
ここは、神域――人間の身には、少し場違いな所――。
「貴方は人間ですか?」
突然の声。そして現れる気配。
しかし気配のする場所に、その姿は見えなかった。
「貴方は人間ですか?」
再び問い掛けられる声。幼い少女を思わせる、高く透き通った声が、辺りに響き渡った。
「……ああ、一応は」
答える私の声はごく自然に。
その言葉に、気配を感じる木の陰から、一人の少女が姿を現す。
……一見して、普通の少女とは違っていた。
いや、見た目だけは普通に見えた。だが、その内面は人間とも違う。見目好い女子ではあったが。
白く透き通った肌、纏う真白の服――いや、只白く長い布を羽織っているような姿からも、特殊な雰囲気が滲み出ている。
「貴方は、人間なんですね」
それは、人間ではない。白い肌に白い髪。
その雰囲気は、神と呼ばれる柱のものか。或いは精霊と呼ばれるものの類だ。
「いや、素直に人間かと言われれば、そこは少し複雑なんだが」
相手がそう言った類――精霊であるとしたならば、その問いに嘘を付くのは良くない。
精霊とは人間よりも遥かに純粋な生き物だ。不純な嘘を与えれば、瞬間に敵意を持たれる危険もある。同族である人間とは違うのだ。
……私は元より嘘を含めている訳ではないが。
「人間では、ないのですか?」
僅かに複雑な、残念そうな口調で訊いて来る。そんなあからさまな反応をされても困るな。
「さてな。確かめた訳でもないし。自信はないが、一応は人間っぽいな」
詳しく説明するのも面倒だ。素直にそのまま通す事にしよう。
私は人間。
少なくとも、目の前に居る少女とは、在り方は違う。
「なら、お願いがあります」
神妙な面持ち(あまり表情は変わっていないが)をして、少女は言葉を紡ぎ出した。
「ケイニヒを、元に戻して下さい」
……けいにひ。
聞いた事のない単語を聞かされる。
「……まず、訊いていいか」
「はい、なんですか」
「お前は一体どういったものなんだ」
精霊であると当たりを付けてはいたが、よくよく考えるとこの地に留まり迷っている幽霊の可能性もある。その答えによってどう対応するかが変わるのだが。
「解りません」
「……んあ?」
即答。その口調が変わらない為、何やら間の抜けた言葉に聞こえた。
「私は私が解りません」
要領の得ない言葉が返って来る、解らないのはこちらの方だ。困るではないか対応の仕方に。
「自分の事が、解らないと?」
「名前の事を言っているのなら、一応あります」
「そうか、ならまずは名を訊こう」
「私の名前はレシラントと言います。ケイニヒが付けてくれました」
「そうか。私の名はエンだ」
名前を言って来たので、私も自分の名を返す。しかし、レシラントとケイニヒ、どちらにしても、この国の呼び名とは思えない。西方国の名前のように思える。
「エン……というのですね」
「ああ。それで、ケイニヒと言うのは誰なんだ、よく解らないが人間なのか」
「人間ではありません」
「ならなんなんだ」
「私の友達です」
……むう、友達。友達を元に戻せと。どういう意味なのか。
「人間ではないと」
「はい」
「元に戻すとはどういう事だ」
「……」
答えがない、何やら口籠っている。
「おい」
「はい」
「答えてくれないとこちらも解らないぞ」
「……動かないんです」
「んあ?」
動かなくなった? それってつまり、生き物として――。
「動いてくれません。呼んでも答えてくれません。座ったままずっと眠っています」
「で、私にそれを元に戻して欲しいと」
「はい。人間なら自分を治せると、動かなくなる前にケイニヒが言ってました」
考え込む。どうしたものか。面白そうではあるが、面倒そうでもある。
「お願いします」
まあ、こんな可愛い女の子の願いを断るなど、男としては失格だろう。どのみち急いでやる事なんて、特にないし。
「解った。見るだけは見てやる」
「ありがとうございます」
淡々としたお礼を言われた。
「期待はするなよ。無理なら無理と言うからな」
まずはそれを見てみなければ解らない。ケイニヒというものがどんな奴なのかは知らないが、生物であるなら残念ながら手遅れだろうと宣告しないといけないな。
「はい」
レシラントが応え、ふわふわとした足取りで歩く。そのゆったりとした歩みに私は付いていく。