0-2 寝覚めの一刻
「――やはり……ここで寝こけておったのか」
落ちた意識の中に、声が聞こえる。流れる風のような、綺麗な声がさらさらと。
「起きよ! 起ーきーよ! エン!」
……煩い。
耳元で聞こえたそれを意識もせずに雑音と受け取り、無視を決め込む。私の名前が聞こえた気がしたけれど、私は今は寝ていたいんだ。その意思表示として、少し身をよじるように寝返りを打った。つまらない雑事で私の至福の時間を邪魔されてなるものか。
「起きぬか虚けっ!」
どかり!
「うがふっ」
突如腹部に圧迫感。
押し出された息が吐かれる。眠気は消し飛び、意識までも違う意味で飛んでいった。
「くおお……」
痛い。
耐える。耐えがたい苦痛を耐える。やっとそれが収まって来て、意識が世を捉え始めた。
色を取り戻す世界。視界もまた、形を作り出す。
周囲には、緑色の背高草が生い茂っている。私はその少し開けた所で、寝転んでいた。
ああ、確かにそうだ。私はここで眠っていた。気持ち良く。それを今叩き起こされたんだ。
「どれ、目は覚めたかの」
そして、圧迫の元を見てみると、私の腹に草履を履いた人の片足が乗っていた。
「……寝ている人の腹を踏み付けるのは、道徳上どうなんだろうな」
「案ずるな。お主以外にはせぬ」
その主である彼女は平然とした声で答えた。私には遠慮はしないらしい。酷い話だ。
「で、いつまでそうしている、お前」
腰まで届く、両肩の前で束ねた長い黒髪を風になびかせる彼女の片足は、未だ私の腹の上にあった。最初の衝撃程じゃないにしろ、それは今もぐいぐいと重みを掛け続けている。
「お主がしかと起きておると確認出来るまでだ」
「見て解らんのか。私はもう起きていて、起き上がる為にはその足を退けろ!」
身を起こし掛け、腹に乗っている足を手で払う。だけれどもその手が当たる前にひょいと足を引いて避けられた。
「おおっ、それは失礼したの」
わざとらしく笑みながら言って、だけれどやっとその足は退けられた。くそ、長い袴だったから見えもしない。
それは、いわゆる巫女装束を着た女の子だ。白の小袖に赤の袴。まあそれは特に珍しくもない、見慣れたものだった。なぜなら私の家は、そして彼女は、いわゆる神様に所縁のある所に居るんだから。
そして、このどこか古風な物言い。これこそこの子が自分のお婆から聞き習ったという、この子の一番の特徴だった。
そのまま私は上体を起こす。
見渡すのは、果てまで続く青い海。そして青空。そいつも私の隣に並び、二つの青が交わる所をしばらく眺めていた。
一つ、なだらかな風が吹いた。
「うむ。良い風よの」
言って彼女は大きく伸びをする。そして向かい来る風を全て受け止めるように、両腕を大きく広げた。
「このまま飛べそうな心地がするぞ……」
その気持ちはよく解る。私もよく、ここで吹く風を向かい受けていた。ここには時たま、海の方から強い風が吹く。それを受けると、ふわりと体が浮き上がるかのような感覚に陥るんだ。
だけれど勿論飛べはしない。眼を閉じても、足は地に付いている。その感覚が消える事はない。
私が人間である以上、私に自由に飛ぶ事は許されない。飛んだところで、人間は落ちる。地に囚われる。魚が陸で生きられないように、鳥が地の上では不自由にしか動けないように、人間は空には生きられない。だから、私はまたこの地面に寝転ぶ事にした。
空を仰ぐ。
――鳥であれば、飛べたのに。
翼でもあれば、この欠けた今を変える事も――。
「もう少し痩せていれば、そうかもな」
妙な方向に行きそうな思考を中断する為に、敢えてそんな事を言ってみる。
「儂が肥えておると申すかっ」
案の定、怒号が飛んで来た。おまけに頭も平手打ちされた。というかそちらが声より先に来た。痛い。
だけれどそれで、思考は平常に戻った。もう大丈夫。
「人より軽ければ、という意味だ。見る限り肥えてはいないけれど、それとも自覚でもあるのか?」
言われて彼女は「うぐ……」と口を噤ませる。そう、こいつは、これ以上痩せると病気だと思われないか? と言える程に、身が細く、そして背が低い。おまけに、歳にしては胸も小振りであるらしい。要するに歳に似合わぬ子供体型――なのだけれど、それに関しては私も同じようなものだったので、あまり大きくは言えない。……それなりの歳ではある筈なのにな。
「それよりもなんの用だ。私の安眠を妨害して。つまらない用事だったらいじめるぞ」
妨害以上に、腹を踏み付けられて起こされたんだ。これで余程の事でなければ割に合わない。今度仕返ししてやる。向こうの方が一つだけ年上ではあるんだけど。関係ないなそんな事は。
「修練の時間に遅れそうであったからの。わざわざ様子を見に来てみれば案の定だ」
「修練……」
ああ、そうだった。今日は寺院に行く用事がなくて時間が空いていたから、少し暇を潰しに来たんだけど……潰し過ぎたか。空の日はそれなりに西側に動いていた。
「まったく。一応は大事の前なのであろうが。自覚はあるのかの?」
「まるで私に緊張感がないような言いぶりじゃないか」
まあ、実際あまりないんだけれど。
「実際なさそうだからの」
思った事を、彼女が代弁した。流石は長い付き合いだ。
そう、それはまだ先にある事。今から緊張したって、気が張るだけで何一つ得な事なんてないだろう。
それでも、やるべき事はこなさないといけない。そうやって自身に気を入れる。寝転ぶ姿勢から、地に手を付く。そして背を上げて、すっと立ち上がって。
「う――うん……」
大きく伸びをする。これでいい。これでもうしばらくは頑張れるだろう。
「そうだな、やるべき事はやらないと」
「うむ、精進せよ」
言われなくてもそのつもり。
「さてと、行ってやるか」
そうして、私達は歩き出す。不意に私は、左房の髪を纏めてある白い髪留めの紐を、人差し指でくるくるといじっていた。これは癖だ。昔にこの子から貰った、髪留めの紐を触るのは。
それが一つの日常の形。
あるべきだった、だけれど歪でもあった。
それでもこれは、確かだった。
例え、私の中の一つが欠け落ちた世界であっても。
それでも満足出来るものが、ここにはあったから。
だから――、