-2-43 一、一六識
―――
誰かが、話し掛けて来る。
それが解ったから、私はゆっくりと目を開けた。
目覚めは、明るい。
その部屋は、明るかった。
中に居るのに、空が見えるよう。
ここは、天国かも知れない。
そんな馬鹿な事を、思った時。
「起きたか」
そう、私に語り掛けて来るものがあった。
その方を向く。すらりと背の高い、女の人が私を見下ろしていた。
「貴方は……誰?」
難しい表情。その中に浮かぶ、少しの戸惑い。
やがてそれは、無理をするような――そう、不器用な笑顔を見せ――、
「先生」
それだけを、答えた。
センセイ――うん、先生。それは似合っていると思う。
眼鏡を掛けているし、大人っぽい。難しい表情も、
んあ……?
先生というものは、そういうものなのだろうか。
……解らない。
でもセンセイは、先生が合っている。……気がする。
その人は、多分そういうものなんだろう。
「……私は一体」
誰だろう。ここも、どこなのだろう。
綺麗な部屋には見えた。だけど考えても、どう考えても私がここに居る理由が解らない。
ずっと考えていると、不意に、小さな声が聞こえた気がした。誰かの、笑うような泣くような、それも解らない小さな声だった。
「誰か……居るんですか?」
「んあ……? なぜ、そう思う?」
「何か、声が聞こえたんです。泣き声みたいな」
先生は、少し言葉に詰まったようだった。私の問いに、すぐには答えが出ない様子で。
「お前には関係ない。あれの事は、別だからな」
「そうですか……」
でも、すすり泣くような声は、ずっと聞こえて来る。それを聞いている事が、妙にもどかしい。
「でも、出来るなら、慰めてやって下さい」
女の人が泣くのは、多分、つらい事があったからだ。……と思う。解らないけど、そんな気がする。
「ふう……酷な事を言うな。お前は」
「んあ?」
酷……? どうしてそうなるのだろうか。
私は只、気掛かりで言っただけなのに。
「いや、そう思う事は優しい事だ。だがな……」
一つ息を置く。そして、
「憶えていろ。優しいだけでは、人は容易く傷付く」
言って、先生は部屋を出て行った。
……どういう事だろう。先生の言う事は、難しい。
でもそれは、到底間違っているとは思えなくて、なんとはなしに、納得していた。
優しくしているだけでは、多分駄目なのだ、と。
うん。一つ賢くなった。気がする。
先生は、十分程度経って戻って来た。
「さて、気分はどうだ。違和感などがあるならば言っておけ」
親切……というには淡々とした物言いだったけれど。
だけど、違和感か。それならば、目が覚めた時からずっとある。
「……私は、ここに居ていいんでしょうか」
「何?」
私には、今しかない。私には何もない。
私が私であって、他の誰の顔も、私の中にはない。なのに私はここに居る。先生が、見てくれている。
「目覚めて後悔するなら、そのまま眠っていれば良かったんだ」
目が覚めた。
それはつまり、それ以前があるという事だ。
……ないのに。
何をどうしても、以前が浮かび上がって来ない。
私は――まあ姿見を見た限りでは、十四、五、六辺りだろうか。つまり今以前に、それと同じ程の何かがないといけない訳で――まさかいきなりこんな姿で生まれて来た訳でもないだろうし。
「……私は、誰なんですか? 名前は?」
だが今の私には、歳がなかった。名前も、何者なのかも、この頭には入っていなかった。
「……お前の名は――」
……告げられた名は、やはり覚えのないものだった。
だが先生が言うのだから、それが正しい名前なのだろう。
エン。
アサカエ エン、と先生は言った。
……だから、それが私の名前と信じた。
私の形であり、私の意思であり、私が生きるべき命の証明だと。
過去編第二章、終了です。
過去編一章にて嵌まらなかったピースが、ここで大分埋まった事になります。
あとは生きている人達が、どのような先を紡げるのか。その鍵となるお話を現在構想中です。
どうぞ宜しく、お付き合い頂ければ幸いです。