-2-39 それぞれの終わり
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あの人が――エンちゃんのお母さんが目を覚ましたと聞いたのは、あくる日の、日が沈み掛けた頃の事だった。
私にだって、部下は居る。その部下に医師と偽らせて――ちゃんと医療の知識はある者だけど――お母さんの状態を見ていて貰っていた訳で。
――私がそのお母さんの病室に着いた時、お母さんは寝台の上で上体を起こしていて、病室の窓から外を見ていた。……その傍には、なぜかリーレイア・クアウルが居て、お母さんの方をじっと見ていた。
赤い日の光が差し込む、窓の傍。夏の、夕暮れ時の事。
「ようやく来たか」
そんな事を、リーレイアは言った。そして煙草を取り出し、仮にも病室内なのにそれを吹かそうとする。
「……なんであんたがここに」
「見舞いに来た――と言えば信じるか」
「信じませんよ。そんな良心があるとは思えませんし」
「正直で結構。正しく言うなら、見張りだよ。私の役目は」
見張りね。本当いろんな事に首を突っ込んでくれる人だ。人嫌いの癖をして。
「……おっかさん」
手を伸ばす。肩を揺さぶって、気を向けさせようと、
「触るな」
しようとした時に、リーレイアが一言制止した。
「……なんで、そんな事を」
「ささやかな忠告だ。万一という事もある」
万一なんて、まさか。
「服越しにも感染が起こるかは解らんがな。試してみたいとは思わんが」
お母さんが、感染?
ある程度の情報は聞いているけど、目の前のお母さんの姿は、普通の人間、そのままに見える。人を襲うという前兆も、見られない。狂気病と言っても、疑わしく思える。
……そもそも動きが殆どない。お母さんは、窓の外をずっと見続けていた。
「……おっかさん」
寝台の横から、呼び掛ける。だけどお母さんは、まるで私の声が聞こえていないように反応がなかった。
「おっかさん?」
更に呼び掛ける。私の声に、お母さんはこちらに向き掛け――だけど完全には私の方を見ず、真っ直ぐ前の方を見る、みたいな形を取った。
「気、付きましたか?」
心ここにあらず――そんな表現がぴったりだと思った。
「あっし、リイ・ラハイムです。エンちゃんの友達のお」
考え込むような仕草。そこから一つ、ゆっくりと、うんと頷いた。
良かった。意識は復活しているらしい。エンちゃんの姿がない今において、これはほんの僅かな救い――だが未だ、心身は喪失している状態。
一言で言うと、危ない。生気がないのだ。
気配がうっすらとしている。心が、宙に浮かんでいるかのように薄い。無理もないか。彼女は狂気病相手とは言え、一人、或いはそれ以上を殺している。
……あの優しかった、人に傷さえ付けなさそうな、この人がだ。
法的には問題はない。相手が狂気病であると確認されたなら、命を奪ったとしても正当防衛にはなる。奴らを治す手段はないからだ。……問題なのは、別の事。
「私は、どうしてここに居るんでしょう……」
一言、お母さんが呟いた。
息が、詰まる。その問いに答えるには、あの事実を改めて突き付ける事になる。
いいのだろうか、それは。
殺した事が問題ではない。法的には彼女の身柄は保障されている。……だけど、問題なのは、
「言ってやるといい。それが望みだろう」
リーレイアは認めた。
「……なら言います。けど、気は落ち着けて下さいねえ」
彼女が殺す事になった、その相手。
アサカエ家で発見された生存者は二名。当時家に居なかったエンちゃん――シエンと、ユエンを除いて。
そして生存者の一名、片方は、事が終わったあとに現れた通報者であり、直接の被害を受ける事はなかった、サヅキノ トオナ。
つまり残ったこの人が、夫であるアサカエ メイスケを――。
「あは、あはははは――」
笑うような、泣き声が。
彼女は、穏やかだった彼女は、
もう、どうしようもなく壊れていた。
仕方のない事と思う。私のように、覚悟をして自らを壊した人じゃあない。
この人は、ついこの間まで、普通の人間として世を過ごしていたのだから。耐性なんて、強い筈がない。
「落ち着いて下さい。仕方のない事です。見立てですけどお、貴方が身を守る手段は、限られていました。
生半可では対抗しきれません。感染する危険もあったんです。“なってしまった”ものに対抗するには、あれくらいの長物しか手近にはなかったんです。おっかさんは、悪くはないです。狂気病に囲まれて、……それがおっとさんであって、それでも仕方のない事だったんです。法的にも、正当防衛になります。それに、ユエン君も無事で――」
よくもそんな出任せが言えるな、我ながら。あれが無事なんて楽観もいい所。
――そして、ここで致命的に誤った。
――言えなかった。
騙しておきながら、口に出せなかった。
――エンちゃんが、
「……ユエン……?」
私の、友達。
私が、一番に口に出すべき、心配するべき人物――。
アサカエ シエンが、無事であると騙れなかった。
「っ……!」
なんて間抜け。ここまで――今まで人々を騙しまくっておいて、リイ・ラハイムは詰めを一つ誤った。そして酷い事に――自分でそれを認めてしまった。その先を、何も言えなかった事によって。
「……シエン、まで……?」
お母さんが、私に顔を向ける。真っ黒い、影の色のような顔。
そう――アサカエ シエンはもうこの世に居ない。
ここでごまかす事は簡単だ。だけど、所詮は嘘だ。うかつな嘘などすぐにばれる。
どうしようどうすればいい。
そう考える事、長い沈黙が、そのままこの人への答えになってしまう。解っていても、言い出せない。……最初に騙れなかった時点で、全て手遅れだったんだ。
目覚めた時から、虚ろな目をしていた、その目が更に深く、暗いものに見えていたのは、きっと、間違いじゃあなかった。
「あは――あははは――」
唐突に、笑い出すお母さん。
……もう駄目かも知れない。こんな心持ちになった状態の人間を、私もよく知っている。
「……みんな――みんななくなってしまう――」
現実を、認めたくないんだ。あの時の私か、それ以上に。
「わたしの、かぞくが――」
「違いますおっかさん。おっかさんにはまだユエン君が居ます。あの子を一人にしちゃあ駄目ですって」
そんな、僅かばかりの慰めの言葉――。
だけど、
「ユエンが、居ても――」
「ユエン君が、居ますよお」
そんな言葉に、お母さんは顔を振り、両手を上げて、手のひらを眼前に持っていく。
「私はもう、子供を抱き締めてやる事も出来ないんですよ……」
手を見つめながら、お母さんは言った。その言葉の意図が、すぐには解らなかった。
「私はメイスケに触れています。“現れない”のは、巫女の力か、それとも偶然かのどちらかでしょう」
――理解した。瞬間、思いもせずに身を離してしまう。狂気病、感染、そんな言葉が頭をよぎった故に。
「……いい反応ですね」
こちらを向いて、悲しい微笑が返って来た。
「安心して下さい。貴方方の手は煩わせません」
布団を上げて、おっかさんは立ち上がった。
何をする気か、こちらにゆっくり歩んで来る。勿論、今触れる訳にはいかない。狂気病の可能性がある以上、触れてしまえば私まで感染してしまう危険がある。
おっかさんが、ゆっくりと病室を出て行く、それを止める事は、私には出来ない。
「ま、待って下さい、おっかさん!」
追う。だけど止められない。お母さんの言葉が確かなら、触れる事は出来ないから。
そして、おっかさんが行き付いたのは、病院内の台所。
そこには勿論――具材を切る包丁が。
「……罪は全部、私が持っていきましょう」
おっかさんが包丁を持ち上げる。
制止の声。
その瞬間に、首元から朱が吹き出ていた。
穏やかな顔。
死の間際の美しさ。
その目は、もうどこにも向けられていない。
どこにも向けず、彼女は微笑む。
あの時のような、
安らかな、
二度と、崩れない顔――。
・
あの顔は、今でも強く目に焼き付いている。まるで呪いのように。
彼女は、目覚めたその日が、命日になった。
アサカエ ハトリは、その当日、狂気病に侵された数名と、夫であるアサカエ メイスケを殺害し、
その四日後、意識を取り戻したその日に、自害した。
すべては過去の事だ。どうやっても取り戻せない。
――取り戻せない、といえば、彼女の事もそうだ。
リリムラ クグルミは、本当虫の息みたいだった。
エンちゃんが消えて、すぐに人を呼んで、治療をさせたのだけども。
虫の息が、幾つか日を挟んで、小さく穏やかな息に変わっていった。
だけども。彼女は元には戻らない。
意識は戻った。はっきりと話もした。
だけど右目は、もう一生経っても治らない。
治せないし、戻せない。大穴が開いて、例えそれが埋まったとしても、その眼は何も映しはしない。ずっと痛いと言っていたから、いっそ、傷付いたそれを完全に取ってしまった。
「――変な、気分ですわ」
寝床に臥せって、彼女は宙に手をかざして、それを左眼と、空っぽになった眼で見て言った。その手を右目のあった所にやると、人差し指が、少しだけそこに埋まった。
彼女には、この顛末はまだ何も言っていない。彼女がまだ訊いて来ないのだ。
“あの子”の名前も、彼女はまだ口にしていない。
意図的に口にしないのか。頭からすっぽり抜け落ちてしまったのか。それとも知っていて、もう聞く必要もないのか。
解らない。片目がからっぽになったからか、彼女の表情から思考が読めなくなっていた。
知ったなら、彼女はどうするだろう。
知っていたら、彼女はこの先どうするだろう。
解らなかった。
――こうなった責任は、私にもある。
あの時、アサカエ シエンにもっと強く警告をしていたなら。
狂気病になった者の動向を、もっとしっかりと調査していたなら。
最後に会った時、アサカエ シエンを無理やりにでも止めていたなら。
……全部、今更だ。止められなかった。その結果が今ここにある。
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