-2-38 季節前 三つ
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あの日の事は、今もはっきりと覚えておる。雪がしんしんと降る、寒い日の事と。
「ハトリよ、用事とはなんなのだ?」
その日、巫女見習いとしての事を終えて、儂はアサカエ神社の本殿の中へと呼び出された。
「……来ましたか。トオナ」
暗く厳かな空気の中、後ろを向いておったハトリが、ゆっくりと振り返る。その手には、細長い棒のように見えるものがあった。
「それは?」
「そろそろ貴方にも、見て貰った方がいいと思いまして」
手に持っておるそれを、ハトリはじっと見る。それを床に置いて、おいでおいでと儂に手招きをした。
「一体、何を?」
床に置いてあるそれを、じっと見る。ハトリの表情が――少しいつもより硬いものに見えた気がした。
「これが、アサカエのご神刀。魔を断ち祓う、神様の刃です」
少しだけ、ハトリはその鞘を上げる。見えたのは、銀色に鈍く光る刃の部分。
「お婆も、巫女でしたから。この刀で妖怪退治……斬り捨ててはご免を繰り返していたそうです」
「お婆が……!」
お婆も使っておったもの。成程それは大いに興味がある。食い入るように、その刀に目が引き付けられた。
「名は、なんと申すのだ?」
「桐生剣です。お婆はこれを、自在に振るっていましたよ」
「……これは儂にも、いずれ扱えるものなのだろうか」
そう、おずおずと訊いてみると、ハトリは鞘を納めて、儂の方を見て少し笑った。
「……そうですね。これで妖怪退治をする、トオナも見てみたいかも、です」
「今更……目録まで持つシエンや、エンのように扱えるとは思えぬのだが」
「修行、あるのみです。トオナは……見立てでは多分、筋がいいですから」
そういうものなのかの。まあお婆も使っておったとなれば、振るってみたいものだとは思うたが。
不意に、ぶるりと寒さが来る。外では雪の降る寒さ、裸足で木の板の上に居るとなると、身も凍る程の、という例えがよく当て嵌まる。
「寒いでしょう。暖かい所で、お茶にでもしましょうか」
ハトリは小さく笑って、刀を本殿の奥に仕舞い込んで、儂に外に出るよう促した。
……お婆も持っておったという、あの刀。
儂もいずれ、あの刀を持てるものと、ハトリは言っておった。いずれ妖怪と戦う日が来るかも、とも。
お婆もやっておった事。儂はまだ、その域に行けるものとは思うておらんかった。だが、そういう事なら思わぬ訳にもいかぬ。いずれそれを持つ日が来るのだと。お婆に近付くという目標が、また一つ出来たのだと。
――そう。あの時はまだそれしか考えてはいなかったのだ。
お婆に近付く。それが最も強い行動理由であって、
神社の為、近しい者達の為と思う事を、すっかり忘れてしまっていたのだと。
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――その工房に足を運んだのは、これが初めてだった。エンちゃんの元師匠である、リーレイア・クアウルの工房。
寺院の中は一通り把握していたけど、
「こんな形で、来るなんてねえ」
リイ・ラハイムとしてここに来るとは。エンちゃんと付き合って来た間さえ、私はここにだけは接点を持つ事はなかったのに。
なのに今来た。理由は一つ。リーレイア・クアウルに、事の次第を話すように伝えられたからだ。
――そう。私が最も近くに居た、アサカエの現状を話せと言われて。
こんこんこん、とその戸を三回叩く。
「――いいぞ。勝手に入って来い」
そうリーレイアの声が届いた。
「失礼しまあす」
入る。寺院の中ではあったけど、この工房だけ見ると西方風のものだけが目に付いた。
「時間通りじゃないか」
リーレイアは大きな机の椅子に座って、煙草を吹きながら、分厚い本を読んでいた。没頭している様子で、こちらには目もくれない。
それは褒められたものかどうか。他の事に興味を持たないリーレイアの態度を見る限り、人に優しくするという概念自体がなさそうだ。
「あのですねえ。一応こちらはお客様として来たんですけど」
「知っている。私が呼んだのだからな」
横柄な態度も解り切っている事とはいえ、やられる側としてはあまり気持ちのいいものじゃあないな。
「わざわざ来たんですから、お茶の一つでも淹れてくれればいいでしょうに」
「飲みたければ勝手に飲んでくれていいぞ」
「とことん人に興味を持たない人ですねえ」
「世間話も間に合っているぞ。まあ、来る弟子は減ったがな」
肩の荷が少し下りた。そう言いたげに、リーレイアは言った。本当、人がどうなろうと知った事かと言わんばかりに。
「彼の容態は?」
私は話を戻す。こいつの人格を論じても仕方のない事だし。知るべき事は別にある。
「酷い……が、案外持ち堪えるだろうね。死体は?」
「そのままのが一つ。一部だけなのが一つ。それと、もう一つ」
「死んだのか」
「……見られずには、出られないでしょうしねえ。結界で塞がれていましたし、“塔”でも動かない限りは」
……自分で言っておいてなんだけど、それはつまり確定と言うのだ。あの“塔”が動く事はあり得ない。もしもや奇跡的になどは絶対にない。死んでいるものは動かないのだから。
この一件で、アサカエの一家はほぼ全滅。
……いや、レイハと言う女――彼女の伯母を除けば、もうすぐ全滅か。
「母の方も、一応は一命を取り留めている。が、どうだろうね。よくあるだろう? 生きる気力がないと病気に負けるって」
リーレイアの言う通り。それは今こそ当て嵌まるのではないか、と思う。
あの母は、果たして生きるつもりがあるのだろうか。
そして彼も。
どちらも、己にとっての最大をなくしている。自分の手で、それを落とした。
「いずれ目は覚めるだろう。が、現実に目覚める事は出来るかな」
どちらとも、実は身体的には持ち堪えている。母に至っては傷すらない。
彼女らの眠りは、言わば否定。心の底で、望みを抱いて気をなくしている。
起きるのが怖い。いや、目が覚めて現実を直視させられるのが怖いのだ。だからこそ、まだ起きないでいる。決して叶わないだろう、一縷の望みを残して。
「……あっしも、どうにも出来なかったからさあ……」
「そりゃあそうだ。どうにか出来る方がおかしいんだからな」
正論だ。正論だけど、それを淡々と言ってくれるリーレイアの神経もどうかと思う。
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いつか、見せて貰った刃。
お婆も振るっていたと言う、銀の刃が、
朱く。それを持つハトリと共に、朱色に滲んでいた。そして道場の床も、朱にまみれていた。
「あ……はは、ははは――」
――乾いた笑い声が、道場に響いた。
認めたくなかった。
信じたくもなかったが、ハトリは、その刃で、メイスケを、斬った。
斬らざるを得なかった。でなければ、メイスケは更に被害を広める事となっただろう。
だがそんな事。そんな残酷な事が。自らの手で、連れ合いを斬るなんて。
「……ごめんなさい。メイスケ」
亡骸を前に、ハトリの、刃を持つ手がゆっくりと上がって、
その刃を、自分の首元に添えるようにして――。
だが、
「ハ、ハトリっ」
見てしまった。ハトリが、恐らく自害しようとしているさまを。
「ま、待つのだハトリよ!」
大声で呼び掛ける。だが、近寄る事が出来なかった。
ハトリのその傍らに、メイスケの体があったからだ。黒く変色した体が。
「……寄っては駄目ですよ。トオナ」
いつもの優しい声で、そんな突き放す事を言う。
「貴方までこうなったら、お婆に合わせる顔がありません」
「嫌だ! ハトリまで居なくなったら、エンはどうなる!」
……自分で言っていて、少し驚いた。お婆の事を言われて、それを第一と考えなかった自分に。
そう。お婆の事を言われたとて、儂はこの家族が、なくなる事に耐えられずにおる。
寄ろうとする、儂にハトリは刀を向ける。桐生剣を真っすぐに向ける。それは前に見た、シエンの必殺の型である虚御の型のように。
「寄らば、斬ります」
その顔は、まるで仮面を被っておるようだった。かつて儂に向けていてくれた、優しい微笑みはまるでない。
只、それは黒く重い悲しみをたたえておるだけだった。
「お願いです」
「……それでも、嫌なのだ!」
お婆が隠れたあと、ないに等しい家族の温もりを与えてくれたのは、このアサカエの一家なのだ。それが唐突になくなるなんて事、あって良い筈がない。
だから、近付く。一歩、一歩と。突き出す刀の、真ん前まで。
「っ――」
ハトリが、顔を歪める。儂が寄る事に、ためらいを感じておる。
そう。斬るならば斬るが良い。その覚悟を持って、儂は接しておるのだ。
あと一歩。一歩寄れば、あの桐生剣の範囲に入る。
「……ハトリよ」
斬られてもいいと思っておった。同時に、斬られる筈もないとも思っておった。
だって、ハトリは優しい人だ。でなくばメイスケの為に、黄泉路を共にしようなどと思える筈がない。
「儂には、お主が必要なのだ。母の代わりとなってくれた、ハトリが」
儂を、教え導いてくれた人だ。儂の言葉が、聞こえぬ筈が――。
その時。
外から騒がしさがやって来るのを感じた。
役人達が、道場になだれ込む。さすまたを持って、ハトリを周りから取り囲んだ。
「狂気病、滅ぶべし!」
儂が呼んでおったのだ。メイスケの頼みと、メイスケを助けてくれるものと信じて。
だが、違う。今においては只邪魔なだけだった。もうすぐ、もう少しで、ハトリを救えるものと思うておったのに。
「ハトリ! 待て、違うハトリ――!」
連れていかれる。周囲をさすまたで封じられたハトリは、逆らう事なく抵抗するもなく、歩かされていった。
儂はまた、大切な人の傍を引き離された。
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