-2-37 また、あした。
「おはよう、エン」
呼ばれて目を開くと、トオナがこちらを見つめていた。
「ああ……おはよう」
呼び返すと、××はにこりと笑う。
「今日も良い天気だぞ。先生が許してくれるのであれば、外を歩くのも悪くはないの」
「許してくれるのか?」
「その時はやむを得まい。実力行使あるのみぞ」
「返り討ちに遭うぞ」
力技など通じる筈がないだろうに。先生がそんなに甘い筈がない。
思っていると、くすりとトオナは笑った。
「何か、可笑しいか」
「そんな事はない。いつもの通りだ。意地悪だの」
トオナが笑う。
「人の顔を見て意地悪とか。酷い奴だな」
「まったくだの」
そう自嘲して、窓際へと歩む。差し込む光が彼女を包んだ。
「まだ早い時間というのに日が強いの……夏はまだ、近くにあるのだな」
そう言う彼女の顔が、とても眩しい。横顔。××の横顔――。
「……なあ」
思わず、呼び掛けた。
「ん? 何か?」
覗き込む。そう……トオ、ナ、の顔が。
「目やにが付いている」
「何?」
目を擦る。眉間の辺りに指をやり、目を瞬かせる。
「……付いておったのか?」
「気のせいかも知れない」
……睨まれた。朝から少し冗談が過ぎたか。
「冗談だ。悪かった」
言うと、少しの間頬を膨らませ、不機嫌を露にしていたが、すぐに笑みを現して許してくれた。
いけない。最近物忘れが激しいとは思うけど、今は特に酷く思える。あろう事か……一緒に居る××の名前を度忘れするなんて、寝惚けが過ぎるな。
何気なく、窓の外を見る。外は雲さえ見えず、夏の日差しが辺りを包んでいた。
「なあ」
ふと、思い出した。窓から見える、外の景色から。
その幾つかの中に、あった筈。私達にしか知られていない、あの場所の事。
「秘密の場所、あっただろう」
「何?」
「海のすぐ傍だ。寝転がって、空を見ていた」
あの、背高草の海を越えた、平原。
「誰にも言った覚えがないのに、お前はいつの間にか来ていたな」
「うむ……」
思いを巡らせるように、窓の外を見やるトオナ。
その顔が――どこか、なんとも言えないような顔をしていた。例えるなら……寂しそうな表情をして。
「思い出しただけだ。どうなっているんだろうな。あそこは」
家がなくなって以来――そんな事を口にするのは初めてだった。
只知りたかった。××と一緒に居た場所が、変わらずにあるか。あの景色が、今も見られるのか。
「そうか……思い出す事は良い事だ」
××は、小さくくすりと笑った。
「あそこは……うむ。エンが良くなったら、いずれ訪れてみるとしようぞ」
それは楽しみだ。
あの風、あの海、あの空に飛ぶ一羽の鳥と、風に吹かれて揺蕩う雲。
その遠くを見上げて、風の中で眠る。
それは至福の時だった筈。
いつから、それがなくなってしまったのか……それだけ思い出せずにいる。
「腹が減ったであろ? 朝餉にしようかの。序でに茶も振舞おうぞ」
××が、話を変えて私に向かう。
「お茶? 用意出来るのか」
単純な疑問に、××はふふっと笑った。
「儂はな、只黙って茶をすすっておった訳ではないのだ。密かにハトリの秘伝を盗み取ろうと、努力をしておったのよ」
凄まじく自慢げだった。あの猫舌の裏で、そんな涙ぐましい努力があったのか。
「そうして出来た納得の味だ。存分に味わうが良い」
そうまで言うなら、気にならない筈がない。あの母さんから手に入れた、彼女の味。
――まさか、“外れ”が出ては来ないだろうけど、
いや、それは野暮な心配だろう。
「出来るなら、最高の当たりをお願いしたいところだけどな」
純粋に楽しみだ。例え“外れ”が出て来たとしても、今なら余裕で飲み干せよう。
「では、朝餉と共に用意しよう」
言って、台所に向かおうとする彼女を、微笑みながら見送る。
「うん、出来るだけ早く頼もう」
「元気だのう……大人しゅうしておるのだぞ?」
大人しゅう、か。
……出来るかなあ。
外は明るい。いい天気。
風が鳴く。ひゅうひゅうと木々の葉を揺らす。
青々色の葉っぱが、枝と一緒に揺れて、がさがさと音を鳴らす。
……もう駄目だなあ。
……気付いていた。全部。
今になって、解っていなかったものが解った。
私が、理不尽に消えようとしていて、
母さんも父さんも居なくて……エンも居ない。
我慢をしていたけど、もう駄目そう。
気を抜くと、意識が剥がれる。必死で留めようと思っても、それに抗う事が出来そうになかった。
……それでも。先生は知らないようだったし、
トオナは勿論。
だから私も黙っていた。
全員を、自分をも騙して、治っていると見せ掛けて、
――それで幸せのままだったら良かった。
――日々、
私の意識は、悲鳴を上げていった。
薄れよ、薄れよと。
……そして消えろと。
それが一番幸せなのだと、言われた気がしていた。
……出来るか。
あの子が傍に居るのに、それを残してなんて。
……絶対に泣く。落ち込ませる。
立ち直れないかも知れない。
……させたくない。
なのに、
今は、××の背中が、
遠い。
――強い薄れが、意識を持っていく。
行ってしまう。
××が行ってしまう。
私に背を向け、
向こう側へ、私の行けない所へ、帰ってしまう。
行って欲しくないのに。
あ。
頭が、白む。
――遠い。
そこが、遠い――。
薄まる――。
薄く――。
消える。
零れていく。
白に覆われるように――××が、溶けていく。
あの人が――見えない。
大切な人――。
大好きな人――だった筈。
……どこ……?
――解らない。
それが、一体誰だったか。
解らないけど――。
……まだ、居る。
そこに、居る。
多分。
だから私は。
せめて私は。
いつものそれを、あいつに伝える。
また、明日――。
言葉は、空気を伝わらなかった。
伝えるべき言葉が、届かない。
手も振った。ふるふる。
それも、××は見る事がなく。
でも――伝わる筈。
私は、言った。
ちゃんと、言った。
だから、××。
約束したぞ。
また、明日と。
――。
遠くはない。
また、会える。
明日になれば。
眠りに就いて、
それが覚めれば。
その時はまた、
笑ってまた、一緒に、居られる。
――誰かが。
誰か。××という人と。
私の好きな人と――。