1 1-22 うわばむ奇人
その翌日。昼頃になって。
暇潰しを兼ねて、私は森の中を探索する事にした。森と言うには木々は少なく、自然に住まうものもそれ程危険なものもない。特に異常のようなものもなく、折角だからどこかで寝転んで森林浴とでもしゃれ込もうと思っていた所、
「だーれやーろなあ」
突然に目隠しをされる。勿論動揺した。接近して、手で私の目を覆い隠すまで、気配も何も感じなかったんだから。
それにこの喋り方。西訛りで喋る知り合いなんて、今の私の記憶には只の一人しか当て嵌まらない。
「え、お姉か?」
目隠しの手がどけられる。振り返ると、それはやはり、ぼさぼさ頭で、灰色の甚平姿のお姉がそこに。
「なんやなんや、豆が鳩鉄砲喰らったみたいな顔してからに」
「逆だ逆。じゃなくて! 一体どうしてたんだ。突然姿をくらまして」
「なんや寂しかったんかいな? まあ堪忍してえな。うちかて会いたくない奴の一人や十人くらいおるさかいになあ」
「十人とか多いな! ってどうして私の居る場所まで知っている」
「っはは、ちょいとした“みすてりあす”っちゅうやつや」
言って、腰にぶら下げてあったひょうたんを持ち出し、ぐいぐいと呑んでいく。
「ここにまで来てまた酒か……?」
「ええんやええんや、酒は命の潤滑油ってなあ」
「あいにくここは酒屋でもないしつまみもないぞ。酔っ払いたければ他をあたってくれないか」
「ちゃうちゃう、今日はあんたに用があって来たんや」
「私に?」
酒を呑む以外の用事があるなんて、それは信用していいものなのかね。
「せや。ここやったら人も気にせんでええやろ。聞くんはあんた一人でええ」
そうして、お姉は手近な太い木の根元に腰を下ろした。ひょうたんを口に付けよう――として、背負う荷物の中から何かを取り出した。
「あんたもちょっと、付き合うか?」
それは湯呑だった。それを私の方に向けて、差し出す。
「酔わないとやってられない、とかいう話か?」
「無茶は言わん。せやけどあんたもいける口やろ?」
「どうかね。今まで茶以外の飲み物を飲んだ憶えがない故な」
お姉の隣に腰を下ろし、湯呑を受け取る。お姉はそこに、ひょうたんの酒をとくとくと注いでいった。
「そんなに呑めるかどうかは解らんぞ」
「まあええやろ。もし潰れてもうちが介抱したるさかい」
「はあ……まあいいんだがな」
たっぷり注がれた清酒だった。匂いがまた、これは強いお酒ですと自己主張しているような酒臭さで。
そしてその湯呑に、お姉はこん、とひょうたんを小さく当てた。確かこれ、西方国の習慣だと思ったが。
「なんやらまだ記憶は戻ってないんやな」
……ぐび。
「……やはり、私にも過去があるのか」
「せや。あんたには立派な過去がある」
「なぜ忘れた? 私はなんなんだ」
「詳しくは言わん。約束があるさかいにな」
……ぐび。
「あんたは、言った通りに姉なのか?」
「ちゃう、うちは只のおばさんや」
「只の、か?」
「……、せや」
……ぐび。
「忘れた方がええっちゅう話もある。自分で思い出すってなったらええんやけどな」
「どうして、そんな事を私に」
「なんちゅうかな、世話焼きとうなるねん。あんた見とったらな。いやあほんまお節介やでうちも。性根っちゅうか性格? っちゅうかな」
……ぐび。
「……家族は、居るんだろうか」
……。
「答えられない、か?」
「いや」
……ぐび。
「なんで、そう思たんや?」
「居たとしたら、悲しませているんじゃないか、とな」
「……そか」
……ぐび。
「なんだかな。あんたを見ていたら妙な気がしてな」
「あっはは、なんやこんなおばはんにムラムラ来たってか?」
「そうじゃない。というか、あんたはやっぱり何か知っているな」
「まあ、せやな」
……ぐび。
「感がええやないの。ご褒美に一つ昔話したろか。
昔、阿呆な母さんがおってなあ。子供おるっちゅうに、ふらあってどっか行ってもうたんや。ほんま酷いやっちゃで。お陰でうち、むっちゃ捻くれてもうてなあ、あっははは」
「それは……誰の事だ。まさか」
「いやいや、心配せんでも、ちゃんとおるわ。あんたを一番心配しとる奴がな」
「そうか」
……ぐび。
「……会えるのなら、会って謝りたいな」
「なんて?」
「心配掛けて、ごめんなさい。と」
「……、そか」
と、お姉はひょうたんに残った酒を一気にぐびぐびと呑んで、そして酒臭い息をかはーと吐き出す。
そしてお姉は立ち上がって、うーんと伸びをした。
「ここまで、か?」
見上げる。お姉の顔は、結構な量の酒を呑んだにも拘わらず、どこかすっきりしたように見えた。頬は赤くなっていたが。
「せや。うちもこう見えて結構忙しいからなあ」
私は、すぐには立ち上がる気がしなかった。代わりに私の湯呑を差し出す。いつの間にか私の酒は空っぽになっていた。お姉が言った通り、私も酒は結構いける口なのかも知れない。
「ええわ、持っとき。いつか要るかも知れへんよってな」
「また、一緒に呑める時が来るかも、か?」
「どうやろなあ。会える程の暇が出来るんかってな。そら連中次第や」
「連中?」
「お尋ねもんなんや。うちなんも悪い事してへんのになあ」
「こんな森の中まで、そんなのが来ると?」
「解るやろ? ツヅカ サキの事とかな」
「組んでいたんじゃなかったのか?」
「おおっと、お喋りはここまでや。ずっと終わりが見えへんさかいになあ」
そう言って、お姉はまたひょうたんの酒をぐい、と呑む。
「……あとは私次第、という事か?」
「せや。うちも陰から応援しとるさかいにな。ほな」
酒を持ちながら、お姉が歩き出す。私は、森の中に消えていくお姉の姿をずっと見ていた。
だが、このままでは駄目だと思った。お姉を独りぼっちで居させる事なんて。だからすっと立ち上がって、
「お姉!」
呼ぶ声に、お姉の歩みが止まった。背は向けたままで。
「また、呑もう」
……そのまま、お姉が手を振る。言葉のないまま、お姉はやがて森の外の方に消えていった。
……、果たして、そんな言葉で送ってしまって良かったのか。お姉は一人で、頑張り過ぎていたのではないのか。その原因が、私にあるのだとしたら――。
「……で? いつまでこそこそと様子を覗っているのかなサキよ」
僅かな気配、その方向を見ないまま、私は覗き魔に声を掛ける。
「っはは、ばれたか流石はエン君だ」
私達の座っていた木の、その幹からサキがひょっこりと顔を出した。
ずっと隠れて聞いていた訳だ。私達に気取られぬよう。ご丁寧にごく間近で。
「目的はなんだ。お姉か? 早く行かないと撒かれてしまうぞ」
「ああ、それはまずいねえ。折角の捕縛出来そうな機会だというのに、本当残念だ」
……。
「はっはっは、どうしたんだいそう押し黙ってしまって。豆が鳩鉄砲を喰らったみたいな顔だよ」
「だから逆だと。何をしに来たんだお前は」
「無粋だと思っていたんだけどね、自分でもさ。只、あの女の語る言葉には興味深い所がある。今回はそれを探るだけで済ませてあげるとしよう。君の前で捕物なんてしたくはないしね」
「変な気を遣ってくれてありがとうよ」
別にそう親しい仲という事もないんだが。世話になった事には変わらんしな。
「まあ、今回彼女の事は置いておこう。今回は事後報告と報酬の件で話をしに来たんだ」
「そういう所は律儀だなお前」
「仕事は迅速丁寧完全に、という信条でね。ところで立ち話というのもなんだろう? 良ければ一つ、君の部屋でお茶でも頂きながら話し合いをしたいと思うのだが」
「どうしてお前に……ってそうか。私が茶葉を買い足した事も筒抜けか」
「そうともさ。さてではそろそろ招待して貰っていいかな。早いところ、君のお茶が飲みたくてね」
詮無いかと、サキと一緒に小屋へと入る。酒を呑んだからか、今日は割と気分がいい。酔い覚ましという意味でも、熱い茶を二人で飲むのもいいだろう。
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――ああ。やっぱやめときゃ良かったなあ。
あいつにも、あの子にも肩入れし過ぎたんや。
自分でそう決めたんや。なんも悪い事やないと思っとったけど。
……こんな泣くくらいやったら、ほんと近寄らんかったら良かったんや――。
……。
なあ、ハトリ。メイスケ。
あんたらの残してもうた子は、まだ弱っちい、危なっかしい子やけど、
でも強いわ。“あの子”やったら、あんたらも文句言えんやろ。
本当はな、うちが引き取って面倒見ても良かったんやろうけど。
――っはは、まあ子持ちなんてガラやないしなうちは。
だから、見守る事だけしたる。
あんたらが出来んかった事を、うちが見といたる。
……ここだけの事やけど、うちもそう長くないみたいやねんな。
せやから、心配事はぜーんぶうちがしょってくさかい。
エンだけやない。“あの子”の分までな。
……せやから、安心して寝ときいや。
}