1 E1-2 背高草の音色
背高草の海。
そこは私が見付けてそう名付けた所だ。神社から出て、海に近い所にそこはある。名前の通りに私の背丈程に高く生えている草原。その隙間からは、遠くにまで真っ青な海と空が見渡せる。
「……まあまあ、か」
吹き抜ける初夏の潮風が、体に篭る熱をさらっていく感じがする。普段は暑さを感じるようになった日差しも、今の私には丁度いい浄化の光となっているようで。
「ああ駄目だ」
ばたんと、草原の真ん中で寝転ぶ。不思議な事に気持ちの悪さも消えていて、風邪っ引きだという事さえも忘れてしまうくらいだ。
目を閉じると、景色の青が黒に変わる。そして意識も、黒の中に溶け落ちていくように。
・
……何かが、私の傍で喋っている。何かが、私の傍に居る。
だけどそれ以上の難しい事は考えられず。そして世の色は、未だ黒のまま。
――不思議な事に、意味は解らずとも言葉は届いた。そして眠る私の横で、それは聞こえた。
{
ゆらい行き 月日
天き揺り 白草
この羽包み 雛
こち寄りと 名呼び
ゆらい行き 水菜
軟い撫で 梳き風
魂と眠り 夢囃子
言葉聞きいいて 鳴いたう
こち見やれ 余見やれ
揺らひ雲 端見て
そち見やれ 共見やれ
揺らひ草 海の葉
}
「……上手いじゃないか」
閉じていた眼を見開き、隣に座っている歌の主のトオナを見やる。最初に見えたのは驚きの顔だった。
「っ――んい、いあ――いつから、聞いておったっ?」
身を引き、どもる声が返って来た。余程動揺しているのか。
「歌の初めからだな。トオナにこんな歌が歌えるとは知らなかった。どこの歌なんだ?」
「あっいやこれっお主……」
凄まじく言葉が詰まっている。どことなく顔も赤いように見えるけど……。
「何かまずかったか……ああそうか、まだ他人に聞かせるのは恥ずかしいと。だから寝ている私を練習台に――」
「ふい――いやっ、そうではない……」
否定するけれど、しかしうろたえぶりが、そうだと肯定している。
悪い奴だ、私も。解っていて苛めているんだから。
「まあ練習台はともかく、いい歌だったぞ。寝ていてもはっきり聞こえるなんて初めてだった」
「そう、では……」
「素直に褒めているのに。素直に受け取ればいいだろう」
「うう……」
まあ、聞かされたからには賛辞を送ってやる。そうすると、しばらく真赤な顔でばたばたとしていたのだけれども、やがて観念したのか。
一息吐いて、
「いや、それも近いか……」
「何がだ?」
「練習台だ。まあ、良い。構わぬ……」
そして語った。
「旋律はお婆の歌のものだ。それはずっと昔から聞かされておった故な。
初めて聞いた時の思いは忘れられぬ。それまで聞いた事のない、とても綺麗な音だった。
……だが歌の方はその時、一度聞いたきりだ。お婆は旋律はよく口ずさんでくれたが、その内容は教えてはくれなんだ。幼い頃の一度きり。記憶にはない。憶える間もなかったのだ。
儂は何度もお婆にせがんだ。あの歌を歌ってくれと。意地悪をしておるのだと泣きそうになった時もあったな。そうまでしても、お婆は只笑むだけで――」
{
「これは儂だけの歌だ。だがこの旋律はトオナにあげよう。お主が歌が欲しいと願うのであれば、この旋律でお主だけの歌を作ると良い。そうして出来たお主だけの歌は、いつかお主と、お主の一番大切な人にだけ、歌ってやると良い。
済まぬが……儂の歌は古い。もう聞かせられる人がおらぬのだ。だからもう、トオナであっても、聞かせてやる事は出来ぬ」
}
「そう諭されたのだ。……その時に言った聞かせられる人というのが、お婆の伴侶の事なのだと知ったのはそれから随分あとの事だったが。その頃になって、やっと儂は歌を聞きたいでなく、作ろうと思うようになったのだ。あの時の儂にとって一番大切だった人、お婆に一番に聞かせられるようにな。結局聞かせる前にお婆は、隠れてしもうたが……あの時程の後悔をした事は、儂にはない」
……そうか。
お婆の事は、私も良く知っている。エンも同じく。だけど、私の知る中では、あの頃に一番お婆と縁深かったのはトオナの筈だ。なにせ実の祖母なのだから。
「だからそうだの、聞かれてしまったものは詮無い」
「んあ、何がだ」
「折角作った歌なのだ。このまま埋めるのは……」
あとになる程、声が小さくなっていった。後の方は、聞こえない程にぼそぼそと……小さ過ぎる声が聞こえた。
「んあ? 何が埋めると?」
察しは付いた。付いたんだけど敢えて聞き返す。聞こえないふりで……本当に悪戯心だった。
「少なくともエンは大切な人という事だっ」
顔を真赤にして、そっぽを向きながら怒鳴るようにそう言った。うん、可愛い奴だ。
可愛いから、その頭をわしゃわしゃと撫でてやる。
「んわあっ、やめぬかあっ」
抵抗。だけども嫌がるようなそぶりでは、なかった。
「……なあ」
序でに、無駄だろうけれど一つ問うてみる。
「……なんだ」
「歌、もう一度聴きたい」
「絶対に嫌だ」
そうだろうな。伝え詠とは言え、確かに自分の作った歌を聞かせるのは恥ずかしいだろうし。だけど、
「いいだろうが減るものでもなし」
「減るわ」
「何が?」
「……、何かがだ」
「あのな、私は病み上がりなんだぞ。もう少し労われ」
「嫌と言ったら絶対にいーやーだー」
強情な奴。
でも聞きたい。
あんな綺麗な歌を、どうしてもまた聴きたかった。旋律を憶えたかったんだ。だから、
「ならいい。寝る」
ばたんと、身を後ろに倒す。草原が、私の身を包んだ。
「まだ寝るのかっ?」
「起こさなくてもいいからな」
そうして。
本当に寝た。
不貞寝だった。
少し揺さ振られたり、耳元で騒がれたりしたが、それもすぐにこちらで閉じた。
意識は閉じて、また黒の中に居た。
だけどそれでもいい。
黒の中に、今までと違う部分が確かにあった。
「……詮無い奴、だの」
今日は良く眠れている。
本当に、あいつの歌はよく耳に響く――。