1 E3-1 サヅキノさん家の
――サヅキノ トオナの朝は早い。
ちゅんちゅん。
がばり。
こけこっこー。
と、鶏よりも早く起きる事は信条である。
勿論家族の誰よりも早く起きている。
というか、日がまだ顔を出していない。空が少し白み始めている程度が、トオナの目覚めの刻。
着替えをし、身支度を素早く整え、澄んだ冷たい空気となっている外へ出ていく。こっそりと、自分の部屋の窓から。
トオナがこんなにも朝の早い理由。
根本として、それは幼き日の祖母にある。
トオナの祖母は、とても厳しく、とても優しく、
トオナという幼心に、これ以上ない影響を及ぼした人物であった。
「――うむ、今日も良い天気となるであろうな」
と、空を見上げながら一人語るトオナの口調。これはそっくりそのまま祖母の口調が移ったものだ。
祖母が絶対存在である、という事は、この事からでも充分推測出来るだろう。憧れを持ち、自分も祖母のような人になろう、と決意した結果、トオナは幼いながらも古風な言葉遣いを会得するに至った。
祖母は他人だけでなく、己にも厳しい。身を律するという理由で、当然ながら朝もいつも早かった。
となれば。それに見習い、トオナの朝も早くなるのは至極当然の事。
祖母より早くに起きて褒めて貰おう、と幼いトオナの目覚めはどんどんと早くなっていった。
しかし、どんなに早く起きたと思っても、眠っている筈の祖母の部屋に向かうと「おお、今日も早いのう」と、今まさに部屋から出て来た祖母と鉢合わせる、というのが、トオナの経験上最速の記録だった。当時の理想としては、布団で眠る祖母の傍で、「おはようお婆、朝であるぞ」と声を掛ける、それが一つの幼心の到達点だった。
にも関わらず、現状そこへ到達出来る気配すらない。幼きトオナは悩み、ある時に遂に最終手段を取った。実に単純に、夜眠る事なく、祖母の眠りを見計らって部屋の外に居座り続けた。頃合を見て、その計画をしてのけようと。
結果は失敗。祖母の部屋の前、廊下でいつの間にか眠りこけてしまっていた姿を見付かり、「夜はしっかりと布団で眠らねば駄目だ」と長い説教を受けた。おまけに風邪を引いて三日寝込んだ。
そしてずっと祖母に看病された。その間、トオナはずっともやもやした気分だった。
どうしてそんな気分になったか、当時のトオナにはよく解らなかったが。あとになって思う。それは罪悪感というものだと。
叱られた上に、要らない心配をさせてしまった。
馬鹿な事はもうしまいと、大きく反省をした。
トオナの早起きの理由には、もう一つがある。
トオナの祖母は、昔この地域の神社で巫女をしていたという。当然トオナも、そんな祖母のように、この地を治める神社の巫女になりたいと思った。
だが、トオナの両親はそれを快く思っていない。両親は近代、西方よりこの国に入って来た宗教、その教えに従い、教会へと通っているのである。そうして娘のトオナにも、その教えを与えたいのだと思っている。
しかし、トオナの優先順位は、親の教えより祖母の教えの方がずっと上にあった。
祖母が神社の教えに居たのなら、それを継ぐのがトオナの絶対であった。親が、それをやめろなどと言っても弱過ぎる。祖母に間違いなどないと信じている。
朝早くに起きて、親の目に触れる前に、トオナはとある神社の巫女となるべく、日々の務めを行うのだった。
秘密基地、其の三。
その場所はそう呼ばれている。
この地に住み着いて、初めてにして現状唯一の友人達。その二人と共に、勝手に入ってはいけないと教えられている山の麓に勝手に入り込み、そうして自分達の場として、たまたま川の傍にあった洞窟に陣地を定めて、居住の場を作った。まさしく秘密基地。三番目に作られたが故に其の三。
トオナはそこに、白の小袖と赤の袴、いわゆる巫女装束等の一式を隠し置いている。
人が三人、入り込める程度の小さな洞窟。トオナはそこでまた着替えをする。
すぐ近くには川がある。水垢離など、身を清める事も出来た。巫女としての教えは、友人宅――神社でも出来るが故に、トオナはここで、独自に巫女としての心構えを持とうとしている。
日が出て来る前の川である。夏でも冷えるし、冬は身を切る程の痛みにもなる。けれども弱音を吐いた事はない。やめようとも諦めようともしない。お婆もやっていた事なのだ。そう思うと、これしきの事は苦痛でもなんでもない。当たり前の事とトオナは思う。
その思いもあってか、それで体を壊す、という事はなかった。
しかし、体を壊してでもトオナは続けるだろう。
現に、この日課は始めてから一日も休んだ事はなかった。
――日が、山の頭から顔を出す頃。
川原の砂利の上にござを敷き、正座の形をしていたトオナは、立ち上がって、秘密基地に戻る。
この頃が潮時だ。トオナは二人の親が、日が昇って来た少しあとに眼を覚まして来る事を知っている。
この事は、神社の巫女となるべく行なっている事は、両親からは許されていない。
少なくとも、今こうした行為を発覚させる訳にはいかない。
すやすや健やかに眠っていて、両親が目覚め動き始めた少しあとに、のっそりと起きていって、眠そうに「おはようぅ」と言わねばならない。
後ろめたくはない。茶番だとは思うが。
けれども今邪魔をされる訳にはいかなかった。
――お婆のようになる。
その絶対目標の為に、嘘も許されるべきであると、己に幾重にも言い聞かせた。その為に茶番を演じる事など、なんでもない。儂は朝が弱いのだと、そう思っていて貰わねば困る。
巫女装束から元の服へと着替えをし、その巫女装束は再び秘密基地の奥へと仕舞われた。
――また明日。その巫女装束を着る事になるのだろう。その次の日も、そのまた次の日も。恐らくそれは、自分が納得出来る日が来るまで、ずっと。
そう思いながら、今日もまたアサカエの神社に赴こう、と考えるトオナだった。