1 E1-1 ある幼少の日
連載中ですが、ここで少し番外編のお話になります。
彼ら彼女らのもう少し細かいお話を記そうと思います。
本編の補完と思って読んで貰えれば幸いです。宜しくお願い致します。
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馳せる思いは、雲に乗って、
いつか、真空に届く。
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ある日ある時。いつものように神社に顔を見せに行ったはいいが。
「また在奴はここにおらぬのか」
その神社にエンの姿が見当たらぬ。母屋も本殿も、蔵の所にも在奴はおらんかった。
「どうしましたトオナ」
話し掛けて傍に寄って来たのは、この神社の秩序であるハトリだ。エン達の、母親でもある。
「やけに辺りを気にしているようですが……何か?」
「おる筈の者がおらぬ。また在奴はやるべき事を怠けておるのか」
「おる筈の者……」
ハトリは頬に手をやり、少し顔を傾げて考え込む。
「エンの事だ。在奴がどこにも見当たらぬ」
「ユエンですか。今は風邪を引いて寝込んでいる筈なんですが……」
「まったく毎日毎日――これは一つ折檻でもしてやらねばならんのではないかの?」
「そうでもないですよ。あの子は飲み込みが早いですから。怠けるという事はそれ相応の考えがある筈です」
考えがあるならば、もっと真面目にだな。こんないい加減なままで神社を継ぐつもりなのかの。
ハトリは、何か考え込むように目を閉じて。
「ユエンがそうなら、トオナもそろそろですね……」
薄く目を開き、そして儂をじっと見やって言った。
「は、そろそろ、とな?」
一体何を言っておるのか……と思っていると、ハトリは小さく笑んだ。
「知っていますよ。トオナが今まで、ひっそりと巫女としての修練を続けていた事を」
「な……知っておったのか」
言っておらぬというのに。知っているのは、最も近しい友、エンとシエンしか、この事は知らぬ筈。まさか――いやまさかだ。秘密としておる事を、彼らが言う理由がない。
「川のほとりでしょう? そこに住まう、川の姫に教えて貰いました」
「川の姫……」
水妖の類――妖怪山にはそんな妖怪も居る事は知っておる。
だが会った事はない。その川の姫とやらは、どこかでこっそり儂の事を観察していたというのか。そうしてそれを、ハトリに伝えたと。
「川姫ミヅチカヅチ。貴方がもしも私の継ぎとなるのであれば、そうした妖怪の事も知っておくべきでしょうね」
妖怪、か。
巫女となるからには、いずれそのような妖怪とも相まみえる事もあるのだろう。
……そんな妖怪も、儂は御さねばならぬのだろうな。ハトリやお婆がそうしておったように。
うむ、お婆もして来た事。となれば良し。やる気が出て来た。
「解ったぞハトリ。学んでいけば良いのだな」
「とはいえ、勝手に山に入るのはご法度ですよ。理由があるとはいえ、です」
うう……注意をされてしもうた。
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ワヅチ正暦、一〇一六年。
それは、まだ何も知る事のなかった時。
それは、私の知り得る、
幸せというものだった。
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「ごほんごほん!」
朝から何度も咳が出る。寝床で布団に入ったままでも容赦なく。
「……ああもう」
完全に風邪だろう。頭がぐらんぐらんとする上に熱もある。悪寒もするし、水も幾らも飲んでも落ち着く様子がない。
ここ数日。人に病を移さないようにと、母さんから言われて自室で寝込んでいる。
ずっと寝ているしかない。食欲も湧かないのだけど、無理にでも食べとけと父さんからもきつく言われている。
「……死んでしまうかも知れないな……」
口に出してしまって、そのさまを想像してしまう。気力が弱まっているという事もあるけれど……。
……死んだらどうなってしまうのか。
それは生きている間には決して解る事のない、永遠の課題だ。
眠った時には、意識は殆どなくなる。妙な夢を見るのが精々の意識だろう。
妙な夢とは。夢の中で、これは夢だと気付く事もあるのだが、そんな状況になるのは珍しい事だ。
……死んだならば、脳も体もなくなってしまう。
考える意識がない。永遠に真っ暗の中で、何も考えられなくなってしまうのか。
……死んだら意識は天国や地獄に行ってしまうという話もあるけれど。
神社の息子としては、黄泉の国に行く事になるのだと、そう思うしかないのだけど。
「……ナトセお婆……」
何年も前に亡くなった、私のではない、トオナのお婆の事を思い出す。
今例えば、病気で死んだとなれば、お婆の所にでも行けるのかな。
――ああ駄目だ。静かに寝ているからか、考えている事が全部弱気な方へと向かってしまう気がする。
「……水……」
考えても詮無い事。ならばここは今出来うる事をやるしかないのか。
と、身を起こして手を椀の方にやる。しかし、その椀に水はなかった。
全部、飲んでしまっていたか。
詮無い事。水を貰いに行かないと。序でに厠にも行かないとだ。体は弱っているけど、飲みたいものは飲みたいし、出したいものは出したい。
寝汗でにじむ寝間着姿で、椀を持ち部屋を出る。体はふらふら、足もふわふわした感じだけど、なんとか台所の方に向かう。そこに井戸から汲み上げて保管していた水がある筈。
「あ、大丈夫ですかユエン」
母さんと鉢合わせ、心配の言葉を掛けられる。
「……頭痛い。お水を……」
椀を差し出す。冷たい水、熱を中和しない事には病気にやられてしまいそうで。
「それはいけません。すぐに用意を」
母さんが椀を手に取る。水の入ったかめの蓋を開けようとして、少し止まった。
「丁度いいです。今栄養たっぷりのお茶を淹れてみたんですけど」
「んえ……?」
……お茶。母さんが“淹れてみた”というお茶。
それが入っているのだろうやかんと、湯呑を母さんが持つ。
「飲んでみて下さい。恐らく風邪に効く筈ですよ」
それは実験台に他ならないのでは? 言葉の通り栄養はたっぷりだとしても。
「いや、私は水だけで」
「……」
無言の母さんの顔が、少しずつ悲しい表情に変わっていく――。
「いや済みません頂きます」
母さんの顔が元に戻る。流石に今弱っている私でも、母さんの変化くらいは解る。
「それでは淹れますね。少し待って下さい」
傾けたやかんの口から、灰色っぽいどろりとした液体が湯呑に注がれていく。
……なぜにお茶が灰色なの? どうしてそんなに水気が薄いの?
「病は気から」
そして湯呑が差し出される。受け取ったそれは、ほのかな熱を発していて。
「根性、です」
根性が要るのはこのお茶に対してだ。
というかお茶なのかこれは。見た目だけなら、単なる怪しげな液体。病気が悪化しそうな気がしないでもない。
……いや、逆に薬になるのかも。
毒と薬に大した違いはないと言うし。
だけど――この色。
試したくないなあ……。
当たりの可能性もあるけれど、分が悪いしな……。
だけど、
じー……と。
いつもの表情から覗く、期待の目線。
裏切る訳にはいかない。
――。
よし。
覚悟を決めた。
「頂きます」
どうせ今死にそうな状態なんだ。最悪それがまた死にそうな状態になるだけで。
手元にある湯呑。その中身を思い切って、ぐい、と――。
「あうう……」
やっぱり、無理なものは無理だった訳で。
ふらっふらになりながら、なんとか自室に戻れはした。だけど、まだ頭がぼうっとする。でも不思議なもので頭痛と悪寒は和らいでいた。あの喉越しの感覚と気持ち悪さが付加されてしまったという問題はあるけど。
先程のお茶の効力で病気が中和されたのか。そして新たな症状が現れてしまったか。解らん事だけど、布団を抜け出る程度の気力は戻って来ている様子で。
「……まあ、いいのか」
ずっと部屋の中というのも気が滅入る。何よりまた嫌な事とかを考えてしまう事だろう。なら気分転換をするのも悪くはない。
思い至って、熱の篭った衣を着替えて、表に出る事にする。目指す所は勿論、私のお気に入りの場所である、あの場所――。