-2-33 幸せをくれた
――目が覚めると、いつものようにトオナが傍に居た。寝台の傍に膝を付いて、手を布団の上に置いている。
「……おはよう。エン」
相変わらずぎこちない挨拶。そこだけ、妙に雰囲気が違っているんだ。
「……おはよう」
眠いながらも、そうして挨拶を返すと――変わっていつもの調子に戻る。
「うむ。今日はな、良い魚が手に入ったのだ。ヤマメだ。エンの好物であろう?」
嬉々とした声。その言葉で、眠気はしっかりと覚めた。
ヤマメか……確かにそれは好きなものだ。
「塩焼きにするか? それとも味噌もあるのだ、なかなかに良いものが作れるぞ」
トオナはそのまま台所へと向かう。手に持つのは布に包まれた魚。好物なんだけど、ここしばらく食べた覚えがない。大歓迎だ。
「ああ、お前の好きにやってくれて構わないぞ」
「そうか、ならば味噌を使わせて貰おう。塩ばかりでは栄養が偏ってしまうからな。儂独自の味を存分に味わわせてやるぞ」
「独自の味……?」
そこに、えも知れない引っ掛かりがあった。
何かと言う以前の、危険信号――。
「む、何か文句があるか」
「いや……独自の味、なんて言われると、何かいい思い出がない気がする」
「案ずるな、味は保障するぞ。……それとも儂を信用しておらぬのか? それならば期待に応えてやっても良いが?」
悪戯な笑みと、悪戯な言葉。これだと本気で何かをやりかねないな。
「んあ、いや、済まない。まともなものを頼む」
素直に引いておく。折角の好物を台なしにされては敵わない。美味い物は美味いままが一番だ、それが食い物に対しての最大限の敬意になる、と思う。
「うむ、しばしの間待っておれ」
手元の布、その魚に目を向け、トオナは台所に向かおうとする。
いつも通りの姿、長く延びる黒の後ろ髪。
――見ていると。急にそれが遠退いていくように思えた。
そんな筈はない。トオナは確かに今ここに居る。部屋を出て行って、見えないけど、近い場所に居る。
なのに、それは遠くなっていく。見た目には何も変わらないのに、まるで歪むように、意識の奥が溶けていく。違う、遠くなんてない。そんな筈はないのに。
……なんだろうか、この違和感。
確かめるように、私も部屋を出て、台所へ行く。
そうしてトオナの背に向かう。只料理にのみ集中し、殆ど動かないその姿。
居る。近付いているのに、まだ疑う。
これは本物なのか。この姿は、私の知る確かな、トオナなのか。
見えているその姿が、嫌に薄い。響く音も、動きも、匂いも、全てが遠かった。
まるで硝子の向こうのよう。
触れようとして、少し留まる。
これがもし、偽物なら。
――怖い。
そんな事がある筈はないのに、今一つの確証が持てずにいる。
なら、いっそ。
弱々しい確証で触れるくらいなら。
思い切って――。
「あ……」
そのまま、包み込む。
突然の事に驚いたのか、トオナが声を漏らした。
だがそこに拒絶はなかった。私が触れた、その瞬間にさえ。
……確かに、あった。
まだ近くに居てくれた。
「手元が狂ってしまうぞ……そんな事をされると」
嗜める、だが私には、その声さえも――。
「邪魔は、しないから。少しの間だけ……」
なぜだか、縋るものが欲しかった。
悲しくもないのに。泣きたい訳でもないのに。どうしようもなく。
気持ちだけが、一瞬、自分でも解らない程に幼くなっていた。
「詮無い奴だの、エンは」
少し笑みを浮かべて、トオナは調理に戻る。
……結局、それが終わるまで、ずっと抱き付いていた。
出来上がったものは、ヤマメの味噌焼きと、ご飯と味噌汁。
薄く湯気の上がるそれを、二人して卓に座り、頂く。
「うむ。儂の腕もまだ錆びてはおらんかったな」
……確かに、美味い。
「うん。美味いぞこれは」
素直な感想を述べてやる。
「っ、――」
するとこの子、顔をどんどん赤くしていって、そして袖で顔を覆ってしまう。
「な、何を言い出すのだ突然っ」
「いや、素直な感想を言っただけだぞ」
おかしな事なんて言っていない。なのにトオナは顔を隠す。
照れた時の、いつもの事。その様子の方が可笑しくて、笑えてしまう。
「わ、笑うな虚け者っ!」
どうしろと。
……楽しい時間は、すぐに過ぎ行く。
それは道理だ。解っている。
解っているのに。
「では……また明日な」
部屋が暗くなって来た頃。それを言って、私達は別れる。トオナが、部屋の扉に手を掛けた。
「ああ。また、明日」
その言葉を聞いて、トオナは微笑みながら部屋を出ていった。
また明日。
言葉にしてみれば、なんとも小さなもの。
一言。そんな小さな結び付き。あいつとの接点。
また、明日。
そんなに大層な言葉だっただろうか。
少し昔までは、なんの気もなしに言っていた筈なのに。
また明日。
なぜかその言葉が頭に響く。
夢で聞いたような言葉。
それが一体誰の言葉なのか、どうしてもその先に入る事が出来ない。
――トオナの声だ。
そう思うと、少し変な気分になった。
例えば、先生の声だ。
そう思っても、あまり変な気分にならない。
――これは、トオナだ。
そう思った。
でも一瞬だ。
違う……と思った。
いや、そうだと思うのも確かだ。でも、全部じゃない。
トオナ以外が、ある気がした。
でも解らない。
誰だか解らない。
また明日。
その言葉を守ってくれる人は、その日の内には現れない。
ずっと遠くにあった。
思えばあの時――あいつの姿が。
あいつの声も。
あの、約束の言葉も。
どれもが、遠くに感じていた。